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スヌーピーミュージアム:スヌーピーと過ごす、チャールズ・M・シュルツが描いたやさしい日常

本日は、東京の町田にあるスヌーピーミュージアムに来ました。 東京都町田市にあるグランベリーパークは、ショッピングや食事を楽しめるだけでなく、特に『ピーナッツ』やスヌーピーファンにとっては特別な場所です。 このパークには、『ピーナッツ』の世界を楽しめるスヌーピーミュージアムがあります。原作者である漫画家チャールズ・M・シュルツが描いた愛らしいキャラクターたちの世界に触れることができ、訪れる人々を魅了しています。 『ピーナッツ』は1950年にアメリカで連載が始まったコミックで、スヌーピーやチャーリー・ブラウン、ルーシー、ライナスといった個性豊かなキャラクターが織りなす日常を描いた作品です。その温かくユーモラスな作風は、世代を超えて世界中で愛され続けています。 漫画家のチャールズ・M・シュルツは、50年以上にわたり『ピーナッツ』を描き続けました。彼の作品には深い人間性があり、友情や人生のささやかな喜び、時には切なさも丁寧に描き出しています。そのため、『ピーナッツ』は単なる子ども向けの漫画を超え、多くの大人にも共感を呼んでいます。 スヌーピーミュージアムは、そんなシュルツの作品や彼自身の人生について詳しく知ることができる施設です。原画の展示はもちろん、シュルツの制作風景や『ピーナッツ』が生まれた背景を紹介する貴重な映像資料も充実しています。さらにミュージアムショップでは、スヌーピーやその仲間たちをモチーフにしたオリジナルグッズも多数販売されており、ファンにとっては見逃せないスポットです。 グランベリーパークを訪れた際には、ショッピングや食事とともに、ぜひスヌーピーミュージアムにも立ち寄ってみてください。チャールズ・M・シュルツが描いた『ピーナッツ』の世界に浸りながら、心温まるひとときを過ごすことができるでしょう。 旅程 東京 ↓(JR/東急田園都市線) 南町田グランベリーパーク駅 ↓(徒歩) スヌーピーミュージアム ↓(徒歩) 南町田グランベリーパーク駅 関連イベント 周辺のスポット 地域の名物 関連スポット リンク SNOOPY MUSEUM TOKYO SNOOPY MUSEUM TOKYO | スヌーピーミュージアム / 南町田グランベリーパーク - PEANUTS Cafe / ピーナッツ カフェ | 中目黒・神戸・スヌーピーミュージアム

岡本太郎記念館:爆発的インスピレーション!

表参道の近くにある岡本太郎記念館に行ってきました。 岡本太郎記念館は元は岡本太郎さんの住まいとアトリエです。 岡本太郎さんと言えば、太陽の塔など少し変わった形のものが多く、今までは正直全く理解できませんでした。 この記念館では岡本太郎さんの芸術が縄文文化からも来ていることを知りました。 岡本太郎さんは芸術家として多くのことを多くのことを学ばれていますが、それだけでなく民俗学についても修められています。 私は、作者の名前の残っていない古代の作品、製品に興味があり、特に日本の縄文時代から古墳時代に作られたものを博物館で眺めるのが好きだったので、岡本太郎さんと縄文の関係の説明を観て、急に興味が湧いてきました。 まだ、芸術については理解できてないことが多いですが、こういったことを通して少しずつ知りたいと思います。 旅程 表参道駅 ↓(徒歩) 岡本太郎記念館 ↓(徒歩) 表参道駅 周辺のスポット 根津美術館 表参道ヒルズ 地域の名物 関連スポット 川崎市岡本太郎美術館 リンク 岡本太郎記念館 | The Taro Okamoto Memorial Museum

カシマサッカーミュージアム:地方都市・鹿嶋で味わう、スポーツと歴史の散歩道

城県鹿嶋市にあるカシマサッカーミュージアムを訪れました。目的は鹿島神宮への参拝でしたが、その帰り道、せっかく鹿嶋市まで来たのだからと足を伸ばしてみることにしたのです。 カシマサッカーミュージアムは、鹿島アントラーズのホームであるカシマサッカースタジアムの中に位置しています。鹿島神宮から歩いて向かう道すがら、遠くに見えてくるスタジアムの大きな姿が印象的でした。普段、サッカーの試合が開催される日は、きっと多くのサポーターでにぎわうのでしょうが、この日は特にイベントもなく、スタジアム周辺も人影はまばら。地方都市らしい静けさが漂い、どこか非日常の雰囲気を味わえました。 ミュージアムの中も来館者は少なく、ゆったりと展示を見て回ることができました。入り口では、Jリーグ黎明期を象徴するジーコの大きな写真が来場者を迎えてくれます。1990年代、Jリーグが誕生した頃、よくテレビでサッカー中継を観ていた私には懐かしい光景です。 館内には歴代のボールやユニフォーム、シューズなどが展示され、サッカーファンでなくとも日本サッカーの歩みを感じることができます。最近はあまりサッカーの試合を観ていませんでしたが、展示の中には見覚えのある選手の名前や顔も多く、思わず足を止めて見入ってしまいました。 ミュージアムを見学した後は、スタジアムの観客席にも立ち寄ることができました。誰もいない広々としたスタジアムを静かに眺めていると、ここで繰り広げられる数々のドラマや歓声が、少しだけ感じられるような気がします。日常の喧騒から離れた静かな時間の中で、スポーツの持つ熱気や歴史の重みが静かに心に残りました。 なお、サッカーの試合がない日は、スタジアム周辺の交通機関も運行していないことが多いようです。そのため、帰りは鹿島神宮まで少し遠い道のりを、のどかな地方の風景を楽しみながら歩いて戻りました。人の少ない静かな鹿嶋の町を歩くことで、都会とは違う空気や時間の流れを味わうことができた一日でした。 カシマサッカーミュージアムは、サッカーに詳しくなくても、地域の歴史や文化、そしてスポーツが持つ力を感じられる場所です。鹿島神宮とあわせて訪れることで、より深く鹿嶋の魅力を知ることができるのではないでしょうか。 旅程 (略) ↓(徒歩) 水郷潮来あやめ園 ↓(徒歩) 潮来駅 ↓(JR鹿島線) 鹿島神宮駅 ↓(徒歩) 塚原ト伝生誕の...

鹿島神宮:鹿が導く参道、ボールが躍る街、凶を結んで道ひらく

午前中に水郷潮来あやめ園の静かな水辺を歩き、午後は鹿嶋市へ移動して鹿島神宮に向かいました。 鹿島神宮駅から参道へ向かう途中、「塚原卜伝生誕の地」の案内と、凛々しい卜伝の銅像に出会います。戦国期の剣豪がこの地に生まれ、のちに“鹿島の武神”と結びついた剣術を大成したと思うと、参拝前から背筋が伸びました。 駅周辺にはアントラーズを思わせるサッカーボールの石像や鹿のモチーフも見かけ、街全体が神社とサッカーの気風でつながっていると感じます。 朱色の楼門をくぐると、空気が一段ひんやりと変わりました。鹿島神宮は東国随一の古社で、御祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)。古くから武の守護神として崇敬されてきました。 現在の社殿群は江戸初期の造営が核になっており、家康が関ヶ原戦勝の奉謝として1605年に造営(のち奥宮本殿へ)。続いて二代・秀忠が1619年に現在の本殿を再建、さらに水戸藩祖・徳川頼房が1634年に楼門を寄進しています。楼門は高さ約13メートル、日本三大楼門の一つで重要文化財です。 参道の砂が柔らかく、両脇の杉が高くそびえ、境内全体が森のように広がっていました。公式案内によれば、境内地は東京ドーム15個分に及び、御手洗池や鹿園など見どころが点在します。時間の流れがゆるむようで、都会の喧騒をすっかり忘れます。 まずは大きな鳥居をくぐっておみくじを。結果は人生初の「凶」。仕事も健康も順調な今こそ気を引き締めよう、と軽く笑いながら結び所に結びました。 拝殿で手を合わせ、さらに奥へ。静けさの中に人の往来が絶えず、古社ならではの息づかいを感じます。 奥宮のあたりは、江戸の将軍家の庇護を物語る建築が続き、歴史と信仰が重なり合う濃密な一角でした。 そこから林間の小道をたどって「要石(かなめいし)」へ。地中深くまで伸びるとされる霊石で、武甕槌が地震を起こす大鯰(なまず)を鎮めるという伝承で知られます。鹿島の要石は“凹”、対をなす香取神宮は“凸”という言い伝えもあり、東国の大地を押さえる要(かなめ)の物語に思いを馳せました。 境内では松尾芭蕉の句碑にも足を止めました。芭蕉は1687年に鹿島詣でを記し、『鹿島紀行』として残しています。森の匂いに混じって、旅の余韻のような静けさが漂っていました。 そして鹿園へ。奈良と縁の深い“神鹿”が今も大切に守られ、参道の喧騒から一歩離れた小さな聖域のよ...

塚原ト伝生誕の地:鹿島神宮への道すがら出会った剣聖のまなざし

鹿島神宮を目指して鹿島神宮駅を出て歩き始めると、思いがけない出会いがありました。駅から神社へ向かう道の途中、「剣聖 塚原卜伝生誕之地」と書かれた大きな看板と、公園の一角に立つ堂々とした卜伝の像が目に入ったのです。目的地はあくまで鹿島神宮でしたが、戦国時代の剣豪として名前だけは知っていた人物ゆかりの場所に偶然行き当たったことがうれしく、足を止めて眺めていきました。 石像の卜伝は、両手で刀の柄に手を添え、静かにこちらを見つめていました。実際の顔立ちは分からないものの、「生涯無敗」とも伝わる剣士にふさわしい、隙のない立ち姿です。周囲には生誕地を示す石碑もあり、駅前の住宅や車の往来を背景にしながらも、この一角だけ時間が少しだけ戦国時代にさかのぼったような、不思議な空気をまとっていました。 案内板などによると、塚原卜伝は延徳元年(1489年)、常陸国一之宮である鹿島神宮の神職・卜部家の次男として生まれ、のちに沼尾の塚原城主・塚原安幹の養子となったとされています。幼いころから実父からは「鹿島の太刀」、養父の系統からは天真正伝香取神道流を学び、その二つの流れを統合して「鹿島新當流(鹿島新当流)」を開いた人物です。十代で廻国修行に出て各地の武士と立ち会い、のちに三度の修行でおよそ生涯の半分近くを旅と鍛錬に費やしたともいわれています。 修行を終えて鹿島に戻った卜伝は、鹿島神宮に千日籠もって精神修養に励み、その中で自らの剣の到達点ともいえる「一之太刀」を会得したと伝えられます。この太刀は「国に平和をもたらす剣」とされ、卜伝は「剣は人を殺める道具ではなく、人を活かす道である」という考えのもと、将軍足利義輝や多くの大名たちにも剣を教えました。戦乱の世にあっても平和を志向したその姿勢が、彼を「剣聖」と呼ばせた所以なのだろうと想像します。 ネットで調べてみると、鹿嶋市内には卜伝の墓が梅香寺にあり、そちらも「パワースポット」として知られているようです。ただ、今回はあくまで鹿島神宮への参拝が主目的で、墓所は市内の別の方向にあるため、時間的に足を伸ばすのは断念しました。それでも、生誕の地に立つ銅像だけでも、鹿島の地と卜伝のつながりを実感するには十分でした。 こうして「塚原卜伝生誕の地」は、鹿島神宮への道すがらふと立ち寄った小さな寄り道となりました。しかし、その寄り道のおかげで、鹿島という土地が単に古...

日本オリンピックミュージアム:幻となった1940年五輪と、戦争からの復興の象徴1964年東京オリンピック、コロナ下の2021年大会

新宿にある日本オリンピックミュージアムに来ました。 東京・新宿区にある日本オリンピックミュージアムは、オリンピックの歴史や理念、そしてスポーツの持つ力を体感的に学べる場所です。2019年(令和元年)9月にオープンし、国立競技場のすぐそばに位置していることから、オリンピックファンはもちろん、スポーツに関心のある多くの人々が訪れる注目のスポットとなっています。 ミュージアムの建物は、ガラスを多用した現代的なデザインが印象的で、館外には大きなオリンピックシンボルのモニュメントが設置されており、訪れた人たちのフォトスポットとして人気を集めています。展示は1階と2階に分かれており、オリンピックの創設から現在に至るまでの歩みを映像や資料、実物のトーチやメダルなどで辿ることができます。 特に目を引くのは、体験型の展示コーナーです。ここでは、アスリートの動きに挑戦できるシミュレーションや、走る・跳ぶといった動作を通してスポーツの難しさや面白さを実感できるコンテンツが用意されています。子どもから大人まで夢中になれる内容で、家族連れにもおすすめです。 また、日本で開催された1964年(昭和39年)と2021年(令和3年)の東京大会、1972年(昭和47年)の札幌大会、1998年(平成10年)の長野大会に関する資料も充実しており、それぞれの大会の特色や時代背景、選手たちの活躍が丁寧に紹介されています。パラリンピックに関する展示も設けられており、共生社会に向けた取り組みや、障がい者スポーツの魅力についても深く学ぶことができます。 ミュージアムの営業時間は朝10時から夕方5時までで、入館は閉館の30分前までとなっています。月曜日は休館日ですが、祝日の場合は開館し、翌日が休館となることもあります。入館料は大人500円、高校生以下は無料と、気軽に立ち寄れる価格設定なのも嬉しいポイントです。 日本オリンピックミュージアムは、オリンピックを通してスポーツの素晴らしさや人間の可能性に触れられる場所です。展示を見るだけでなく、実際に身体を動かしながら学べるユニークな空間となっており、訪れるたびに新たな発見があります。東京観光の一環として立ち寄ってみるのもおすすめです。 1964年東京オリンピック オリンピックと聞くと、平和の祭典というイメージがまず浮かびますが、日本がその理念と向き合った歴史には、光と影...

伊藤博文旧宅 / 伊藤博文別邸:幕末から明治へ、ひとりの男の足跡、日本初の総理大臣が育った家

松陰神社からすぐ近くの伊藤博文旧宅に行きました。 山口県萩市を訪れると、日本の近代化を推し進めた初代内閣総理大臣・伊藤博文の足跡をたどることができます。その中心となるのが、彼が幼少期を過ごした「伊藤博文旧宅」と、明治期に建てられた「伊藤博文別邸」です。 伊藤博文旧宅は、萩市椿東にある茅葺き屋根の素朴な平屋建ての家です。現在も当時の姿をとどめており、まるで時が止まったかのような空間が広がっています。この家で伊藤博文は1841年(天保12年)に生まれ、貧しい足軽の家庭で育ちました。室内に入ると、土間や囲炉裏、畳敷きの部屋があり、19世紀中頃の庶民の暮らしを肌で感じることができます。決して豪奢ではないその佇まいが、後に日本の指導者となる人物の原点であることに、しみじみとした感慨を覚えます。 旧宅のすぐ隣には、伊藤博文別邸があります。こちらは明治時代に建てられたもので、彼の功績がたたえられるとともに、政界の要人としての晩年の暮らしぶりを垣間見ることができます。木造の趣ある建物で、和洋折衷のデザインが特徴的です。内部には伊藤博文に関する資料や写真、当時の家具などが展示されており、明治という時代がどのように形作られていったのかを感じさせてくれます。 萩市のこの一角は、吉田松陰の松下村塾や松陰神社など、幕末から明治にかけて活躍した志士たちのゆかりの地が多く残っているエリアでもあります。その中でも、伊藤博文旧宅と別邸は、日本の未来を切り拓いた一人の青年の出発点と、その歩みの到達点を静かに物語っています。 歴史に興味のある方はもちろん、明治という激動の時代に思いを馳せたい方にとっても、ぜひ訪れていただきたい場所です。萩の町並みに溶け込むように佇むこの二つの建物を巡ることで、きっと伊藤博文という人物がより身近に感じられるはずです。 伊藤博文 伊藤博文(いとう ひろぶみ)という人物は、日本の近代化を語るうえで欠かすことのできない政治家です。幕末に長州藩の志士として活動を始めた彼は、明治維新後の日本において中心的な役割を果たしました。とりわけ、立憲政治の導入や憲法の制定に尽力した功績は、今日の日本の政治体制の礎とも言えるものです。 伊藤博文のもっとも大きな功績のひとつは、大日本帝国憲法の制定に深く関与したことです。明治政府が近代国家としての体制を整える中で、伊藤は憲法の必要性を早くから認識...