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リガ航海史博物館:リガ大聖堂に抱かれて、リガ800年の航海の記憶をたどる

聖ヨハネ教会から北西に進み、リガ大聖堂に向かいました。リガ大聖堂には、リガ航海史博物館(Museum of the History of Riga and Navigation)が併設されています。

リガ旧市街にたたずむ「リガ航海史博物館」は、ヨーロッパでも最も古い博物館のひとつとして知られています。その起源は18世紀にまでさかのぼり、1773年にリガの医師ニコラウス・フォン・ヒムゼルが収集した私蔵コレクションが母親の手によってリガ市に寄贈されたことから始まりました。このコレクションが礎となり、現在の博物館が設立されたのです。

博物館はリガ大聖堂の建物群の一部に位置しており、その歴史的建築物とともに訪れる者を魅了します。特に18世紀に建てられた古典主義様式のコラム・ホールは、かつて図書館として使われていた空間で、現在も会議や特別展示など多目的に活用されています。こうした空間そのものが、リガという都市の文化的層の厚さを物語っているように感じられます。

展示室は16に分かれ、リガの誕生から現代に至るまでの約800年にわたる歴史と、ラトビアの航海文化の歩みを紹介しています。館内を巡ると、中世から近代にかけての工芸品や武具、交易の品々が目を引きます。特にハンザ同盟時代の計量器や、リガで実際に使われていた処刑人の剣などは、歴史の重みを肌で感じさせる迫力があります。

リガを旅するならば、石畳の美しい街並みを歩いた後に、ぜひこの博物館を訪れてみてください。きっと、過去と現在が織りなす物語に心を動かされることでしょう。

大北方戦争

17世紀の終わり、バルト海沿岸はスウェーデンの影に覆われていました。グスタフ2世・アドルフ以来の武勲に支えられ、スウェーデンは北方の覇者として君臨し、バルト海を「スウェーデンの湖」とも呼ばれるまでに支配を広げていました。しかし、その栄光は永遠ではありませんでした。1700年、若き王カール12世の登場とともに始まった「大北方戦争」は、北ヨーロッパの勢力図を塗り替える大きな転換点となります。

戦争の火蓋が切られたのは、スウェーデンの周辺諸国が連携して攻撃を仕掛けたときでした。ロシアのピョートル1世、ポーランド・リトアニア共和国のアウグスト2世、デンマーク=ノルウェーのフレデリク4世──彼らは18歳のカール12世を侮り、好機と見て一斉に攻め込みます。ところがその読みは大きく外れました。カール12世は俊敏かつ大胆な軍事行動を展開し、まずデンマークを屈服させ、つづくナルヴァの戦いではロシア軍を打ち破ります。その若き王の姿は、ヨーロッパ中を驚かせるものでした。

勢いに乗ったカール12世は、敵の首魁たるアウグスト2世をポーランドから追放し、傀儡のスタニスワフ・レシチニスキを王位につけることに成功します。しかし、この瞬間がスウェーデン帝国の絶頂であり、同時に転落の序章でもありました。やがてカール12世はロシア遠征に乗り出しますが、その地は彼にとって過酷すぎました。1709年、ポルタヴァの戦いにおいてスウェーデン軍は壊滅し、王自身もオスマン帝国へと逃れます。

この敗北以降、ロシアは反撃を強め、次々にバルト海沿岸の都市を奪回していきました。ピョートル大帝の手によって建設されたサンクトペテルブルクは、ロシアの新たな海洋国家としての顔となり、北欧世界に新たな風を吹き込む象徴ともなります。一方、スウェーデンでは帰国したカール12世が徹底抗戦を図りますが、1718年のフレデリクスハルド要塞包囲中に銃弾に倒れます。その死をもって、戦争は実質的に終焉を迎えました。

1721年に結ばれたニスタット条約によって、戦争は公式に終結します。ロシアはエストニア、リヴォニア、カレリアなどバルト海沿岸の広大な領土を手にし、スウェーデンは海洋帝国としての地位を失います。そして、この戦争はロシア帝国がヨーロッパ列強の一角に踊り出る契機となり、近代世界のパワーバランスが大きく変化するきっかけとなったのです。

北方戦争は単なる地域紛争ではありませんでした。それは、若き王の勇猛果敢な闘いと、大帝の国家改革の結晶とが激突した、壮大な歴史のドラマでした。そして今なお、エストニアのナルヴァ城やロシアのピーター・アンド・ポール要塞、スウェーデンの海軍博物館などには、その激動の痕跡が静かに語り継がれています。バルト海を渡る風に耳を傾けると、遠い昔の戦の足音が聞こえてくるかもしれません。

旅程

ホテル

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聖ローランドの像

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ブラックヘッドハウス

↓(徒歩)

(略)

↓(徒歩)

聖ペテロ教会

↓(徒歩)

聖ヨハネ教会

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リガ航海史博物館

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リガ大聖堂

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三人兄弟

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(略)

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スウェーデン門

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火薬塔

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猫の家

↓(徒歩)

(略)

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