東京・江東区のマダム・タッソー東京を訪れました。蝋人形館というと、どこか「展示を眺める場所」という印象を持っていましたが、実際に足を踏み入れると、鑑賞というより“場面の中に入り込む体験”に近く、想像していた以上に記憶に残る時間になりました。
そもそもマダム・タッソーは、18〜19世紀に活躍したマリー・タッソーに由来する蝋人形館です。肖像を残す手段が限られていた時代、蝋で人物を精巧に再現する技術は、単なる娯楽というより「人を記録し、記憶する」ためのメディアでもありました。とりわけ歴史の転換点では、権力者や著名人の姿が求められ、蝋人形は世相や時代の空気を映す鏡のような役割を担ってきたのだと思います。写真や映像が当たり前になった現代でも、目の前の“実寸の存在感”が生む迫力は、別の種類のリアリティとして成立しているのが面白いところです。
入場料を支払い、館内移動のためにエレベーターに向かいました。ボタンを押して待っていると、扉が開き、すでに中に人が乗っていました。扉の前に立っているので、自然に「すみません」と声をかけ、前を開けて入ろうとしたのですが、相手は微動だにしません。出てこないことに違和感を覚えてよく見ると、それはブルース・ウィリスの蝋人形でした。入口の最初の数十秒で、こちらの認識が現実からずらされる感覚があり、思わず背筋が伸びました。蝋人形館の“怖さ”というより、“本物と同じ距離感で人が立っている”ことが、人間の判断をここまで簡単に狂わせるのかという驚きでした。
エレベーターで移動して展示エリアに降りると、そこにはジョニー・デップをはじめ、安倍首相、ダイアナ妃、オバマ大統領、マイケル・ジャクソン、オードリー・ヘップバーンなど、非常に多くの有名人が並んでいました。名前だけでも豪華ですが、実物の迫力はさらに上です。肌の質感、目の光の入り方、髪の毛の密度、衣装の皺の落ち方まで、細部が破綻せず、近づけば近づくほど「人がそこにいる」ように感じられます。写真で見るリアルさと、同じ空間で対峙するリアルさは別物で、こちらが一歩引いたり、思わず表情を整えたりするのが不思議でした。
特に印象的だったのは、単体の人形を並べるだけではなく、舞台装置ごと空間が作り込まれている点です。大統領室のような政治の舞台、スポーツのフィールド、映画のワンシーンの再現など、背景まで含めて“その人らしさ”が立ち上がるように設計されていました。蝋人形のリアリティは顔の再現度だけでは完成しないのだと気づかされます。人は顔つきだけで人物を判断しているわけではなく、立ち位置や姿勢、照明、周囲の小物や空気感まで含めて「この人はこういう場所にいるはずだ」という納得を作っているのだと思います。
館内を進むうちに、蝋人形館が単なるスターの博物館ではなく、ある種の“近現代史の縮図”にも見えてきました。政治、スポーツ、映画、音楽といったジャンルは、それぞれの時代の欲望や価値観が最もわかりやすく表れる領域です。誰が選ばれて展示されているか、どんな場面で切り取られているか、その並び方に、時代が求めた「象徴」が反映されます。歴史は教科書の出来事だけで作られているのではなく、私たちが何に熱狂し、誰を記憶に残そうとしてきたかの集合でもあるのだと、展示の豪華さを眺めながら考えました。
そして、ジョブズとアインシュタインが並ぶ場面では、思わず足が止まりました。もし二人が同じ時代に生き、対談していたらどんな話になっただろう、と想像が膨らみます。科学の理論が世界の見方を変え、技術のプロダクトが社会の振る舞いを変える。異なる領域の天才が隣り合って立っているだけで、過去の偉人が“教科書の中”から“同じ空間にいる人”へと近づき、こちらの想像力を引き出してくれるのが、蝋人形というメディアの強みだと感じました。
マダム・タッソー東京を歩き終えた頃には、有名人を見たという満足感以上に、「リアルとは何か」「人は何をもって“その人らしさ”を感じるのか」という感覚の揺さぶりが残っていました。入口でブルース・ウィリスを人間だと誤認した瞬間から、展示空間の作り込み、歴史と大衆文化の接点、そして時代を超えた想像まで、一続きの体験として繋がっていたのだと思います。次に訪れるなら、誰の前で足が止まるのか、自分の“記憶の地図”を確かめに行くような気持ちで、もう一度歩いてみたい場所です。
旅程
台場駅
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