遠出を控えている時期なので、家から歩いて中井駅まで向かい、その先に連なる寺町を気の向くままに辿りました。塀越しに見える古い瓦、風に鳴る木陰、読経の微かな響き。そうして出会ったお寺のひとつが、中野区上高田にある曹洞宗の宝泉寺(ほうせんじ)でした。境内は隣接する寺院の墓地と連なって広がり、いかにもこの一帯が寺町として育ってきたことを物語っていました。江戸の市中からこの地へ寺々が移ってきた歴史があり、宝泉寺も創建後に江戸城外から牛込横寺町へ、さらに明治に現在地へと移ってきました。都市の膨張とともに寺社が少しずつ居場所を移し、やがて上高田の静けさの中に落ち着いていった過程を想像すると、寺町の景観そのものが近代東京の記憶の層でできているのだと感じました。
境内を巡るうち、目を引く案内板に出会いました。そこには「板倉内膳正重昌(いたくら ないぜんのかみ しげまさ)墓所」とあり、はじめは名前に覚えがありません。後で調べると、板倉重昌は徳川家康の近習を務め、三河国の深溝(ふこうず)に一万余石を領して深溝藩を立てた大名で、寛永15年(1638)に島原の乱の鎮圧にあたり、原城攻めで戦死した人物でした。三河出身の自分としては、同郷の名をここ東京で見いだしたことに、少し遅れて密かな縁を感じます。江戸の政治や軍事の中枢に関わった家柄の菩提寺が、時を経て中野の寺町に根付いている——そんな歴史の連続性と偶然性を、静かな墓所の前で思いました。
宝泉寺は奥州中村の相馬家や備中庭瀬の板倉家の菩提寺でもあり、境内にはそれぞれの石碑が丁寧に守られています。明治期に現在地へ移ったのちも、地域の年中行事や坐禅会が続けられていることを知ると、寺が単なる史跡ではなく、まちの日常に息づく場であることを実感します。寺町を歩く楽しさは、この生活と歴史が自然に重なって見える瞬間にあるのだと思います。
あの日は、知らない名前に足を止め、帰宅後に少し本や資料を開いただけの小さな寄り道でした。それでも、深溝藩のこと、島原の乱のこと、そして江戸から中野へと移ってきた寺々のこと——いくつもの扉が次々に開いていきました。遠くへ行けない時間だからこそ、歩幅ひとつぶんの範囲に眠る歴史の厚みを確かめられた気がします。寺町の路地を抜けて振り返ると、夏の陽に石塔の影が長く伸び、見慣れたはずの中野の風景が、少しだけ重層的に見えました。
旅程
(略)
↓(徒歩)
願正寺
↓(徒歩)
↓(徒歩)
↓(徒歩)
中野駅
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