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フェリーチェ門/トマージ・ディ・ランペドゥーザ公園:南国の風とタイル枕と、海の音

本日、パレルモのフェリーチェ門に向かいました。。市街地をぶらぶらと歩きながら東へ向かい、やがて視界の先に、海へとまっすぐ伸びる大通りの終点に、その門がどん、と構えているのが見えてきました。片側二車線、合計四車線の道路にはひっきりなしに車が流れ、その真ん中を、門をくぐるかたちでさらに二車線の車列が海へ向かって伸びていきます。現代の交通量を受け止めてもなお広々としているのですから、16〜17世紀にこの門が造られた当時は、さぞかし威容を誇る「最先端の大通り」だったのだろうと想像してしまいます。 フェリーチェ門は、パレルモ最古の大通りカッサーロ(現在のヴィットーリオ・エマヌエーレ通り)が海まで延長された際、その海側の入口を飾るために建てられた門だそうです。シチリア総督マルカントニオ・コロンナが、「どうせならここに相応しい堂々たる門を」と計画し、自身の妻であるドンナ・フェリーチェ・オルシーニの名をとって「フェリーチェ門」と名づけました。建設が始まったのは1580年代で、途中で政治の変化などにより工事が中断しながらも、最終的には1637年頃までかけて完成したと言われています。 門は二つの巨大な塔のような構造からなり、街側に向いた面は比較的おだやかなルネサンス風、海側の面はより装飾的なバロック風と、表と裏で雰囲気が少し異なります。上部にはパレルモの象徴でもある鷲の紋章や、サンタ・クリスティーナとサンタ・ニンファといった女性の聖人像が配され、かつてここを船で訪れた人々は、海からこの門を仰ぎ見ながら「パレルモにやって来た」と実感したのだろうと思います。 第二次世界大戦中には、空爆で門の片側がほぼ崩れ落ちてしまうほどの被害を受けましたが、その後修復が行われ、現在は往時の姿にかなり近いかたちで立ち続けています。とはいえ、門の足元をひっきりなしに車が駆け抜けていく様子を見ていると、「城壁の一部だった防御の門」というより、「長い時間を生き延びてきた歴史的なランドマークが、現代都市の交通の真ん中でがんばっている」という印象の方が強くなります。 門の下をくぐると、空気が少し変わります。石造りのアーチの向こうには、ぱっと視界が開けて海が現れ、その手前に細長く伸びる海辺の公園が広がっています。ここがトマージ・ディ・ランペドゥーザ公園です。作家ジュゼッペ・トマージ・ディ・ランペドゥーザは『山猫(イル・...

マッシモ劇場:ゴッドファーザーの悲劇の舞台、シチリアの華やかな劇場

パレルモ滞在3日目、念願のマッシモ劇場に足を運びました。シチリア最大の都市パレルモの象徴ともいえるこの劇場は、ゴッドファーザー PART IIIの重要な舞台としても有名で、パレルモを訪れるなら絶対に外せない場所だと心に決めていました。 マッシモ劇場の正面に立つと、その堂々としたネオクラシック様式のファサードが青空に映え、まさに「威風堂々」という言葉がふさわしい姿に圧倒されました。イタリア国内でも屈指の規模を誇るオペラハウスであり、ヨーロッパ全体でも6番目の大きさだそうです。劇場の建設は19世紀末、イタリア統一後の活気に満ちた時代に始まりました。設計は建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・フィリッポ・バジーレによって進められ、1897年に完成。その後100年以上にわたり、オペラやバレエ、演劇などの芸術が上演され続けています。 この日は公演は見ませんでしたが、内部を見学できるガイドツアーに参加しました。中に足を踏み入れると、天井のフレスコ画や豪華な装飾、黄金色に輝く欄干が目に飛び込んできて、映画で見た華やかな世界そのままの空間が広がっていました。5階か6階ほどまである客席は螺旋状に並び、歴史あるヨーロッパのオペラハウスの風格を存分に感じられます。意外だったのは、舞台の奥行きや広さです。舞台に立つと、客席部分よりもむしろ舞台裏の方が大きく感じられ、舞台芸術へのこだわりが伺えました。客席自体は思ったよりもコンパクトで、観客一人ひとりに舞台の息遣いが間近に伝わるような設計になっているのでしょう。(当時のカメラでは、暗い舞台ではまともな写真が残っていませんでした。) 劇場の内部を歩きながら、20年前の自分(2025年に書いています)が「いつか正装してここでオペラを観る日が来るだろうか」と想像したことを思い出します。あれから年月が流れ、まだその夢は実現していませんが、あのときの憧れや高揚感は今でも色褪せることがありません。観光として訪れるだけでなく、現地の文化を深く味わうきっかけをくれる場所が、パレルモのマッシモ劇場なのだと改めて感じました。 映画や歴史だけでなく、自分のこれからの夢や人生にも静かに語りかけてくれるような特別な時間を過ごすことができたひとときでした。 旅程 (略) ↓(徒歩) Teatro Politeama Garibaldi ↓(徒歩) マッシモ劇場 ↓(徒歩) ...

コルレオーネ村:ゴッドファーザーの余韻を連れて、シチリア内陸へ

シチリア観光の2日目、映画『ゴッドファーザー』のファンとして、どうしても自分の目で見てみたかったコルレオーネに向かいました。 前日に空港で目にした「CORLEONE」の看板が胸の高鳴りに火をつけ、公共交通の便が限られていることも承知のうえで、思い切ってタクシーを貸し切ることにしました。 車窓には、くすんだ石造の家々が寄り添う古い町並みが点々と現れ、映画の記憶と重なりながら、目的地への期待は静かに膨らんでいきました。 ところが、町の入口で降り立って最初に感じたのは意外さでした。コルレオーネの建物は思ったより新しく、全体として落ち着いた新興住宅地のように整っています。中世の迷路のような旧市街を想像していた身には拍子抜けのようでもありましたが、歩き始めると、小さな店の看板やバルコニーの花、石畳のリズムが、ここが日常の息づく「今」の町であることを穏やかに教えてくれました。 中心の公園、ヴィッラ・コムナーレ・ディ・コルレオーネには観光案内所があり、そこで教会や見どころをいくつか教えていただきました。公園は背の高いヤシの木が並び、像や噴水が陽光を受けてきらめいています。『ゴッドファーザー』の陰翳をまとったイメージから一転、南の島の軽やかな空気が心地よく、ベンチでひと息入れると、旅の緊張がほどけていくのを感じました。 教えていただいたサン・マルティーノ教会(Chiesa Madre)をはじめ、町の教会を巡りながらぶらりと散策しました。ファサードは端正で、内部には素朴な信仰のあたたかさが漂っています。 丘の上にさらに別の教会らしき姿が見えましたが、道筋が分からず、今日は下から眺めるだけにしました。石と白い壁の対比の向こうに、風に揺れる洗濯物やゆっくり行き交う人々の気配があり、観光地というより生活の場としての顔が印象に残りました。 歩きながら、コルレオーネという名前が背負ってきた歴史にも思いを巡らせました。中世にかけて勢力が交錯したシチリアの内陸にあって、ここもまた長い時間を積み重ねてきた土地です。一方で、20世紀以降は犯罪の歴史と切り離せない名として知られ、近年はその克服に向けた歩みも続いてきました。映画が世界に広めたイメージは強烈ですが、実際の撮影の多くは別の村で行われ、スクリーンの「コルレオーネ」は現実の町とは別の顔を持っています。だからこそ、目の前にあるこの静けさは、名前の重...

ノルマンニ宮殿/パラティーナ礼拝堂/ヌォーバ門:ノルマンの栄光とアラブの輝き、シチリアに息づく異文化の交差点

イタリア、シチリア島のパレルモに来ました。パレルモ劇場は映画ゴッドファーザーの重要な場面の撮影に使われ、初代ゴッドファーザー自体がシチリアのコレルオーネ村の出身ということで、今回のシチリア観光の目的はゴッドファーザー関連のスポットです。ゴッドファーザーの前に、初日の本日はパレルモに慣れるために、パレルモ市内の史跡探索をしました。いくつかの教会、博物館などを見た後、ノルマンニ宮殿に来ました。 シチリア島の州都パレルモは、アラブ、ノルマン、ビザンティン、スペインといった多様な文化が交差した都市です。その豊かな歴史を肌で感じられる場所のひとつが、旧市街の一角にたたずむノルマンニ宮殿と、そのそばに立つ壮麗なヌォーバ門です。これらの建築物は、単なる観光名所ではなく、長い年月の中で織りなされた権力と芸術、信仰と統治の物語を今に伝えています。 ノルマンニ宮殿は、もともとは9世紀のアラブ支配時代に建てられたエミール(首長)の宮廷が起源とされています。1072年にノルマン人がパレルモを征服すると、彼らはこの建物をシチリア王国の王宮として大規模に改築しました。とりわけルッジェーロ2世の治世下においては、行政と儀式の中心としての役割を果たし、その後もホーエンシュタウフェン朝、アンジュー家、アラゴン家など、さまざまな王家によって引き継がれていきました。現在ではシチリア州議会の本拠地として使われており、過去と現在が同居する不思議な空間となっています。 この宮殿の中でもひときわ目を引くのが、1132年にルッジェーロ2世の命によって建てられたパラティーナ礼拝堂です。ここはまさにシチリアの多文化的アイデンティティを象徴する空間であり、ビザンティンの金色モザイク、アラブの幾何学装飾、ノルマンの建築技術が見事に融合しています。特にアプスに描かれたキリスト・パンタクラトールのモザイクは、その荘厳さと輝きに目を奪われます。木製の格子天井にはイスラム建築特有のムカルナス装飾が施されており、静謐な空間の中に異文化が共鳴しあっているのを感じ取ることができます。 ノルマンニ宮殿に足を運ぶ際には、ぜひその入口を彩るヌォーバ門にも注目していただきたいです。現在の門は1583年にスペイン副王の命により再建されたもので、チャールズ5世が1535年にチュニス遠征からの帰路にパレルモを訪れたことを記念して建てられました。この...

万里の長城(八達嶺長城):山の稜線をたどる旅、急な坂と緩やかな坂

中国・北京のバスツアーに参加し、紫禁城(故宮博物院)の重厚な歴史を堪能した後、かの有名な万里の長城、八達嶺長城へと向かいました。晩秋の澄み切った空気のなか、バスは市街地を離れ、山々の中へと進んでいきます。車窓からの景色がだんだんと壮大になり、遠くに長城が連なる姿が見えたとき、何とも言えない高揚感を覚えました。 八達嶺長城に到着すると、すぐに小高い山の上へと続く長城の「頂上」が目に飛び込んできます。ガイドさんの説明によれば、左側には勾配の急な「男坂」、右側には比較的ゆるやかな「女坂」があるそうです。どちらを登っても構いません、という言葉に、せっかくなので両方の坂を味わってみようと決めました。時間を半分ずつ割り振り、まずは男坂へと挑みます。 男坂は予想以上に急勾配で、一段一段が高く、すぐに息が切れてしまいました。体力に自信があるつもりでしたが、想像以上の厳しさに、思ったほど先まで進むことができず、途中で引き返すことになりました。それでも、振り返ったときに見えた長城の壮大な風景は圧巻で、遥か昔の兵士たちがここを行き来したことを思うと、感慨深いものがありました。 次に女坂へと向かいます。男坂の後なので「これくらいなら楽勝だろう」と思っていたのですが、こちらも油断できません。坂自体は緩やかなものの、既に足がふらふらで、同じバスツアーのガイドさんも途中で立ち止まりながら登っていました。思わず追い抜いてしまうほどでしたが、お互いに笑い合いながら坂を登ったのも、良い思い出です。 八達嶺長城は明の時代に築かれた区間で、観光地として整備されてはいるものの、その圧倒的なスケールや、周囲の山々と一体となった景観は、まさに中国の歴史の重みを感じさせます。万里の長城という名前の通り、遥か彼方まで続く石造りの壁に、かつてここを守った人々の思いや、時代を超えた壮大な物語を重ねずにはいられませんでした。 帰りのバスに揺られながら、長城の上で味わった息切れや達成感、そして自分の足で歴史の一端に触れた実感が、心地よい疲労感とともに胸に残りました。今でもあの時の山々と、長城の果てしない姿が、鮮やかに心に蘇ります。 旅程 ホテル ↓(バス/ツアー) 紫禁城/故宮博物院 ↓(バス/ツアー) 万里の長城(八達嶺長城) ↓(バス/ツアー) ホテル 関連イベント 周辺のスポット 地域の名物 関連スポット リンク 八...

紫禁城/故宮博物院:皇帝たちの残響が響く、歴史が眠る宮殿、中国五千年の縮図

本日は、現地の日本人向けのツアーで紫禁城(しきんじょう)に来ました。 北京の中心にそびえる紫禁城。この壮麗な宮殿はかつて、明・清の皇帝たちが政を行い、暮らした地でした。そしてその紫禁城こそが、いまや世界最大級の博物館「故宮博物院」として新たな命を得ています。門をくぐった瞬間、500年にわたる歴史と、中国文明の重厚さが静かに、しかし確かに訪れる者を包み込むのです。 故宮博物院は1925年、清朝最後の皇帝・宣統帝(溥儀)が紫禁城を離れた翌年に設立されました。それまで禁中と呼ばれ、皇帝以外の者の立ち入りを許さなかった空間が、一般に開かれたのです。以来、数多くの文化財がこの地に集められ、その数は現在では180万点を超えるといわれています。 展示されている品々は、まさに中国文化の精華です。書や絵画、陶磁器や青銅器、皇帝の衣装や調度品にいたるまで、ひとつひとつが過去の時を静かに語りかけてきます。例えば、宋代の書画には繊細な筆致と精神性がにじみ出ており、眺めるだけで深い余韻が残ります。また、明・清の精巧な陶磁器は、まるで時代そのものが焼き付けられているかのような存在感を放っています。 しかし、故宮博物院が他の博物館と大きく異なるのは、その建物自体が最大の展示品であるという点です。太和殿をはじめとする堂々たる宮殿群は、風水や陰陽五行といった古代中国の思想を反映して綿密に配置されており、その荘厳な空間に身を置くだけでも、歴史と一体になるような感覚が味わえます。床の石ひとつ、屋根の瑠璃瓦一枚にも、皇帝の威光と職人たちの技術が宿っているのです。 現代の故宮博物院は、過去の栄華をただ保存するだけの場所ではありません。人気を博している文創グッズの販売などを通して、新たな世代との接点を模索しています。こうした動きは、古いものを単に懐かしむのではなく、未来に向けてどう語り継いでいくかという問いへの挑戦にも見えます。 かつての皇帝たちの時間が流れていたこの場所には、今も確かに、時間の層が幾重にも重なっています。石畳の上を歩くとき、その一歩一歩が歴史を踏みしめているように感じられるのです。北京を訪れるなら、ぜひ一度、故宮博物院の門をくぐってみてください。過去と現在、そして未来が交錯する、特別な体験が待っています。 義和団事件 19世紀末の中国は、まさに外からの圧力と内からの動揺が渦巻く時代でした。列...

天安門広場:国家と民衆の記憶が刻まれた広場、語られざる歴史の重み

仕事で南京に来たついでに北京に来ました。明日の現地ツアーを予約した後、少し時間が余ったので天安門広場に来ました。 北京の中心に広がる天安門広場は、ただの都市空間ではありません。ここは中国の近現代史が幾度となく交差してきた、まさに「歴史の交差点」ともいえる場所です。北には天安門がそびえ、毛沢東が中華人民共和国の成立を宣言したあの象徴的な門が、今も変わらぬ姿で広場を見下ろしています。 広場の広さは実に44万平方メートルとされ、世界でも最大級の規模を誇ります。広場の中央には人民英雄記念碑が堂々と立ち、中国近代に命を捧げた無数の人々の魂を静かに称えています。その南には、毛沢東の遺体が安置されている毛主席紀念堂があり、今なお国内外からの訪問者が絶えません。 西側には人民大会堂があり、ここでは全国人民代表大会など国家の重要な会議が開かれます。一方、東側には中国国家博物館が広がり、数千年にわたる中国文明の足跡を丁寧に伝えています。どの建物も、単なる建築物にとどまらず、それぞれが中国の歴史や権威、文化を象徴する存在となっています。 天安門広場では、建国記念日や軍事パレード、重要な政治行事が盛大に行われる一方で、忘れてはならない1989年の出来事もあります。あの年、民主化を求めて集まった学生や市民たちの訴えは、最後には武力によって封じられることとなりました。この「天安門事件」は現在の中国では公に語ることができず、記憶の扱い方そのものが政治的な意味を持っています。 それでも毎朝、日の出とともに行われる国旗掲揚式には多くの人々が集まり、荘厳な雰囲気の中で国家を思う時を過ごしています。観光地としての顔と、政治の中枢としての顔。その二面性こそが、天安門広場を特別な場所にしているのです。 広場を歩いていると、ふとした瞬間に歴史の重みが足元から伝わってくるような気がします。過去と現在が幾重にも折り重なり、そして未来へとつながっていく――天安門広場は、そんな時間の流れを体感できる数少ない場所のひとつです。 旅程 ホテル ↓(地下鉄/徒歩) 天安門広場 ↓(地下鉄/徒歩) ホテル 関連イベント 周辺のスポット 紫禁城/故宮博物院 頤和園 盧溝橋 地域の名物 北京料理/北京ダック 関連スポット リンク