スキップしてメイン コンテンツに移動

ノルマンニ宮殿/パラティーナ礼拝堂/ヌォーバ門:ノルマンの栄光とアラブの輝き、シチリアに息づく異文化の交差点

イタリア、シチリア島のパレルモに来ました。パレルモ劇場は映画ゴッドファーザーの重要な場面の撮影に使われ、初代ゴッドファーザー自体がシチリアのコレルオーネ村の出身ということで、今回のシチリア観光の目的はゴッドファーザー関連のスポットです。ゴッドファーザーの前に、初日の本日はパレルモに慣れるために、パレルモ市内の史跡探索をしました。いくつかの教会、博物館などを見た後、ノルマンニ宮殿に来ました。

シチリア島の州都パレルモは、アラブ、ノルマン、ビザンティン、スペインといった多様な文化が交差した都市です。その豊かな歴史を肌で感じられる場所のひとつが、旧市街の一角にたたずむノルマンニ宮殿と、そのそばに立つ壮麗なヌォーバ門です。これらの建築物は、単なる観光名所ではなく、長い年月の中で織りなされた権力と芸術、信仰と統治の物語を今に伝えています。

ノルマンニ宮殿は、もともとは9世紀のアラブ支配時代に建てられたエミール(首長)の宮廷が起源とされています。1072年にノルマン人がパレルモを征服すると、彼らはこの建物をシチリア王国の王宮として大規模に改築しました。とりわけルッジェーロ2世の治世下においては、行政と儀式の中心としての役割を果たし、その後もホーエンシュタウフェン朝、アンジュー家、アラゴン家など、さまざまな王家によって引き継がれていきました。現在ではシチリア州議会の本拠地として使われており、過去と現在が同居する不思議な空間となっています。

この宮殿の中でもひときわ目を引くのが、1132年にルッジェーロ2世の命によって建てられたパラティーナ礼拝堂です。ここはまさにシチリアの多文化的アイデンティティを象徴する空間であり、ビザンティンの金色モザイク、アラブの幾何学装飾、ノルマンの建築技術が見事に融合しています。特にアプスに描かれたキリスト・パンタクラトールのモザイクは、その荘厳さと輝きに目を奪われます。木製の格子天井にはイスラム建築特有のムカルナス装飾が施されており、静謐な空間の中に異文化が共鳴しあっているのを感じ取ることができます。

ノルマンニ宮殿に足を運ぶ際には、ぜひその入口を彩るヌォーバ門にも注目していただきたいです。現在の門は1583年にスペイン副王の命により再建されたもので、チャールズ5世が1535年にチュニス遠征からの帰路にパレルモを訪れたことを記念して建てられました。この門は単なる都市の出入り口ではなく、勝利と権威を象徴する記念碑的な存在です。とりわけ門の外側に立つ巨大な男性像――アフリカ系のモーロ人を象ったこの像は、当時の敵に対する勝利を寓意的に表現しており、その力強い姿には圧倒されます。

ヌォーバ門はまた、パレルモの旧市街とノルマンニ宮殿をつなぐ重要な動線でもあります。門をくぐることで、まるで時代の扉を開けて過去の王国へと足を踏み入れるような感覚を味わうことができます。ヴィットリオ・エマヌエーレ通りの起点にあたるこの場所は、街歩きの出発点としても最適です。

パレルモを訪れるなら、このノルマンニ宮殿とパラティーナ礼拝堂、そしてヌォーバ門の三点は決して見逃せない場所です。ここには、宗教と権力、戦争と芸術、そして異文化の出会いが刻み込まれており、現代の我々に多くの示唆を与えてくれるに違いありません。

両シチリア王国

南イタリアの青い海と陽光あふれる大地。その地にかつて、ナポリとシチリアを束ねる大王国が存在していました。両シチリア王国——それは1816年から1861年まで続いた、イタリア半島最大の王国であり、同時にブルボン家の壮麗な栄華と、統一運動の激動に揺れた時代の象徴でもあります。

両シチリア王国の誕生は、ナポレオン戦争後の再編成の一環として、ウィーン会議の流れを受けて成立しました。それまで別々に存在していたナポリ王国とシチリア王国は、形式的にも一つとなり、フェルディナンド4世は新たにフェルディナンド1世として両シチリア王国の初代国王となりました。ナポリに王宮を構え、広大な領土を治めるこの国家は、地中海世界の一角に君臨する南の強国として注目されました。

王国の文化的な中心であったナポリは、ヨーロッパ随一の大都市の一つとされ、サン・カルロ劇場やカポディモンテ宮殿に代表される壮麗な建築と芸術が花開きました。王国はまた、カゼルタ宮殿のような壮大な王宮を擁し、啓蒙主義の影響を受けた近代的な織物工場や福祉施設も存在していました。両シチリア王国は単なる農業国家ではなく、当時のイタリア諸国の中でも豊かな財力と人口を有していたのです。

とはいえ、その繁栄の陰には時代の変化に取り残されつつある政治体制も存在していました。強固な王政と封建的な土地制度は、多くの農民にとって希望をもたらすものではなく、次第に統一を求める動きが北から南へと広がっていきます。1859年に始まる統一戦争の激動の中で、1860年にはジュゼッペ・ガリバルディが「千人隊」を率いてシチリア島に上陸。短期間で王国全土を掌握し、最後の国王フランチェスコ2世はカゼルタを退いてガエータで降伏しました。

そして1861年、両シチリア王国の領土はサルデーニャ王国に併合され、新たに誕生したイタリア王国の一部となります。この出来事は「リソルジメント(イタリア統一運動)」の象徴的な勝利でもありましたが、一方で、両シチリア王国の伝統や誇りを失ったと感じる人々も多く、今なお南北問題の遠因として語られることもあります。

現在、ナポリやパレルモ、カゼルタには当時の面影を残す宮殿や教会、美術館が多く残っており、旅人を過去の王国へと誘います。もし南イタリアを訪れる機会があるなら、単なる観光地としてではなく、かつて地中海を彩った「もうひとつのイタリア」を感じる歴史の舞台として、両シチリア王国の足跡をたどってみてはいかがでしょうか。

ジュゼッペ・ガリバルディ

19世紀イタリアの統一運動において、もっともドラマティックで、もっとも人々の心をつかんだ人物、それがジュゼッペ・ガリバルディです。彼は剣と信念を武器に、まだバラバラだったイタリア半島に統一の光をもたらしました。いまもイタリア各地の広場には彼の像が立ち、その名を冠した通りが残っていますが、その人生は伝説という言葉が決して誇張にならないほどの激動に満ちていました。

ガリバルディは1807年、当時ナポレオンの統治下にあったニースに生まれました。若き日は海に憧れ、船乗りとして世界を巡ります。やがてイタリア統一を掲げる秘密結社「青年イタリア」と出会い、その理念に共鳴しますが、1834年の反乱が失敗に終わると、死刑判決を受けて国外に逃れました。彼が身を寄せた先は遠く南アメリカ。ウルグアイでは内戦に加わり、自由を守る義勇軍の指揮官として活躍します。このときに身につけた赤いシャツは、のちに「赤シャツ隊」としてイタリアでも知られる彼の象徴となりました。

1860年、ついに歴史の転機が訪れます。千人の義勇兵を率いてシチリア島のマルサーラに上陸したガリバルディは、圧倒的に不利な状況にもかかわらず、次々と勝利を重ねていきます。シチリアの民衆は彼を「正義の使者」として歓迎し、ブルボン朝の支配を打ち破る大きな力となりました。この征服はわずか数か月でナポリ王国全体をも掌握する快挙となり、当時のヨーロッパを驚かせます。

しかし、ガリバルディの真価はその後にこそ現れます。彼は征服した南部を自らの手に収めることなく、統一イタリアの実現を優先し、サルデーニャ王ヴィットリオ・エマヌエーレ2世に土地を献上しました。共和主義者でありながら、現実政治と理想の間で、国の将来を見据えたその選択は、多くの人々に感動を与えました。

晩年のガリバルディはサルデーニャ沖のカプレーラ島に隠棲し、自然の中で静かな生活を送りました。しかしその精神は最後まで自由を追い求め、普仏戦争やパリ・コミューンへの支援など、新たな戦いにも姿を現します。彼にとって、自由の敵が存在する限り、戦いは終わらなかったのです。

1882年、ガリバルディはカプレーラ島で静かにその生涯を閉じました。けれど、彼の名は今なお人々の記憶の中に生き続けています。それは彼が、剣を取るだけでなく、譲ること、退くこと、そして信念を貫くことのすべてを体現していたからにほかなりません。

ガリバルディを知ることは、単に歴史を学ぶことではありません。それは、不可能を可能に変えた意志の力を感じる旅であり、人間が理想のために何をなすべきかを問いかける旅でもあるのです。

旅程

(略)

↓(徒歩)

Villa Bonanno

↓(徒歩)

ノルマンニ宮殿/パラティーナ礼拝堂/ヌォーバ門

↓(徒歩)

Chiesa del Gesù di Casa Professa

↓(徒歩)

(略)

関連イベント


周辺のスポット

  • Villa Bonanno
  • Chiesa del Gesù di Casa Professa
  • パレルモ大聖堂
  • クァットロ・カンティ

地域の名物

  • アランチーニ
  • パネッレ
  • スフィンチョーネ
  • カポナータ

関連スポット


リンク

コメント

このブログの人気の投稿

法隆寺:世界最古の木造建築と聖徳太子の遺産

京都・奈良観光に来ています。貸し切りのタクシーで刊行しており、法起寺と山背大兄王の墓所のあと、法隆寺に案内されました。 奈良県斑鳩町にある法隆寺(ほうりゅうじ)は、日本最古の仏教寺院の一つとして知られています。推古天皇15年(607年)に聖徳太子によって創建されたと伝えられ、1993年にはユネスコの世界文化遺産に登録されました。創建当時は、斑鳩寺(いかるがでら / 鵤寺)と呼ばれていました。歴史の重みを感じるこの寺院は、日本の仏教美術や建築を語る上で欠かせない存在です。 法隆寺の伽藍は、西院伽藍と東院伽藍の二つのエリアに分かれています。西院伽藍には、世界最古の木造建築群が立ち並び、特に金堂と五重塔が有名です。金堂には飛鳥時代の代表的な仏像である釈迦三尊像が安置され、その表情や姿勢からは深い歴史と信仰の重みを感じることができます。五重塔は仏教建築の粋を集めたもので、塔内部には釈迦の入滅や舎利信仰を表す塑像群が残されています。 東院伽藍には、聖徳太子を祀る夢殿が建っています。夢殿は八角形の美しい建築様式を持ち、太子信仰の中心となる場所です。内部には秘仏・救世観音像が安置され、特定の期間のみ御開帳されることで知られています。また、法隆寺には百済観音と呼ばれる国宝の仏像も所蔵されており、その優雅な姿は多くの参拝者を魅了しています。 法隆寺の歴史をひも解くと、670年(天智9年)に火災で焼失し、その後再建されたとされています。これを巡って「法隆寺再建非再建論争」と呼ばれる学術的な議論が行われましたが、現在の伽藍は7世紀後半のものと考えられています。そのため、再建されたものではあるものの、非常に古い建築物として世界的にも貴重な文化財とされています。 法隆寺は単なる歴史的建造物ではなく、日本の仏教文化がどのように根付いていったのかを知る手がかりとなる場所です。その荘厳な雰囲気の中で、飛鳥時代の人々が抱いていた信仰や仏教の広がりを感じ取ることができます。奈良を訪れる際には、ぜひ足を運び、悠久の時を超えて受け継がれてきた法隆寺の魅力に触れてみてください。 文化財保護法 日本には数多くの歴史的建物や美術工芸品、伝統芸能や美しい自然環境など、次世代へと引き継ぐべき貴重な文化財があります。これらの文化財を守り、次の世代にも伝えていくために制定されたのが、「文化財保護法(ぶんかざいほごほう)...

桐生市の歴史的な建造物群:西桐生駅、蒲焼 泉新、矢野園、有鄰館、まちなか交流館、平田家住宅旧店舗、森合資会社事務所・店蔵・石蔵(旧穀蔵)、一の湯、旧桐生高等染織学校講堂、無鄰館、旧曽我織物工場

群馬県桐生市は、江戸時代から続く織物の町として知られ、かつて「桐生新町(きりゅうしんまち)」と呼ばれた歴史ある地域です。市内には桐生明治館や桐生織物記念館、桐生天満宮、織物参考館・紫といった代表的な施設だけでなく、今もなお往時の面影を色濃く残す歴史的建造物が数多く点在しています。これらの建造物群は、伝統的な町並みや商家、蔵などが連なり、まるで時代を遡ったかのような雰囲気を味わうことができます。 特に「桐生新町」は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、歴史と文化の香りを今に伝える貴重なエリアです。昔ながらの格子戸や石畳、重厚な蔵造りの家々が並ぶ風景は、歩くだけで桐生の長い歴史や人々の暮らしを感じさせてくれます。この記事では、そんな桐生新町の歴史的建造物群についてご紹介したいと思います。 西桐生駅 西桐生駅は、木造の趣ある駅舎が印象的な駅です。1928年(昭和3年)の開業以来、上毛電気鉄道の駅として、現在も多くの人々に利用されています。時代の移り変わりの中で、駅舎そのものは大きな改修を受けることなく、当時の面影を色濃く残しているため、歴史好きの方やレトロな雰囲気を味わいたい方にとって、心惹かれるスポットとなっています。 私が訪れた日は、真夏のような強い日差しが照りつける暑い日でした。ホームや駅舎の待合スペースでは、電車を待つ人々だけでなく、ベンチで休憩をとる方や、涼を求めて飲み物や軽食を楽しむ方の姿も見られました。昔ながらの木造駅舎にはどこか心地よい落ち着きがあり、旅の合間にほっと一息つくにはぴったりの空間です。 私も駅舎内の自動販売機でアイスクリームを買い、ベンチに腰掛けてしばし涼を取りました。外の暑さを忘れさせてくれるような、静かな時間が流れていたのが印象的です。長い歴史を持つ西桐生駅は、日常の中にそっと溶け込みつつ、訪れる人に昔懐かしい風景と、ひとときのやすらぎを与えてくれる場所だと感じました。 蒲焼 泉新 桐生の町を歩いていると、ふと香ばしいうなぎの香りが漂ってきました。そこにあるのが、天保元年(1829年)創業の老舗「蒲焼 泉新(いずしん)」です。長い歴史を持つうなぎ料理屋で、創業以来、地元の人々や旅人に親しまれてきました。建物自体がいつ建てられたものかははっきりとは分かりませんが、昭和61年に曳き移転されたという記録が残っており、それ以前からこの...

大阪・関西万博:夢洲に描かれた、テクノロジーと文化が交差する場所

4月から通信制の大学に入学したので、しばらくは旅行は月に一回ぐらいで我慢しようと思います。今月は始まったばかりの万博に行くことにしました。 2025年、再び大阪に世界が集まります。舞台となるのは、大阪湾に浮かぶ人工島・夢洲。ここで開催されるのが「2025年日本国際博覧会」、通称「大阪・関西万博」です。1970年に開催された伝説的な大阪万博から55年、今回は「いのち輝く未来社会のデザイン」という壮大なテーマのもと、人と地球、そして社会のあり方を問う万博が始まろうとしています。 会場の中央には「リング」と呼ばれる巨大な円形の構造物が設けられ、その周囲を各国のパビリオンや企業展示が囲みます。まるで未来都市のような空間で、来場者はぐるりと円を巡りながら、さまざまな価値観やテクノロジー、文化と出会うことになります。今回の万博では、150を超える国と地域が参加予定で、各国が独自の視点で「いのち」と「未来社会」に迫る展示を行います。 企業パビリオンでは、日本の最先端技術が一堂に会し、たとえば空飛ぶクルマや自動運転の次世代モビリティが実際に体験できる機会もあります。デジタル技術を駆使した展示や、環境配慮を徹底した建築・運営方法も注目されており、まさに未来社会の「実験場」として機能することが期待されています。 また、未来の社会課題に対する解決の糸口を探る場として、万博の副題には「未来社会の実験場(People's Living Lab)」という言葉が掲げられています。ここでは、技術だけではなく、人と人のつながりや、文化の融合、自然との共生といった、より根本的な問題についても来場者に問いかけてきます。 この万博のもうひとつの魅力が、公式キャラクター「ミャクミャク」です。一度見たら忘れられないユニークな姿は、生命の細胞と水の流れをイメージしており、「いのち」のコンセプトを象徴する存在として多くの人々に愛されています。 大阪・関西万博は、過去の栄光を振り返るだけのイベントではありません。これは、これからの日本、そして世界がどう生きていくのか、その道を模索するための舞台です。都市と自然、伝統と革新、個と共生のバランスをどう取るのか――夢洲の地で繰り広げられる6か月間の対話が、私たちにそのヒントを示してくれることでしょう。 GUNDAM NEXT FUTURE PAVILION 大阪・...