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横浜中華街:青い門から赤い廟へ、友人とめぐる異国情緒

現在、横浜に住んでおり、フランスから友人が遊びに来てくれました。東京観光だけではもったいないと感じて、港町らしい風景を楽しんでもらおうと横浜を案内し、その流れで中華街へ足を伸ばしました。

横浜駅からシーバスで山下公園へ移動しました。海を振り返りながら歩き、道路の向こうに青い門が見えてくると、そこが中華街の北側の入口、朝陽門でした。東西南北に色の異なる門が立つ中華街で、青い柱と屋根を持つこの門は、朝日と繁栄を象徴する「東の門」とされています。異国から来た友人にとっても、日本の港町の中に突然現れる中国の街並みは不思議な光景に映ったようで、門の下でしばらく写真を撮りながら、そのきらびやかな装飾を見上げていました。

門をくぐると、ふわっと湯気と香辛料の匂いが混じった空気に包まれます。大通り沿いには、肉まんやゴマ団子、小籠包などを売る店がずらりと並び、店先からはせいろが積み重なった蒸し器が顔をのぞかせていました。せっかくだからと、僕たちも肉まんを買い、熱々を頬張りながら散策を続けました。中華街が形成されたのは、幕末に横浜港が開港し、外国人居留地としてこの周辺に多くの外国人や華僑が住むようになったことが始まりと言われています。明治以降の発展と、関東大震災や戦災からの復興を経て、現在では日本最大の中華街として、年間数多くの観光客を迎える一大観光地になりました。


歩くにつれて、街の中心部にある横浜関帝廟の屋根が見えてきます。ここは『三国志』でおなじみの関羽を祀る廟で、商売繁盛や勝負事の神様として多くの人々の信仰を集めています。きらびやかな赤い柱と金色の装飾、龍が絡み合うように彫られた柱は、まさに「東アジアの神殿」といった趣で、友人もカメラのシャッターを何度も切っていました。関帝廟は、明治初期に小さな祠から始まり、火災や空襲で何度も焼失しながらも、そのたびに地元の華僑たちの力で再建されてきた歴史を持っています。中華街の成り立ちと同じく、この廟にも移民たちの信仰とコミュニティの歴史が刻まれているのだと感じました。

さらに少し歩くと、比較的新しい横濱媽祖廟にも立ち寄りました。ここには、航海や旅の守り神として知られる媽祖が祀られています。媽祖信仰は、かつて航海技術が未発達だった時代、危険な海を渡る人々にとって大きな心の支えだったと伝えられています。横浜港のすぐそばにこの廟が建てられたのも、海とのつながりの深い土地柄ならではだと感じました。海を越えてやってきた華僑の人々が、新しい土地でも故郷と同じように海の神様を祀りたいと願った、その気持ちが今もこの建物に息づいているようでした。

通りの先にある善隣門まで歩くと、中華街の雰囲気はさらに賑やかになります。「隣人と善く交わる」という意味を込めて名付けられた門の下を、多くの観光客が行き交っていました。路地ごとに「上海路」「中山路」といった中国の地名や人物にちなんだ名前が付けられており、日本の中にありながら、どこか異国の街を散歩しているような感覚になります。フランスからの友人も、建物の看板や飾り付けを見ながら、「ここは本当に日本なの?」と半分冗談交じりに笑っていました。

この日の中華街散策には、もう一つ小さな目的がありました。フランスから来た友人の年の離れた弟のために、何かお土産を買いたいと思っていたのです。土産物店の並ぶ通りで、ふと目に留まったのが、カンフー映画で見かけるようなチャイナ風の子供用の胴着でした。鮮やかな色の生地に、金色の縁取りと丸いボタンが付いていて、着るだけでちょっと強くなれそうな雰囲気があります。サイズを確かめながら、弟さんがこれを着てポーズをとる姿を想像し、思わず笑ってしまいました。結局、その服をプレゼントとして買い求め、帰国後に渡すと、とても喜んでくれたようです。中華街の賑やかな色彩とともに、友達の家族の思い出も一つ増えたと思います。

夕方が近づくにつれて、街の灯りが少しずつともり始めました。門や廟の装飾がライトアップされ、昼間とはまた違った雰囲気に変わっていきます。1859年の開港から始まった横浜の国際都市としての歴史の中で、この一角は、幾度となく災害や戦争を乗り越え、そのたびに再生を遂げてきました。そうした歴史の積み重ねの上に、僕たちが気軽に食べ歩きを楽しみ、異国の友人を連れて歩ける現在の姿があるのだと思うと、にぎやかな通りの一つ一つの光景が、少し違って見えてきます。


赤レンガ倉庫へと向かう道すがら、振り返ると門のシルエットが空に浮かんでいました。海から吹く風に少しだけ冬の気配を感じながら、異文化が入り混じる港町の一日がゆっくりと暮れていきます。フランスから来た友人にとっても、当時横浜に暮らしていた自分にとっても、この日の中華街の散策は、港町・横浜の多層的な歴史と人のつながりを感じる、忘れがたい一日となりました。

旅程

東京

↓(JR)

横浜駅

↓(シーバス)

山下公園のりば

↓(徒歩)

中華街

↓(徒歩)

横浜赤レンガ倉庫

↓(徒歩)

横浜ランドマークタワー

↓(徒歩)

横浜駅

周辺のスポット

  • 山下公園
  • 港の見える丘公園

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