キーウ観光3日目の午後に「ウクライナ国民の自由のアーチ」(当時の通称・旧称は「民族友好のアーチ」)へ立ち寄りました(この記事は2026年に書いています)。朝からペチェールシク大修道院などを巡り、独立広場へ戻る途中、地図上に大きなアーチ状のモニュメントが目に入り、気になってタクシーで寄ってもらったのがきっかけです。
現地に着くと、アーチの前の広場ではトランポリンのような遊具が設置されている途中で、近々イベントがあるのだろうという雰囲気が漂っていました。観光名所の「完成された風景」というより、市民の暮らしの延長線にある公共空間として、街が次の予定に向けて準備している最中に偶然立ち会ったような感覚があり、旅の記憶として印象に残っています。
アーチそのものは、遠目にも分かるほど大きく、半円を描く形が空にくっきり抜けて見えました。このモニュメントはソ連時代の1982年に建設され、1978年から工事が始まり、同年11月に公開されたとされます。キーウ建都1500年の祝賀の文脈の中で、「ウクライナとロシアの再統合(1654年のペレヤスラウ協定/評議会をソ連がそう位置づけたもの)」や、ソ連の記念年に結び付けて制作された経緯があります。
そして、目にした「アーチの下の像」には、まさに当時のメッセージが凝縮されていました。アーチの下には、二人が何かを高く掲げるブロンズ像が置かれ、もう一方には複数人物が民族衣装のような装いで並ぶ大きな構成の像(レリーフ状の群像)がありました。前者はウクライナ人とロシア人の労働者が「諸民族友好勲章」を掲げる構図、後者は1654年のペレヤスラウ評議会の場面を象徴する構成と説明されます。
2013年当時は「民族友好のアーチ」という呼び名の通り、国家間・民族間の結束を祝う明るい記号として目に入ってきます。一方でこの場所は、その後の歴史によって意味合いが大きく更新されました。ロシアによる全面侵攻が続く中、キーウ市は2022年に名称を「ウクライナ国民の自由のアーチ」へ変更し、象徴性の強かった労働者像は同年4月に撤去されています。さらに2024年には、ペレヤスラウ評議会を称える群像の解体も進められました。つまり、私が見た2013年の「三つの要素が揃った姿」は、現在では同じ形では残っていません。
だからこそ、あの日の立ち寄りは、単なる観光スポットの寄り道以上の意味を帯びてきます。地図で偶然見つけ、タクシーでふらりと向かい、イベント準備中の広場を横目に、巨大なアーチと像を見上げた。旅先ではよくある一場面のはずが、後から振り返ると、時代の価値観がモニュメントに刻まれ、そして塗り替えられていく「歴史そのもの」を目撃していたようにも思えます。
キーウは、教会や修道院のように“長い時間”を抱える場所が多い一方で、公共空間の記念碑は“時代の要請”に応じて意味を問い直されます。「民族友好」として造られたアーチが、いま「自由」を掲げる名で呼ばれていることは、この街が経験してきた痛みと決意を、静かに示しているように感じます。次にキーウを訪れることがあれば、同じ場所で、当時とは異なる“現在の風景”を確かめたくなる――そんな余韻を残す寄り道でした。
旅程
(略)
↓(徒歩)
聖ウラジーミル大聖堂
↓(タクシー)
↓(徒歩)
↓(タクシー)
↓(タクシー)
独立広場
↓(徒歩)
地域の名物
- ボルシチ
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