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8月, 2021の投稿を表示しています

高稲荷神社:親子のきつねが見守る台地の小社

練馬区桜台の高みに鎮座する高稲荷神社(たかいなりじんじゃ)を訪ねました。 石段を上がると、木々の合間から石神井川の流れを感じさせる風が通り抜け、社殿はこぢんまりとしながらも静かな気配に包まれていました。社前には二体のきつねが控え、左側の足元にはさらに小さなきつねが寄り添うように彫られていて、まるで親子の姿を写したように見えます。稲荷の眷属として人の願いを聞き届ける役目を担う存在に、境内の素朴さと温かみが一層重なって感じられました。 この社は、石神井川に臨む台地の上にあります。かつて崖下は大きな沼で、その主は大蛇であったという伝承が練馬に残ります。ある若者がこの大蛇に見込まれて沼へ引き込まれ、その霊を慰めるために祀られたのが高稲荷だとも語られてきました。地名の記憶と川の地形が連れてくる物語は今も地域の語り草で、台地に立つ社の位置がその舞台装置であったことを想像させます。 社の由緒は詳らかではありませんが、文政五年(1822)ごろから下練馬村・三軒在家の守護神として崇敬されたと伝わります。稲荷としてのご祭神は食物の神・保食命(うけもちのみこと)とされ、五穀の実りと暮らしの安寧を願う小祠として、村の人びとに守られてきました。 境内には江戸後期の刻年を持つ石造物が残り、地域の信仰の厚みを物語ります。鳥居には嘉永六年(1853)の銘が見え、長い歳月のうちに社殿は改築されながらも、台地の高みという立地とともに、土地の記憶を静かに受け継いできました。 高稲荷神社の前でしばし足を止めると、親子に見えるきつね像と、川と沼にまつわる昔話が自然と結びつきます。人の暮らしを見守る小さな社と、自然の力を畏れ敬う物語。その二つが重なる場所だからこそ、素朴な社殿の佇まいに、今も地域の祈りが静かに息づいているのだと感じました。 旅程 練馬区駅 ↓(徒歩) 高稲荷神社 ↓(徒歩) 桜台駅 関連イベント 周辺のスポット 地域の名物 関連スポット リンク 高稲荷神社|練馬区桜台の神社 高稲荷と大蛇、堰ばあさん、栗山の大蛇 | 練馬わがまち資料館

龍寶山 萬昌院功運寺:吉良上野介と文化人が眠る町角

中野駅にスクーターを置いて周辺を歩いているうちに、静かな門前へ吸い寄せられるように萬昌院功運寺(ばんしょういんこううんじ)にたどり着きました。 山門をくぐると、境内には夏の光が落ち着いて差し込み、コロナ下で遠出ができなかった落ち着かない気分が、すっと静まっていくのを感じました。ここは曹洞宗の寺院で、もともと江戸市中にあった久宝山萬昌院と竜谷山功運寺が大正期に現在地へ移り、戦後の昭和23年に合併して今の寺号になったと伝わります。歴史を調べると、萬昌院は天正2年、今川義元の子・氏真の四男にあたる長得が開基、功運寺は慶長3年に永井信濃守尚政が父祖の菩提のために創建したという由緒で、江戸の記憶を今日へとつなぐ場所なのだと実感します。 この寺を広く知らしめているのが、赤穂事件で名の残る吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ)の墓所です。墓域には吉良家14代から17代の供養塔が並び、討ち入りの夜に斃れた上野介の名も刻まれています。門前には中野区の文化財として吉良家墓所を示す案内板が立ち、歴史の現場が今も地域の手で静かに守られていることが伝わってきました。年末にたびたび上演される『忠臣蔵』のイメージでは悪役として描かれがちな上野介ですが、茶の湯や礼法に通じた教養人としての側面も指摘されており、墓前に立つと、その人物像の複雑さに思いを巡らせずにはいられません。物語がつくった陰影と史実のずれを意識できるのも、史跡を直接訪ねる醍醐味だと感じました。 境内の墓地には、ほかにも文化史を語る名が並びます。江戸後期の浮世絵師・歌川豊国(うたがわ とよくに)の墓は、役者絵や美人画で人気を博した一門の祖にふさわしく、静かな佇まいの中に華やかな江戸の舞台を想像させました。昭和の作家・林芙美子の墓もあり、『放浪記』の一節が胸によみがえるような、飾らない石碑が印象的でした。日々の暮らしの歓びと翳りを掬い上げた作家が、いまは都会の住宅地に包まれて眠っていると思うと、不思議と身近な存在に感じられます。 本堂の前で手を合わせると、境内のすみに幼稚園の建物が見え、ここが地域の日常と地続きであることを思い出しました。江戸から昭和、そして令和へと受け継がれてきた祈りの場は、歴史の重みを湛えながらも、子どもたちの声が似合う柔らかな空気をまとっています。12月には命日にちなむ吉良祭も営まれるそうで、季節の法要や...

宝泉寺:家から歩く旅、中野でつながる郷里の名跡

遠出を控えている時期なので、家から歩いて中井駅まで向かい、その先に連なる寺町を気の向くままに辿りました。塀越しに見える古い瓦、風に鳴る木陰、読経の微かな響き。そうして出会ったお寺のひとつが、中野区上高田にある曹洞宗の宝泉寺(ほうせんじ)でした。境内は隣接する寺院の墓地と連なって広がり、いかにもこの一帯が寺町として育ってきたことを物語っていました。江戸の市中からこの地へ寺々が移ってきた歴史があり、宝泉寺も創建後に江戸城外から牛込横寺町へ、さらに明治に現在地へと移ってきました。都市の膨張とともに寺社が少しずつ居場所を移し、やがて上高田の静けさの中に落ち着いていった過程を想像すると、寺町の景観そのものが近代東京の記憶の層でできているのだと感じました。 境内を巡るうち、目を引く案内板に出会いました。そこには「板倉内膳正重昌(いたくら ないぜんのかみ しげまさ)墓所」とあり、はじめは名前に覚えがありません。後で調べると、板倉重昌は徳川家康の近習を務め、三河国の深溝(ふこうず)に一万余石を領して深溝藩を立てた大名で、寛永15年(1638)に島原の乱の鎮圧にあたり、原城攻めで戦死した人物でした。三河出身の自分としては、同郷の名をここ東京で見いだしたことに、少し遅れて密かな縁を感じます。江戸の政治や軍事の中枢に関わった家柄の菩提寺が、時を経て中野の寺町に根付いている——そんな歴史の連続性と偶然性を、静かな墓所の前で思いました。 宝泉寺は奥州中村の相馬家や備中庭瀬の板倉家の菩提寺でもあり、境内にはそれぞれの石碑が丁寧に守られています。明治期に現在地へ移ったのちも、地域の年中行事や坐禅会が続けられていることを知ると、寺が単なる史跡ではなく、まちの日常に息づく場であることを実感します。寺町を歩く楽しさは、この生活と歴史が自然に重なって見える瞬間にあるのだと思います。 あの日は、知らない名前に足を止め、帰宅後に少し本や資料を開いただけの小さな寄り道でした。それでも、深溝藩のこと、島原の乱のこと、そして江戸から中野へと移ってきた寺々のこと——いくつもの扉が次々に開いていきました。遠くへ行けない時間だからこそ、歩幅ひとつぶんの範囲に眠る歴史の厚みを確かめられた気がします。寺町の路地を抜けて振り返ると、夏の陽に石塔の影が長く伸び、見慣れたはずの中野の風景が、少しだけ重層的に見えました。 旅程 (...