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道後温泉本館:千年の湯に癒されて、漱石も愛した温泉地

子規記念博物館から北へ道後温泉に向かいました。

昨晩、高知から愛媛に移動したあとにも道後温泉本館には来ていて、温泉に入る場合は、朝6時ぐらいから並んで予約を取るそうです。

並んで予約を取ろうかとも思いましたが、昨晩のうちに飛鳥乃湯泉の方に入って本館の方はあきらめることにしました。次に来るときには、本館近くにホテルを取って、朝食前に並ぼうかと思います。

道後温泉の近くの冠山(かんむりやま)からは、3000年前の縄文の土器が出てきており、3000年前から使われていた日本最古の温泉と言われています。

また、伊予国(いよのくに)風土記には、神話の時代に、大国主命(おおくにぬしのかみ)と少彦名命(すくなひこなのみこと)が出雲の国から伊予の国へと旅していたところ、少彦名命が病気になり、大国主命は大分の「速見の湯」を海底に管を通して道後に導き温泉にしたという話が残っています。

同じく、伊予国風土記に、596年(法興6年)に聖徳太子が道後温泉に来浴し、温泉に感動し石碑を残しました。現在、石碑は発見されていませんが、飛鳥乃湯泉にレプリカがあります。

1894年(明治27年)に、道後温泉本館が落成されました。

そのころに、夏目漱石が松山中学の英語教師として松山市に赴任し、「坊ちゃん」の中で道後温泉のことを絶賛しています。

道後温泉駅からは、坊ちゃん列車も出ています。


旅程

ホテル

↓(徒歩)

松山市立子規記念博物館

↓(徒歩)

道後温泉

↓(徒歩)

(略)

↓(徒歩)

圓満寺

↓(徒歩)

宝厳寺

↓(徒歩)

伊佐爾波神社

↓(徒歩)

湯神社

↓(徒歩)

松山城

↓(タクシー)

松山市考古館

↓(タクシー)

子規堂

↓(タクシー)

松山空港

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