東所沢駅から歩いて十分ほど、角ばった巨石のような建物が視界に現れると、そこが角川武蔵野ミュージアムでした。
初訪問の今回は、「電脳秘宝館・マイコン展」を目当てにしつつ、せっかくなので常設エリアや「昭和100年展」、「体感型デジタルアート劇場 浮世絵 RE\:BORN」もあわせて巡りました。館内の動線は上階から下階へと自然に流れるつくりで、まずは最上階の5階から見学を始めました。
5階に入ると、角川書店の創業者・角川源義の足跡や、武蔵野の歴史がコンパクトに紹介されています。国木田独歩ゆかりの図書が並び、簡潔な解説とともに自分で掘り下げられる“入口”としての展示が用意されているのが印象的でした。独歩が描いた武蔵野は、明治の終わりにまだ広がっていた原野や雑木林の風景を背景に、人の暮らしと自然の呼吸が折り重なる場所でした。地域の記憶を本と展示で橋渡しし、来館者の好奇心に委ねるやり方は、まさに“図書館のような博物館”というコンセプトを体現しているように感じます。
ほどなくして、4階と5階を吹き抜けで貫く「本棚劇場」に出ます。壁一面を埋め尽くす書架の量感にまず圧倒され、やがてプロジェクションマッピングが始まると、光が本の海に流れ込んで、昭和100年のうねりが立ち上がりました。1926年に始まった昭和は、戦争と復興、高度成長、オイルショック、バブルとその後の成熟と、多層の記憶を抱え込んだ時代です。物語として語るには大きすぎる時間を、文字と映像の連携でテンポよく俯瞰できたのが心地よかったです。
4階には分野横断の新旧の本がびっしりと並び、ITの棚には懐かしい技術書が顔をそろえていました。むかし夢中でページをめくったような背表紙に触れると、技術を本で学び、試し、失敗してはまた学ぶ——そんな反復の手触りがよみがえります。
同じフロアに目的の「電脳秘宝館・マイコン展」のコーナーがあり、思いのほかコンパクトながら密度の高い時間を過ごしました。
Apple II やコモドールといった黎明期の名機は私にとって歴史上の存在ですが、ファミリーベーシックやぴゅー太、X68000、PC-88/98、そして大学時代に触れた Windows 3.1 や 95 は、まさに自分の原点です。
会場では、同世代と思しき方々が家族に「昔はこうだった」と語りかける姿があちこちで見られ、個人の記憶が社会の記憶に重なっていく場面に立ち会ったような、不思議な温かさがありました。紙のマニュアルを片手にキーボードを叩き、ピコピコと音を鳴らしては小さな成果に歓喜する——あの頃の“作る喜び”が、現在のエンジニアとしての自分につながっているのだと、静かに確信します。
同じフロアの「昭和100年展」では、昭和の家が再現され、黒電話やブラウン管テレビ、細かな生活道具がごちゃごちゃと共存する“生活の密度”が再現されていました。
近年の住まいは整然としたミニマルさが好まれますが、昭和の雑多さは、家の中に情報と感情と偶然が入り込む余白でもありました。生活の音が重なり合う空間そのものが、あの時代の活力を示しているように思えます。
1階へ降りて「体感型デジタルアート劇場 浮世絵 RE\:BORN」へ。壁も床も天井もスクリーンとなる360度空間に足を踏み入れると、静止画のはずの浮世絵が呼吸を始め、川は流れ、風は木々を揺らし、人々が行き交います。
江戸の木版画は情報とデザインの結晶であり、構図、省略、誇張といった視覚の文法は、現代のアニメや漫画の表現にも確かに受け継がれています。時代を越えて“見せる”技術が響き合う瞬間を、身体ごと浴びるように体験できました。
館外に出てからパンフレットを見返し、近くの武蔵野坐令和神社に天野喜孝さんの天井画があることを知りました。現地では案内所の一つくらいに思って素通りしてしまい、これは悔やまれます。とはいえ、ここは何度でも来たくなる場所です。次回は神社にも立ち寄り、館内では本棚のどこかに潜む“次の一冊”を探す時間を長めに取りたいと思います。帰りに見上げた東所沢駅のシャープな意匠も印象的で、周辺一帯が“読む・観る・学ぶ・祈る”を横断する文化拠点として育っているのではないか、と感じました。
| 後ろの建物が武蔵野坐令和神社 |
紙の知とデジタルの表現、個人の記憶と社会の記録——それらが同じ場所で出会い、互いを照らし合う。角川武蔵野ミュージアムは、そんな交差点のような場所でした。次に訪ねるときには、昭和の雑多な手触りと、マイコンの素朴な創造力、そして浮世絵の洗練を、もう一度ゆっくりと身体に刻み直したいと思います。
旅程
東京
↓(西武池袋線/JR武蔵野線)
東所沢駅
↓(徒歩)
↓(徒歩)
東所沢駅
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