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品川神社:自由の碑へ続く雨上がりの寄り道

朝から雨が続いた日でした。午後になってようやく小降りになり、止みそうな気配も出てきたので、寺田倉庫G1ビルのガウディ展に向かいました。ところが想像以上の混雑で、入口では整理券が配られていて、入場できるのは3時間後と言われてしまいました。雨上がりの時間を無駄にしたくなくて、近場で行けそうな場所を探しているうちに「板垣退助の墓」という案内を見つけ、予定を切り替えて歩き出しました。

目的地に着いてみると、そこには品川神社がありました。旧東海道の北品川宿の鎮守として知られる神社で、宿場町のにぎわいとともに時代を重ねてきた場所だと思うと、急に足取りがゆっくりになります。  入口の石造鳥居は、柱に龍が巻き付くような彫刻が施されていて、雨で濡れた石肌の陰影がいっそう細部を際立たせていました。昇り龍と降り龍の意匠があるため「双龍鳥居」と呼ばれるそうで、最初から強い印象を残す門構えです。 鳥居の脇には大黒天の石像もあり、ここが東海七福神めぐりの札所になっていることを思い出しました。

境内へは、少し長めの石段を上ります。雨で滑りやすくなっていて、足元に神経を集中させる時間が、かえって気持ちを整える“間”になりました。上り切ると、正面に朱色が目を引く社殿が現れ、右手には神楽殿も見えます。宿場町の鎮守らしく、人の往来を見守ってきたであろう落ち着きと、朱の色の強さが同居しているのが印象的でした。

品川神社は、文治3年(1187年)に源頼朝が海上交通安全と祈願成就を願い、安房国の洲崎明神(洲崎神社)から天比理乃咩命を勧請したのが創始とされます。のちに宇賀之売命や素盞嗚尊も祀られ、江戸時代には徳川家の庇護も受けたという由緒を知ると、旅と交通の結節点であった品川という土地の歴史が、そのまま神社の性格に刻まれているように感じます。 

参拝を済ませたあと、いよいよ裏手へ回って板垣退助の墓所に向かいました。案内板の周辺には「板垣」と刻まれた墓石がいくつも並び、最初はどれが本人のものか少し迷います。奥へ進むと、あの有名な「板垣死すとも自由は死せず」の碑が目に入り、ここが確かに“板垣退助の場所”なのだと腑に落ちました。

ただ、墓石の正面に「退助」と大きく刻まれているわけではありません。私も念のため墓石を一通り写真に収め、後で調べて、法名の「邦光院殿賢徳道円大居士」が刻まれた墓石が本人の墓であることを確認しました。墓石の背面には位階・勲位とともに俗名が刻まれているそうで、歴史の教科書の人物が、急に具体的な“ひとりの人生”として立ち上がってくる感じがしました。

その場では「神社にお墓があるのは珍しい」と素朴に驚いたのですが、実はここはもともと東海寺の塔頭寺院だった高源院の墓地の一部で、寺が世田谷区へ移転したあとも板垣家の墓域が残され、現在は品川神社に接する形になっているのだそうです。つまり“神社の境内に墓がある”というより、“隣接して残った墓所へ、結果として神社側から入る形になっている”というのが実情に近いようです。 そう聞くと、神仏分離や都市の区画の変化、震災後の移転など、近代以降の東京が抱えてきた断層まで、この小さな墓域に折り重なって見えてきます。

雨上がりの空気の中で、ひとつひとつの墓石に手を合わせてから境内を後にしました。予定は大きく変わりましたが、混雑を避けて偶然たどり着いた先で、品川という土地の“交通の歴史”と、板垣退助の“自由の言葉”が同じ風景の中にあることを体感できたのは、むしろ贅沢な寄り道だった気がします。展示会場で待つ3時間よりも、ずっと濃い時間がここにありました。

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