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横浜ランドマークタワー:煉瓦色と海風が交わる場所で、街の時間を味わう

海外からの友人を案内して横浜を巡り、仕上げにランドマークタワーの展望台へ上りました。少し曇っていましたが、港も街もくっきりと見渡せ、これまで歩いた道のりを空からたどり直すような時間になりました。ガラスの向こうに広がる横浜港の水面には、水上バスの白い航跡が細い線を引き、私たちがさっきまで乗っていた揺れの穏やかな時間を思い出させてくれます。 視線を左に送ると、赤レンガ倉庫の一帯が落ち着いた煉瓦色でまとまっていました。友人は、先ほど、自動車のイベントを楽しんだ赤レンガ倉庫が、明治末から大正期にかけて築かれたことに感心していました。港の向こうに広がる埠頭や倉庫群、そこを行き交う船の動きも、展望台から眺めると街の呼吸のように見えてきます。 山下公園方向に目をやれば、中華街の屋根が密集するエリアが霞むように見えました。通りを歩いていたときは、湯気と香辛料の香りがまっすぐ鼻に届きましたが、上から見ると、碁盤の目のような街路の中に人の流れがゆっくりと生まれては消えていく様子がわかります。「下では香り、上ではかたち」と言うと、友人は笑いながら頷き、街は五感で覚えるものだと話が弾みました。 ここ、ランドマークタワーは1993年に開業し、みなとみらい21の象徴として横浜のスカイラインに立ち続けています。かつて造船や鉄道の施設が集まっていたこの一帯は、港町の産業の歴史を土台にしながら、オフィスや商業施設、文化施設が並ぶ新しい都心へと姿を変えました。展望台から足元を見下ろすと、ドックヤードの石造構造が庭として残され、過去と現在が自然につながっているのがよくわかります。 港の青、煉瓦の赤、街路の白い線、そして遠くの海へ伸びる水平線。見下ろす景色のそれぞれに、この日たどった記憶が重なっていきました。観光名所を順番に消化するのではなく、下から歩き、上から俯瞰して、同じ街を二度味わう。友人に横浜を紹介するつもりが、気づけば自分自身があらためてこの街の成り立ちを学び直していました。夕暮れの色が少しずつ港に降りてくるのを眺めながら、横浜の「今」を支えている長い時間の積み重ねを感じ、また別の季節にも同じ場所から見てみたいと思いました。 旅程 東京 ↓(JR) 横浜駅 ↓(シーバス) 山下公園のりば ↓(徒歩) 中華街 ↓(徒歩) 横浜赤レンガ倉庫 ↓(徒歩) 横浜ランドマークタワー ↓(徒歩) 横浜駅 周...

横浜中華街:青い門から赤い廟へ、友人とめぐる異国情緒

現在、横浜に住んでおり、フランスから友人が遊びに来てくれました。東京観光だけではもったいないと感じて、港町らしい風景を楽しんでもらおうと横浜を案内し、その流れで中華街へ足を伸ばしました。 横浜駅からシーバスで山下公園へ移動しました。海を振り返りながら歩き、道路の向こうに青い門が見えてくると、そこが中華街の北側の入口、朝陽門でした。東西南北に色の異なる門が立つ中華街で、青い柱と屋根を持つこの門は、朝日と繁栄を象徴する「東の門」とされています。異国から来た友人にとっても、日本の港町の中に突然現れる中国の街並みは不思議な光景に映ったようで、門の下でしばらく写真を撮りながら、そのきらびやかな装飾を見上げていました。 門をくぐると、ふわっと湯気と香辛料の匂いが混じった空気に包まれます。大通り沿いには、肉まんやゴマ団子、小籠包などを売る店がずらりと並び、店先からはせいろが積み重なった蒸し器が顔をのぞかせていました。せっかくだからと、僕たちも肉まんを買い、熱々を頬張りながら散策を続けました。中華街が形成されたのは、幕末に横浜港が開港し、外国人居留地としてこの周辺に多くの外国人や華僑が住むようになったことが始まりと言われています。明治以降の発展と、関東大震災や戦災からの復興を経て、現在では日本最大の中華街として、年間数多くの観光客を迎える一大観光地になりました。 歩くにつれて、街の中心部にある横浜関帝廟の屋根が見えてきます。ここは『三国志』でおなじみの関羽を祀る廟で、商売繁盛や勝負事の神様として多くの人々の信仰を集めています。きらびやかな赤い柱と金色の装飾、龍が絡み合うように彫られた柱は、まさに「東アジアの神殿」といった趣で、友人もカメラのシャッターを何度も切っていました。関帝廟は、明治初期に小さな祠から始まり、火災や空襲で何度も焼失しながらも、そのたびに地元の華僑たちの力で再建されてきた歴史を持っています。中華街の成り立ちと同じく、この廟にも移民たちの信仰とコミュニティの歴史が刻まれているのだと感じました。 さらに少し歩くと、比較的新しい横濱媽祖廟にも立ち寄りました。ここには、航海や旅の守り神として知られる媽祖が祀られています。媽祖信仰は、かつて航海技術が未発達だった時代、危険な海を渡る人々にとって大きな心の支えだったと伝えられています。横浜港のすぐそばにこの廟が建てられたのも、...

国立中正紀念堂:威風堂々!蒋介石の足跡をたどり、台湾近代史を学ぶ

週末を利用して、国立中正紀念堂(こくりつちゅうせいきねんどう、Chiang Kai-shek Memorial Hall)に来ました。(当時は仕事の関係で台湾に住んでいました。) 国立中正紀念堂は、台湾の台北市にある歴史的な建造物で、台湾の初代総統である蒋介石(しょう かいせき、Chiang Kai-shek)を記念して建てられました。台湾の重要な観光名所の一つであり、歴史と文化の象徴として広く知られています。 中正紀念堂は蒋介石の死後、1976年に建設が開始され、1980年に完成しました。彼の指導者としての業績を讃えるために建てられています。中正とは、蒋介石の本名です。 蒋介石の像の前では、毎時間ごとに行われる衛兵の交代式が有名で、多くの観光客がこの儀式を見に訪れます。衛兵たちの整然とした動きやその厳かな雰囲気が印象的です。 中正紀念堂は伝統的な中国建築様式を取り入れつつ、白と青の配色を基調にした堂々とした外観が特徴です。屋根の青は台湾の国旗の青を象徴し、白い壁は純潔を表しています。堂内には蒋介石の巨大な銅像があり、その姿は厳かな雰囲気を漂わせています。 紀念堂は広大な自由広場(Liberty Square)の中央に位置し、広場には国立劇場と国家音楽庁も隣接しています。広場自体は、政治的なデモや文化的なイベントが行われる場でもあり、台北市の重要な公共スペースとして機能しています。 紀念堂の内部には、蒋介石の生涯や台湾近代史に関する展示が設けられており、彼の政治的な業績、リーダーシップ、そして台湾の歴史に関する資料を観ることができます。 蒋介石の評価は台湾でも議論の的であり、彼の統治時代は「白色テロ」として知られる厳しい統制が行われた時期でもあります。そのため、彼を讃える中正紀念堂は台湾の中で賛否が分かれる場所でもあります。近年では、蒋介石の像や名称を変更する動きが起こり、一部では「自由広場」として蒋介石の存在感を薄めるような変更も議論されています。 中正紀念堂は、台湾の歴史を理解するうえで重要な施設であり、台湾の複雑な政治的・文化的背景を反映した象徴的な場所と言えるでしょう。 中華民国 中華民国とは、現在の台湾を統治する政権でありながら、かつては中国大陸全体を統治していた国家です。その成立は1912年にさかのぼり、清朝が辛亥革命によって倒れた後、アジアで初めて(2...

順益台湾原住民博物館:故宮の宝物の先の台湾の原点をたどる時間

国立故宮博物院を見学したあと、そのすぐ近くにある順益台湾原住民博物館にも足を伸ばしました。 故宮の重厚な中国王朝文化の世界から、道路を渡ってわずかな距離で、台湾という島そのもののルーツに触れられる場所へと移動する──そんなコントラストが印象的な午後でした。順益台湾原住民博物館は、1994年に開館した台湾初の私立原住民博物館で、自動車関連企業グループのメセナとして設立された施設だそうです。 博物館の前に広がる広場には、民族衣装を身につけた原住民の姿が浮き彫りになった石碑が点々と置かれていました。故宮の端正な中国宮廷建築を見た直後だったこともあり、この素朴で力強い意匠がいっそう際立って見えました。台湾というと漢民族のイメージが先に立ちがちですが、この島には古くから多くの先住民族が暮らし、オーストロネシア語族に属する言語や文化を育んできたことを、広場のモニュメントが無言で語りかけてくるようでした。 館内に入ると、まず目に入ったのが原住民の船の展示でした。細長い船体に鮮やかな文様が描かれたタオ族(ヤミ族)の漁船は、太平洋に面した島々とのつながりを感じさせます。 波に揺られる姿を想像しながら眺めていると、台湾がアジア大陸の「端」ではなく、むしろ海に開かれたネットワークの「結節点」だったのだという視点が浮かび上がってきます。島の周囲を行き交う船が、人やモノだけでなく、歌や祈り、模様や物語まで運んでいたのかもしれないと思うと、小さな展示品が急にスケールの大きな歴史の断片に見えてきました。 別のコーナーには、藁葺き屋根の家屋や、石を積み上げた伝統家屋の模型が並んでいました。高床式のもの、地面にどっしりと構えたものなど、民族ごとに家の形も素材も少しずつ違います。 当時はまだ「台湾原住民」という大きな括りでしか見ていなかったのですが、屋根の勾配や壁の材質、入口の位置といった細部を見比べているうちに、「山の人」「海の人」としての暮らし方の違いが、そのまま家の形にあらわれているように感じました。 順益台湾原住民博物館は、地下1階から地上3階までのフロア構成で、信仰と儀礼、生活と道具、衣装と装飾といったテーマごとに展示が分かれています。 私が特に印象に残っているのは、「暮らし」のフロアです。籐細工の籠や、狩猟用の罠、農具、織機などが整然と並び、どれも美術品というより「使い込まれた道具」として...

三峡長福巌 清水祖師廟:職人の技が息づく台湾の名刹、祈りと芸術が交差する場所

台湾の新北市三峡区にある三峡長福巌 清水祖師廟を訪れました。かつて「三峡廟」とも呼ばれたこの廟は、台湾でも有数の規模と美しさを誇る寺院であり、訪れる人々を圧倒する精巧な建築が特徴です。 境内に足を踏み入れると、まず目に飛び込んでくるのが色鮮やかな屋根の装飾です。龍や鳳凰、伝説の人物などが立体的に表現されており、細部に至るまで職人の情熱と技が注がれているのが感じられました。屋根の曲線や装飾の一つひとつが見事で、どこを見ても飽きることがありません。 本堂の前に立つと、柱や梁に施された彫刻の精密さに思わず息を呑みました。龍、獅子、神話の動物、人物などが緻密に彫り込まれ、歴史の重みと信仰の深さが伝わってきます。こうした装飾や彫刻は、清水祖師への信仰心と、地域の人々の繁栄への願いが込められているのだと感じました。 三峡長福巌の創建は1767年(清の乾隆32年)とされ、以来、地域の守り神として人々に親しまれてきました。何度かの災害や再建を経て、現在の壮麗な姿になったのは20世紀後半のことです。廟の改修・再建には台湾を代表する工芸師が携わり、屋根の剪粘細工や木彫り、石彫りなど、台湾伝統の美が惜しみなく発揮されています。 訪れた日は地元の人や観光客がひっきりなしに参拝しており、廟の中は厳かな空気と活気に満ちていました。祈りを捧げる人々の姿や、柱や梁の美しさを眺めていると、台湾の歴史と文化が今も脈々と受け継がれていることを実感しました。 三峡長福巌 清水祖師廟は、建築の美しさと共に、地域の人々の信仰と歴史を肌で感じられる貴重な場所です。台湾を訪れる機会があれば、ぜひ立ち寄っていただきたい名所の一つです。 旅程 ホテル ↓(タクシー) 李梅樹記念館 ↓(徒歩) 三峡長福巌 清水祖師廟 ↓(徒歩) 三峽老街 ↓(徒歩) (略) 関連イベント 周辺のスポット 三峽老街 三峡興隆宮媽祖廟 三峡歴史文物館 地域の名物 関連スポット リンク 三峡清水祖師廟 > 新北市 > 交通部観光署

二二八和平公園:台北の静寂に耳をすます、記憶とともに生きる公園

本日は烏来を観光し、ホテルへの帰路に二二八和平公園周辺に寄りました。 台北の中心部、にぎやかな街並みのなかにひっそりと佇む「二二八和平公園」は、台湾の歴史に深く根ざした特別な場所です。台北駅からもほど近く、MRT台大医院駅から徒歩すぐというアクセスの良さながら、園内には穏やかな空気が流れ、訪れる人の心を静かに包み込んでくれます。 この公園の名前にもなっている「二二八事件(ににはちじけん)」は、1947年2月28日に起きた、台湾の民衆と当時の中国国民党政権との間に起きた衝突事件です。物価の高騰や官僚の腐敗に不満を抱えていた人々の抗議運動が、やがて全土に広がり、武力による鎮圧へと発展しました。数万人ともいわれる犠牲者が出たこの事件は、長い間公に語られることなく、タブーとされてきました。しかし、台湾の民主化が進むなかで再び光が当てられるようになり、犠牲者を追悼し、平和を願う象徴として、この公園が整備されました。 公園内には、「二二八記念館」と呼ばれる建物があります。これは日本統治時代に建てられたバロック様式の建築で、かつては台湾放送局として使われていた歴史ある建物です。現在は、事件に関する資料や写真、被害者の証言などを展示する博物館として公開されており、台湾の過去に静かに向き合う場となっています。 また、公園の中央には特徴的なモニュメントが設置されています。抽象的なデザインで、痛みと癒やし、そして平和への祈りを象徴しています。花を手向けたり、静かに手を合わせる人の姿も見かけられ、この場所が今も人々の心のなかで生きていることを感じさせます。 園内は池や小川、木々に囲まれ、まるで都会の喧騒を忘れさせてくれるような落ち着いた雰囲気です。日本統治時代の庭園様式の名残もあり、ベンチに腰掛けて読書をする人、ゆっくり散歩する人、子どもと遊ぶ家族など、訪れる人々それぞれが思い思いの時間を過ごしています。リスが木々を駆け回り、池ではカメがのんびりと甲羅干しをしている姿も見られ、生命の営みが感じられるのも魅力のひとつです。 公園の周辺には、国立台湾博物館や台大医院、中正紀念堂などもありますので、台北駅周辺を散策する際にはぜひ立ち寄ってみてください。日本統治時代の名残を感じさせる庭園風の景観もあり、リスやカメが姿を見せることもあるため、単なる歴史的施設にとどまらず、ゆったりとした時間を楽しめる...

雲仙楽園:泰雅族の像に見守られて歩く遊歩道

烏来瀑布の轟音を背にロープウェイに乗り、谷を越えて山上の雲仙楽園へ向かいました。断崖の上に伸びる索道は、この楽園へのアクセスとして1960年代に整備されたもので、開業は1967年。 台湾最初期の本格的なテーマパークとして始まった歴史を思うと、揺れるゴンドラの時間にもどこか郷愁が混じります。 山上に着くと、川沿いの遊歩道に泰雅族(タイヤル族)の衣装をまとい、太鼓や弦楽器を手にした像が点在していました。 赤い橋がところどころで谷をまたぎ、緑の斜面に鮮やかなアクセントを添えています。烏来という地名自体が、泰雅語で「熱い水」を意味する言葉に由来するといわれ、温泉とともに先住の文化がこの地の基層を成していることを、静かな展示や意匠から感じ取りました。 しばらく進むと小さな湖に出ました。水面には鯉がゆったりと泳ぎ、ボートの桟橋や木立に囲まれた広場が穏やかな時間をつくっていました。観光施設として整えられた湖や散策路がありつつ、谷の風と水音がそれをのみ込むように調和しているのが印象的でした。 帰りは再びロープウェイで瀑布側へ戻り、麓では烏来老街の博物館に立ち寄りました。2005年に開館した烏来泰雅民族博物館では、顔の刺青文化や織物、祭礼から日々の暮らしまで、泰雅族の歴史と精神世界が丁寧に解き明かされています。山上で目にした像の所作や文様が、展示の解説と結びついて一層リアルに立ち上がり、この谷が単なる行楽地ではなく、文化の記憶が折り重なる場所であることを実感しました。 瀑布の白と深い森の緑、赤い橋の線、そして先住の物語。雲仙楽園の一日は、景色の美しさに歴史の層が静かに重なる、そんな時間でした。 旅程 (略) ↓(徒歩) 烏来瀑布 ↓(ロープウェイ) 雲仙楽園 ↓(ロープウェイ) 新北市烏来泰雅民族博物館 ↓(徒歩) (略) ↓ 中華民国総統府 ↓(徒歩) 二二八和平公園 ↓(徒歩) 台北駅 ↓(地下鉄) 忠孝復興役 ↓(徒歩) ホテル 周辺のスポット 烏來瀑布 烏來老街 リンク 全臺主題樂園網 - 全体のテーマパーク - 雲仙楽園