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大浦天主堂:200年の沈黙を越えて、世界遺産が語る日本のキリスト教史

出島を見学したあと、徒歩で大浦天主堂(おおうらてんしゅどう)に向かいました。 長崎の丘の上にたたずむ大浦天主堂は、日本のキリスト教史に深く根ざした特別な場所です。港町長崎を見下ろすように建つその白亜の教会は、訪れる人々に静かな感動を与えてくれます。私が初めてこの教会を訪れた時、ただ美しいだけではない、長い歴史の重みと信仰の深さが感じられ、胸が熱くなったことを今でもはっきりと覚えています。 大浦天主堂が建てられたのは1864年(元治元年)。日本がまだ江戸から明治へと大きく変わろうとしていた時代のことです。当時、日本はようやく開国を果たし、外国人の往来が許されるようになったばかりでした。そうした中で来日したフランス人の宣教師たちが、長崎の外国人居留地に住む信者のためにと、この教会を建てました。設計を手がけたのはパリ外国宣教会のフューレ神父、そして実際に建てたのは日本人の職人たちです。ヨーロッパのゴシック建築に、日本独自の瓦や漆喰の技術が融合した外観は、どこか懐かしさと異国情緒を同時に感じさせてくれます。 この教会を語るうえで欠かせない出来事が、1865年(元治2年)の「信徒発見」です。教会の完成からわずか1か月後、長崎の浦上からやってきた数人の村人が、プティジャン神父のもとを訪れ、信仰を打ち明けたのです。「私たちは、あなたと同じ信仰を持っています」――200年以上にもわたる禁教の時代を密かに生き延びてきた隠れキリシタンたちが、ついに表に出てきた瞬間でした。この出来事は「東洋の奇跡」と呼ばれ、遠くバチカンのローマ教皇ピオ9世をも感動させました。 教会の中に足を踏み入れると、色鮮やかなステンドグラスから差し込む光が、荘厳な空気を醸し出しています。天井の高い空間に響く足音さえ、まるで祈りの一部のように感じられるほどの静けさです。祭壇の奥には、26聖人の名を冠した殉教者たちを祀る像が立ち、訪れる人々の思いを受け止めてくれているかのようです。隣接するキリシタン博物館では、弾圧の時代に密かに守られてきた信仰の証が展示されており、その一つひとつに、当時の人々の覚悟と苦しみ、そして希望が込められていることが伝わってきます。 2018年(平成30年)、大浦天主堂は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の一部として、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。それは、建物の美しさだけでなく、...

旧長崎英国領事館:外交の扉が開かれた場所、幕末・明治の影を映すレンガの館

出島から大浦天主堂に向かって歩いていたところ、途中で改築中らしいレンガ造りの建物を見つけました。あとで地図で確認したところ、旧長崎英国領事館でした。 かつて海を越えて日本と世界が出会った港町、長崎。そのなかでも大浦の丘にひっそりと佇む「旧長崎英国領事館」は、幕末から明治という激動の時代における国際交流の生き証人です。レンガ造りの落ち着いたたたずまいに足を踏み入れると、まるで当時の空気がそのまま閉じ込められているかのような感覚に包まれます。 長崎港が開港した1859年(安政6年)、イギリスはすぐさま領事館を設置しました。アヘン戦争後の中国情勢やアジアの海上貿易をにらんで、イギリスは長崎を極東の拠点として重視していたのです。はじめは仮の建物で外交業務をこなしていましたが、1907年(明治40年)には現在の本格的なレンガ造りの領事館が完成しました。以後、約半世紀にわたって、イギリスの外交官たちがここで働き、暮らし、日本との関係を築いていったのです。 建物は英国風のクラシックな外観が印象的で、赤レンガと白い石材のコントラストが美しいデザインです。内部には暖炉や木製の階段が残されており、当時のイギリス建築の雰囲気が今も色濃く感じられます。ステンドグラスのはめ込まれた窓から差し込む光はやわらかく、外交の舞台でありながらどこか家庭的なぬくもりも漂います。 1941年(昭和16年)、日英関係の悪化により領事館は閉鎖されました。その後はしばらく他の用途に使われた時期もありましたが、1955年(昭和30年)に長崎市の所有となり、現在は2025年まで改築工事中ですが、その後一般公開される予定です。 グラバー園や大浦天主堂といった名所に囲まれたこの建物は、幕末・明治の長崎を歩く旅のなかで、ひときわ印象深い一角となるはずです。歴史の表舞台にはあまり登場しない場所かもしれませんが、異国と日本が出会い、語り合い、時には衝突した、その「現場」に実際に立つことのできる貴重な空間です。 明治の空気と英国の気配が交錯する旧長崎英国領事館。時代の記憶を肌で感じたい方に、ぜひ訪れてほしい場所です。 日英同盟 20世紀の始まり、日本は一つの外交的転機を迎えました。それが、1902年(明治35年)に締結された日英同盟です。西洋列強によって世界秩序が築かれつつあった時代において、日本が初めて欧米列強と対等の立場で...

出島:鎖国の時代を貫いた、異文化交流の島、静かなる国際都市

長崎市に観光に来ました。眼鏡橋を見た後、出島(でじま)に向かいました。 長崎の海に浮かぶ小さな扇形の島、出島。現在は陸続きとなって長崎市街の一角に溶け込んでいますが、かつてここは日本と西洋をつなぐ唯一の窓口として、200年以上にわたって歴史の大きな舞台となってきました。 出島が築かれたのは1634年(寛永11年)のことです。当時、日本はキリスト教の布教活動に対して強い警戒心を抱いており、とくにポルトガル人の存在がその象徴とされていました。幕府はポルトガル人を隔離するために人工島を築き、そこに彼らを閉じ込めることで日本人との接触を制限しようとしたのです。しかし、1639年(寛永16年)にはポルトガル船の来航そのものが禁止され、出島はその役目を一時失います。 出島の本格的な歴史が動き出すのは1641年(寛永18年)、オランダ東インド会社の商館が平戸からこの島へ移転してからです。これ以降、幕末にいたるまでの約200年間、出島はオランダと日本のあいだで行われる唯一の公的な貿易拠点となりました。幕府はキリスト教の布教を行わないオランダに限って交易を認めていたため、出島は「鎖国」体制下における例外的な存在となったのです。 この小さな島では、実に多彩な交流が行われていました。日本からは銅や銀、漆器、陶磁器などが輸出され、ヨーロッパからは薬品やガラス器、時計、西洋の書物などがもたらされました。なかでも注目すべきは、出島を通じて日本にもたらされた西洋の学問です。医術や天文学、物理学といった分野の知識は、当時の日本の知識人たちによって熱心に学ばれ、「蘭学」という新しい学問分野が形成されていきました。杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳も、出島を通して手に入れたオランダの医学書があってこそ成し得た偉業でした。 しかし時代は変わります。1853年(嘉永6年)にペリー提督が浦賀に来航し、1859年(安政6年)には横浜・長崎・函館などが正式に開港されると、日本は本格的な開国の道を歩みはじめます。そうなると、出島という限られた空間だけに外交を閉じ込めておく必要はなくなり、オランダ商館もその地を離れました。出島はその後、長崎の市街地の中に取り込まれ、長らく歴史の表舞台から姿を消します。 しかし近年、出島の歴史的意義を見直す動きが高まり、かつての島の姿を取り戻す復元事業が進められてきました。現在では1...

群馬県立歴史博物館:土器と馬具が語る東国の古代史、古代の記憶と出会う

午前中は世界遺産の高山社跡へ行った後、群馬県高崎市にある群馬県立歴史博物館を訪れました。群馬県は訪ねたいところが多いですが、距離があったり交通網が充実していないのが残念です。自動走行のバスやタクシーが普及して交通のコストが下がると、こういった地方観光のブームが来ると思います。 最初に目にしたのは、縄文時代の展示でした。縄文土器の独特な造形には、暮らしに根ざしながらも装飾性を追求した美意識が感じられます。耳飾りや石板といった装身具や道具類も豊富に展示されており、人々が自然と調和しつつ、豊かな感性をもって日々を過ごしていたことがうかがえました。 深鉢(縄文時代早期、苗ヶ島大畑遺跡) 土製耳飾り(縄文時代晩期、桐生市) 石板(縄文時代晩期、北米岡遺跡) 続いて、展示の中心のひとつである綿貫観音山古墳に関するコーナーへ。この古墳は6世紀後半に築かれた前方後円墳で、発掘された副葬品の豪華さから当時の支配層の権力や文化水準を知るうえで重要な遺跡とされています。特に目を引いたのは、墳丘を再現したパノラマ展示で、埴輪の配置の様子が立体的に理解できるよう工夫されていました。 国宝にも指定されている馬具や装飾品の数々は、古代東国の技術の高さと中央政権とのつながりを物語っているように感じられました。 馬具(古墳時代、 観音山古墳 ) 銅水瓶(古墳時代、 観音山古墳 ) 展示を通じて、群馬という土地が縄文時代から古墳時代にかけてどれほど重要な文化の舞台であったかを改めて実感しました。遺物に刻まれた模様や形から、千年以上も前の人々の息遣いが確かに聞こえてくるようでした。 過去を知ることは、今を知ることでもあります。群馬県立歴史博物館は、そうした時間の重なりを静かに教えてくれる場所でした。 旅程 東京駅 ↓(新幹線) 高崎駅 ↓(電車) 群馬藤岡駅 ↓(徒歩 かなり遠い) ふじの咲く丘 ↓(徒歩 かなり遠い) 高山社跡 ↓(徒歩 かなり遠い) 群馬藤岡駅 ↓(タクシー) 群馬県立歴史博物館 ↓(徒歩 遠い) 北藤岡駅 ↓(電車) 高崎駅 ↓(新幹線) 東京駅 関連イベント 周辺のスポット 群馬県立近代美術館 地域の名物 関連スポット リンク 群馬県立歴史博物館 群馬県立歴史博物館ミュージアムショップ

高山社跡:絹産業発展の足跡、日本近代化を支えた知恵の源泉

高山社跡に行くため、群馬県藤岡市に来ました。 群馬藤岡駅へ向かう電車はワンマンカーで、人の少ない地域に向かうことが分かります。 (かなり)がんばれば駅から歩いていける距離なので、ウォーキングを兼ねて徒歩でいきましたが、予定を立てているときから分かっていたのですが、途中に観光スポットが無く、かなり辛いウォーキングになりました。気分転換に、季節外れのふじの咲く丘に寄ったあと、高山社跡に徒歩で向かいました。 高山社跡は、世界遺産の「富岡製糸場と絹産業遺産群」を構成する資産の一つで、富岡製糸場に行ったときに知りました。 高山社に近づくと、完全に山に中になりきれいな川が流れています。写真では涼し気ですが、当日は猛暑で汗だくでした。 高山社跡の手前の駐車場(普通は車で来る距離です)に、お勧めのルートとして、先に高山社情報館に行くようになっていたので、まず情報館に行きました。 手間の広場には、高山社創設者の高山長五郎(たかやま ちょうごろう)(1830年(文政13年)~1886年(明治19年))の銅像があります。 情報館では、学芸員の方に、富岡製糸場、高山社跡、田島弥平旧宅、荒船風穴について説明していただけます。興味深かったのは、養蚕業が日本中でブームになっていた当時、蚕の天敵のねずみ対策として、ネコやへびの需要が高まり、神社などで祀られたそうです。ネコの需要は特に高まり、非常に高額になったそうです。あまり知られていませんが、ネコバブルです。コロナ中に、マスクやトイレットペーパーが高騰したことを考えると、人は150年たっても変わらないな、と思います。 明治の絹産業、養蚕業に関わった人の資料や、養蚕に関わる道具の展示もされています。 情報館でお話を聞いて、資料全体を見た後、高山社跡に向かいました。ここは徒歩数分です。 高山社は、高山長五郎が養蚕技術を指導するために1873年(明治6年)に高山組を作り、その後1884年に高山社となりました。社となっていますが、養蚕の教育機関です。 高山長五郎は1886年に亡くなり、後を継いだ門下の町田菊次郎が私立甲種高山社蚕業学校(養蚕学校)を設立しました。 当時の養蚕は田島弥平が確立した「清涼育」という方法で育てられていましたが、高山長五郎は「清温育」を新しく確立し、それを学校で教えました。 高山社蚕業学校の卒業生には、荒船風穴を築いた庭屋千壽もい...

鉄道博物館:子供から大人まで、歴史と技術を一気に楽しめるてっぱくで感じる鉄道の魅力

本日は、さいたま市の大宮駅近くにある鉄道博物館(てつどうはくぶつかん)に来ました。 埼玉県さいたま市にある鉄道博物館は、通称「てっぱく」として親しまれる日本最大級の鉄道ミュージアムです。鉄道ファンはもちろん、家族連れやカップルでも楽しめる人気の観光スポットです。 館内には、日本の鉄道の歴史を象徴する車両が数多く展示されています。蒸気機関車や0系新幹線、寝台特急「あさかぜ」など、歴史的にも価値が高い車両を間近で見ることができ、その迫力と存在感は圧巻です。 また、博物館には本格的な運転シミュレーターも設置されています。電車の運転士気分をリアルに体験できるため、大人から子供まで夢中になれるコーナーとなっています。 館内の大きな見どころの一つが、日本最大級の鉄道ジオラマです。精巧に再現された街並みの中を小さな列車が走る様子は、まるで実際の鉄道風景を俯瞰しているかのような感覚にさせてくれます。定期的に開催されるジオラマショーも見逃せません。 さらに、館内には鉄道技術の仕組みをわかりやすく解説した「科学ステーション」もあり、体験型の展示で楽しみながら鉄道への理解を深めることができます。屋外展示のエリアでは、実物の車両展示やミニ列車の乗車体験もでき、特に子供たちに大人気です。 食堂車を再現したレストランでは、昔ながらの洋食メニューを味わいながら鉄道旅行の気分を楽しめます。また、お土産にぴったりなオリジナルグッズや鉄道模型を扱うミュージアムショップも充実しています。 アクセスは、JR大宮駅からニューシャトルに乗り換え、「鉄道博物館駅」で下車後、徒歩わずか1分。都心からもアクセスが良く、休日のお出かけ先として最適です。 鉄道博物館は鉄道の魅力をさまざまな角度から楽しめる施設であり、何度訪れても新しい発見があるおすすめスポットです。 東海道新幹線 東海道新幹線(とうかいどうしんかんせん)は、日本の高度経済成長期を象徴する大きなプロジェクトのひとつで、日本初の高速鉄道として、1964年(昭和39年)10月1日に東京〜新大阪間で開業しました。当時の日本は戦後の復興から経済の急成長を遂げ、東京・名古屋・大阪間を結ぶ東海道本線は混雑が激しく、輸送能力が限界を迎えていました。そこで計画されたのが、高速鉄道「新幹線」でした。 1959年4月に建設が始まり、東京オリンピックに合わせて約5年半という短...

世良田東照宮:徳川のルーツにふれる夕暮れの参拝旅

世良田東照宮を訪れたのは、初夏の夕方のことでした。朝に埼玉県の深谷駅を出発し、渋沢栄一ゆかりの地や、世界遺産に登録された田島弥平旧宅を巡りながら北上しました。途中で「徳川町」と名付けられた一帯を通り、徳川氏ゆかりの地としての空気を少しずつ感じつつ、旅の締めくくりのように世良田東照宮へと向かいました。 世良田は、かつて新田氏の荘園・新田荘の一角であり、徳川家康の先祖とされる新田義季がこの地の「得川(徳川)郷」を領したことから、のちに徳川氏発祥の地とされてきた土地です。義季は利根川沿いの押切の地名を「徳川」と改め、自身も徳川義季と名乗ったと伝えられています。その子孫が三河に移り松平氏を称し、そこからさらに世代を重ねて家康が生まれました。家康はやがて三河を統一し、先祖・義季にあやかって姓を松平から徳川に改めたといわれています。徳川という名は、まさにこの世良田の地と結びついた名前なのだと思うと、まだ境内に入る前から歴史の層の厚さを意識させられます。 そんなことを頭の片隅に置きながら歩いていくと、まず目に入ったのは黒く落ち着いた佇まいの門でした。朱色の華やかな東照宮を想像していたので、最初は少し意外にも感じましたが、よく見ると、色味を抑えた分だけ木の質感や年月の積み重ねがよく伝わってきます。磨かれ過ぎていない落ち着いた門が、むしろ「徳川発祥の地」を守ってきた長い歳月を物静かに語っているようでした。 ところが境内に入ると、拝殿はちょうど改装工事の最中で、建物全体が工事用の幕にすっぽりと覆われていました。せっかく来たのに拝殿が見られないのか、と一瞬残念な気持ちになりましたが、仮の拝殿が設けられており、まずはそちらで参拝しました。簡素ではありますが、臨時とはいえきちんと「東照宮」としての空気が漂っていて、旅の無事を感謝しつつ手を合わせました。 そのあと、本殿に向かうための仮設の通路が拝殿の裏手に伸びていました。工事中ならではのルートで、足元に気をつけながら進んでいくと、ふだんは拝殿に隠れてなかなか近づけない本殿のあたりまで行くことができました。世良田東照宮の社殿は、三代将軍・徳川家光が日光東照宮の造替を行った際、日光の奥社の社殿をこの地に移して創建したものと伝えられています。今考えてみると、改装工事中だったおかげで、本殿により近づいて参拝できたのは、むしろ貴重な体験だったのかもしれ...