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江海関/外灘:近代と現代が向かい合う、黄浦江のほとり

黄浦江(こうほこう)の河畔に広がる外灘は、初めて訪れてもどこか懐かしさを感じる不思議な場所です。この日は仕事の予定で上海に滞在していましたが、空いた時間を使って一人で市内観光をしていました。豫園(よえん)を歩き回ったあと、その足で外灘(がいたん、ワイタン)へ向かいました。

ビルの合間を抜けていくと、ふっと視界が開けて黄浦江の広い流れが現れます。秋の終わりの冷たい空気の中、河畔の遊歩道を北に向かって歩き始めました。対岸には、未来都市のような高層ビル群が林立し、その手前には茶色がかった川面が静かに流れています。一方、自分が歩いている西岸側には、まったく時代の違う西洋風の重厚な建物が並んでいて、近代と現代が向かい合っているように感じました。

しばらく歩くと、ドーム状の屋根をいただいた西洋風の建物が見えてきます。石造りのファサードは堂々としていながらもどこか柔らかく、夜になるとライトアップされてより一層存在感を増しそうだと想像しました。その奥に、ひときわ高い時計塔を持つ建物が見えてきます。これが江海関(こうかいかん)、上海税関の建物です。

江海関の歴史を少し振り返ると、この建物は単なる「きれいな古いビル」ではなく、上海が世界に向かって港を開いていった象徴とも言える存在です。もともとの税関は清の康熙帝(こうきてい)の時代、17世紀末に海禁が解かれた後に設置され、長江流域の貿易を管理する拠点として機能していました。やがて上海の海外貿易が急速に発展し、外国船は現在の外灘付近を好んで停泊するようになります。その結果、税関も市壁の外、黄浦江沿いへと移転し、列強の租界と密接に結びついた「江海関」として運営されるようになりました。

現在の江海関の建物は、1920年代に建て替えられたものです。1925年に着工し、1927年に完成したこのビルは、当時の最新技術である鉄筋コンクリート構造を採用しながら、外観はギリシア復古様式の落ち着いたネオ・クラシックな意匠でまとめられています。黄浦江側の部分は八階建てで、その上にそびえる時計塔は約90メートルに達し、完成当時は外灘で最も高い建物でした。

時計塔に設置された大時計は、設計がロンドンのビッグベンを手本としており、アジア最大級の機械式時計と言われます。四面に配された文字盤は直径5メートルを超え、内部の鐘もイギリスで鋳造されて上海まで運ばれました。長い間、外灘の時を告げる音として市民に親しまれ、上海の人々の生活リズムを刻んできました。

外側から眺めるだけでも、その歴史の重みを感じます。正面入口にはどっしりとしたドリス式の柱が並び、内部には金箔で装飾された柱やモザイクで飾られた八角形のドームがあるそうです。かつてここで、世界中から運ばれてきた貨物に税が課され、上海を通じて中国の内陸へと流れていきました。その税収は近代中国の財政を支える柱の一つでもあり、この建物の中から、文字通り「国の懐」が動いていたのだと思うと、ただの景観以上のものが見えてきます。

そんな背景を知ると、自分が外灘を歩きながら江海関を見上げたときに感じた、言葉にしにくい懐かしさのような感覚にも説明がつくように思えます。日本でも明治、大正、昭和初期の洋風建築を見ると、不思議と懐かしさを覚えますが、江海関もそれに通じるものがありました。石造りの壁面の色合いや、角ばったフォルムの中にもどこか丸みのあるディテール、近代国家が「これから世界と肩を並べていこう」としていた頃の意気込みが、建物の形として残っているように感じられます。

外灘の対岸には、テレビ塔や超高層ビルが林立する浦東の摩天楼が広がっています。その壮大な夜景に目を奪われがちですが、足元の外灘側に並ぶ建物を一つひとつ見ていくと、上海が港町として世界に開かれ、列強と駆け引きをしながら近代化していった歴史が刻まれています。その中でも江海関は、海外との物流と財政を一手に担った要の施設として、特別な位置を占めてきました。

2010年の秋の一日、仕事の合間のささやかな観光で立ち寄った外灘と江海関でしたが、黄浦江の冷たい風に吹かれながら歩いていると、自分が立っている場所が、19世紀から20世紀にかけての中国近代史の舞台そのものだったことに気づかされました。日本で見る明治の銀行や郵便局の建物と同じように、この場所にも人々の希望や葛藤、そして時代のうねりが刻み込まれています。

この日見上げた時計塔は、きっと今も黄浦江の流れを見下ろしながら、静かに時を刻み続けているのだろうと思うと、2010年の自分の姿もその長い時間の一コマとして、どこかに溶け込んでいるような気持ちになります。

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江海関/外灘

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