本日、プラハ観光の1日目に旧市街地を歩いていて、ふと視線の先にまるで物語の世界から飛び出してきたような教会が現れました。目印にしていたのは、旧市庁舎の天文時計がある旧市街広場です。観光客でにぎわう広場の向こう側に、黒い尖塔を二つ並べた巨大な建物がそびえ立っていました。それが「ティーンの前の聖母教会」でした。
広場から見る教会は、赤やパステルカラーのかわいらしい建物に囲まれているにもかかわらず、そこだけ空気の色が違うように感じました。二本の塔の先は鋭く尖り、その根元からさらに細長い小さな尖塔がいくつも突き出しています。すべてが黒っぽい色で統一されているので、私には「教会」というより、ファンタジー映画に出てくる悪役の城のようにも見えました。実際、この教会の塔は高さ約80メートルあり、旧市街のシンボルとして遠くからでもよく目立つ存在なのだそうです。
広場から近づいていくと、建物の表情は少しずつ変わっていきます。正面は他の家々に隠れるように建っていて、細い通路を抜けると、ようやく教会の壁が目の前に現れました。壁の煉瓦や石の積み方がはっきりと見え、長い年月を耐えてきた重みを感じます。と同時に、どこかおどろおどろしさもあり、明るい旧市街広場とのコントラストが印象的でした。あとで知りましたが、「ティーンの前」という名前は、もともとこの近くに外国商人のための交易施設「ティーンの中庭」があり、その前に建てられた教会だったことに由来するそうです。
この場所の歴史をさかのぼると、11世紀にはすでにロマネスク様式の教会が建っていて、13世紀半ばには初期ゴシックの教会に建て替えられていました。現在見られる大きなゴシック教会の建設が本格的に始まったのは14世紀で、カール4世の時代のプラハを飾る建築プロジェクトの一つでした。その後、約200年もの時間をかけて工事が進められ、15世紀にはほぼ現在の姿に近い形になり、旧市街の人びとのメインの教会として機能するようになっていきます。
しかし、この教会の歴史は、ただ荘厳なゴシック建築というだけでは語れません。15世紀には、宗教改革者ヤン・フスの流れをくむフス派(フス教徒)の拠点となり、フス派の指導者ヤン・ロキツァナがここの司祭を務めていました。 当時、教会の中央破風にはフス派の象徴である巨大な金の聖杯が掲げられていたといいます。しかしやがて勢力を取り戻したカトリック側によってフス派は弾圧され、この聖杯は溶かされてしまいます。その黄金で制作されたのが、現在もファサードに飾られている聖母マリア像だという伝承が残っています。 旧市街広場の中央には、ヤン・フス像が今も人びとを見つめていますが、広場を挟んで教会と像が向かい合っている姿を見ると、ボヘミアの宗教対立の歴史が一瞬よぎるようでした。
この日、私は中には入りませんでした。黒い尖塔の迫力に少し圧倒されました、というのは冗談でぱっと入り方が分からなかったので、後回しにしていて忘れてしまいました。ただ、あとで調べてみると、内部は想像していた「ダークな城」のような雰囲気とはかなり違うことを知りました。内部の調度品は主にバロック様式でまとめられており、金色に輝く祭壇や多くの絵画、優雅なパイプオルガンが並ぶ華やかな空間なのだそうです。17世紀に作られたこのオルガンは、プラハでも最古級のものの一つとされており、コンサートも開かれています。
さらに興味深いのは、天文学者ティコ・ブラーエの墓がここにあることです。彼は16世紀末にプラハで活動し、皇帝ルドルフ2世に仕えながら精密な天体観測を行った人物です。その墓は主祭壇の右側にあり、1601年の死の翌年には大理石の記念碑も建てられました。旧市街広場から見上げると、ただ「黒い双塔の教会」にしか見えなかった建物の内部に、天文学史の重要人物が眠っていると思うと、プラハという街の歴史の層の厚さを改めて感じます。
教会の前まで行って一通り眺めたあと、私は再び旧市街広場へ戻り、ヤン・フス像の方へ歩いていきました。広場にはカフェのテラス席や観光客の笑い声があふれ、さきほどまで見上げていた黒い尖塔の重い空気とは対照的な、明るい雰囲気が漂っています。同じ場所に、宗教改革の記念像と、ゴシックの教会、そして現在の観光都市としてのプラハが重なっていることが不思議でした。
もし次にプラハを訪れる機会があれば、今度はぜひティーンの前の聖母教会の中にも入ってみたいと思います。外から見たときの「悪役の城」のようなおどろおどろしさと、バロックの華やかな内部、そしてフス派の闘いの記憶やティコ・ブラーエの眠る静かな空間。そのすべてを自分の目で見て歩くことで、旧市街広場で感じた不思議な違和感の正体が、もう少しはっきりしてくるのかもしれないと感じています。
ティコ・ブラーエ
夜空を見上げるとき、私たちは当たり前のように「地球が太陽のまわりを回っている」と信じています。けれど、その姿をまだ誰も見たことがなかった時代に、目と道具だけを頼りに、空の動きを測り直そうとした人がいました。デンマークの貴族であり、近代天文学の扉を開いたティコ・ブラーエです。
ティコは1546年、北欧デンマークの名門貴族の家に生まれました。少年時代に見た日食の予報に衝撃を受け、「どうして未来の空の出来事が分かるのか」という素朴な驚きが、彼を計算と観測の世界に引き込んでいきます。やがて1572年、カシオペヤ座に突如あらわれた「新しい星」、のちに超新星と分かる天体を目撃し、彼はその明るさや位置を粘り強く測り続けました。この「ティコの星」の観測は、「宇宙は変わらない」という古い常識に揺さぶりをかけることになります。
ティコの名を歴史に刻んだ大きな理由は、自らの手でヨーロッパ初の本格的な天文台をつくり上げたことです。デンマーク王フレデリク2世の支援を受けたティコは、コペンハーゲン近くのフ島(現在のスウェーデン・ヴェン島)に、国家プロジェクトとして「ウラニボルグ」という天文台兼研究所を建設します。これは、観測のためにゼロから設計された近代ヨーロッパ最初の本格的な天文台であり、宮殿のような建物に天文観測機器と実験室、そして印刷所や製紙工場まで備えた、ルネサンス期の「研究都市」のような存在でした。
当時はまだ望遠鏡が発明される前で、星を測る道具といえば、巨大な分度器のような機械や、高さ数メートルに及ぶ四分儀といった、肉眼観測用の器具でした。ティコはそれらを金属と石で頑丈に作り、風で揺れないよう工夫し、角度の目盛りを徹底的に細かく刻みました。その結果、彼の観測は、誤差が1分角(1度の60分の1)ほどという、当時としては桁違いの精度を達成します。ウラニボルグと、後に造られた地下天文台ステルネボルグでは、長年にわたって恒星や惑星の位置が系統的に観測され、1000個以上の星のカタログや、詳細な惑星の運行表が生み出されました。
惑星の観測も、ティコの重要な仕事でした。火星や木星、金星などの惑星が、夜空の中でどのように逆行し、どのような周期で戻ってくるのか。ティコは、それまでの天文学者よりもはるかに正確に、その動きを記録していきます。しかし宇宙の「モデル」については、彼は完全な地動説には踏み切りませんでした。ティコが提案した宇宙像は、地球を中心に月と太陽が回り、その太陽のまわりを他の惑星が公転するという、いわば地球中心と太陽中心を折衷した「ティコ式宇宙モデル」でした。観測の精度は最先端でありながら、世界観としては伝統的な地球中心宇宙に一歩残っていたとも言えます。
やがてティコは王の後ろ盾を失い、デンマークを離れてプラハへ向かいます。そこで出会ったのが、のちに「ケプラーの法則」で知られるヨハネス・ケプラーでした。ケプラーは理論好きの数学者であり、ティコは観測と機械に強い職人肌の研究者でした。二人の性格は必ずしも相性がよかったとは言えませんが、精密な観測データを持つティコと、宇宙の調和を数式で表したいケプラーは、互いに必要としていた相手でもありました。
ティコが亡くなったあと、膨大な惑星の観測データを引き継いだケプラーは、火星の動きと格闘し続けます。円軌道を前提に計算すると、どうしてもティコのデータと食い違う。誤差をごまかさずに向き合ったケプラーは、ついに「惑星は太陽を一つの焦点とする楕円軌道を描いている」という結論にたどりつきます。これが、「惑星は楕円軌道を描く」というケプラー第一法則です。続いて、太陽に近いときほど速く動き、遠いときほどゆっくり動くことを示す第二法則、軌道の大きさと公転周期の関係を示す第三法則が生まれ、これらはまとめて「ケプラーの法則」と呼ばれるようになりました。
つまり、惑星の楕円軌道という発想は、ティコ自身が打ち立てたものではありませんでした。しかし、ケプラーがそこに到達できたのは、ティコがウラニボルグで集めた、当時世界最高精度の惑星観測データがあったからです。もしデータがもう少し粗かったら、円軌道でも誤差の中に紛れてしまい、「楕円」という大胆な仮説まで踏み込めなかったかもしれません。ティコは、自らの宇宙モデルが最終解ではなかったにもかかわらず、その観測が次の世代に渡り、宇宙像を大きく書き換える土台になったという点で、非常に稀有な存在だと思います。
今日の私たちは、宇宙の研究というと巨大な望遠鏡や宇宙望遠鏡、国際協力プロジェクトを思い浮かべます。16世紀末のウラニボルグは、まさにその原型でした。国王の予算で建てられた研究施設に、世界中から弟子や職人が集まり、観測機器が開発され、データが組織的に蓄積され、印刷所から本となって発信されていく。ティコ・ブラーエは、惑星観測の名手であると同時に、「ヨーロッパ発の近代的な天文台」を作り上げたプロジェクトリーダーでもありました。
楕円軌道を発見したケプラーの名はとても有名ですが、その背後には、精度にこだわって夜空を測り続けたティコの天文台の日々があります。夜空に輝く惑星を眺めるとき、「この軌道の形を暴き出したのはケプラーだけれど、その裏には、望遠鏡もない時代に、ひたすら星の位置を測り続けた人がいたのだな」と想像してみると、400年以上前の小さな北欧の島と、今私たちが見ている星空が、少しだけつながって見えてくるように感じます。
旅程
(略)
↓(徒歩)
カフカの像
↓(徒歩)
↓(徒歩)
↓(徒歩)
ヤン・フス像
↓(徒歩)
(略)
周辺のスポット
- 旧市庁舎
- エステート劇場
- 聖ハヴェル教会
関連スポット
- ティコ・ブラーエ関連
- ティコ・ブラーエ博物館(スウェーデン・ヴェン島):スウェーデン南部スコーネ地方沖、エーレスンド海峡に浮かぶ小島ヴェン島に、ティコ・ブラーエが築いた天文観測施設ウラニボルグと、地下観測所ステルネボルグの跡があります。
- クヌートストルプ城(スウェーデン・スコーネ地方):ティコ・ブラーエの生まれた館
- ティコ・ブラーエとヨハネス・ケプラー像(プラハ城近く、外務省裏手)
- ベナートキ・ナド・イゼロウ城(プラハ近郊の町ベナートキ・ナド・イゼロウ):皇帝ルドルフ2世がティコに与えた居館兼観測所
- ティコ・ブラーエ・プラネタリウム(旧称)(デンマーク・コペンハーゲン)
- 葛飾区郷土と天文の博物館:ティコ・ブラーエが使用した観測装置「大アーミラリー」の原寸大レプリカを展示
- 大阪市立科学館:科学館の貴重資料コレクションの中に、1648年刊行の『ティコ・ブラーエ著作集(Opera Omnia)』
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