東京都北区の「近藤勇と新選組隊士供養塔」を訪ねました。このころはコロナ禍で、人の多い場所を避けながら週末に関東近郊をスクーターで探索しており、この日も「どこか静かに歩ける場所はないか」という軽い気持ちで板橋周辺に立ち寄りました。板橋駅近くの駐輪場にスクーターを停め、駅前から少し歩きながら地図を眺めていると、すぐ近くに「近藤勇と新選組隊士供養塔」という表示が見え、自然に足が向きました。
現地は、交通量のある駅前に、人通りの多い場所でした。供養塔は想像以上に大きく、堂々とした墓石が据えられていて、幕末という遠い時代の出来事が、いまの生活圏のすぐ隣に折り重なっていることを実感します。
そばには「近藤勇埋葬当初の墓」という立札が添えられた大きな石もあり、いったんここに“埋められた”という生々しい事実が、観光地の説明以上の重みで迫ってきました。さらに周囲には近藤勇の像や石碑もあり、個人の墓というより、時代の記憶を受け止める場として整えられている印象でした。
背景を少し辿ると、この一帯は新選組局長・近藤勇(こんどう いさみ)の最期と深く結びついています。近藤は慶応4年(1868年)4月25日、板橋平尾宿の一里塚で斬首され、首は京都でさらされ、胴は滝野川の無縁塚に埋葬されたと伝えられます。その後、明治9年(1876年)に新選組隊士の永倉新八が発起人となり、旧幕府典医の松本順(良順)の協力も得て、近藤勇や土方歳三、そして殉死した隊士たちを弔う墓碑(供養塔)が建てられました。側面には多数の関係者名が刻まれ、北区の文化財にも指定されているという点からも、単なるファンの“聖地”に留まらない史資料としての価値がうかがえます。
板橋駅のすぐ近くに、こうした供養の場が静かに残っていること自体が、江戸が「都市として更新され続けた場所」であると同時に、「記憶が消え切らずに地面の下に層をなしている場所」でもあることを教えてくれます。駅前という日常の動線の中で、歴史が急に立ち上がってくる感覚は、現地を歩いた人にしか得られない体験でした。
もともと板橋に明確な目的があったわけではありませんが、結果としてこのあと寿徳寺にも足を運ぶことになり、気づけば一日が「近藤勇をめぐる日」になりました。供養塔を起点にして周辺を歩くと、幕末史が本や映像からではなく、地名や道の曲がり方、駅と寺の距離感といった“現実のスケール”で体に入ってきます。混雑を避けるための近場の探索が、思いがけず歴史への接続になった、そんな一日でした。
旅程
板橋駅
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すがも鴨台観音堂
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板橋駅
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