本日、伊勢神宮の内宮と外宮をお参りしたあと、まだ少し時間があったので、足を延ばして伊勢市河崎(かわさき)に向かいました。参拝を終えたあとのほどよい疲れと高揚感を抱えながら、今度は「伊勢の台所」と呼ばれたまちの記憶に触れようという、小さな寄り道でした。勢田川沿いに広がる河崎は、江戸時代から水運を生かした問屋街として栄え、伊勢神宮への参宮客に食料や雑貨を供給する拠点として発展した地域です。
河崎の通りを歩いていると、「古本屋ぽらん」や「大長」と書かれた店など、昔ながらの佇まいを残した建物がぽつぽつと現れました。観光地として整えられた町並みというより、今も生活の気配が残る中に、古い商家が静かに息づいているような雰囲気です。伊勢市街の中心からそう遠くないのに、歩くにつれて時間の流れが少しずつゆっくりになっていくように感じました。その先に現れたのが、この日の目的地である伊勢河崎商人館でした。
伊勢河崎商人館(いせかわさきしょうにんかん)は、江戸時代中期に創業し、約三百年続いた老舗の酒問屋「小川酒店(旧小川酒造店)」の建物を修復し、歴史文化交流拠点として再生した施設です。勢田川の水運に支えられた河崎の繁栄を象徴する商家で、敷地内の蔵七棟と町家二棟など、十二棟の建物が国の登録有形文化財に指定されています。 かつてはここに全国から酒や物資が運び込まれ、伊勢のまちと参宮客の暮らしを支えてきたのだと思うと、建物に一歩足を踏み入れただけで、ふだん目にする「古い家」とは重みの違う空気を感じました。
外観は、黒い板壁に瓦屋根の、いかにも河崎らしい蔵と町家の混じり合った姿ですが、中に入ると印象が少し変わります。まず一階には暖炉のある洋間があり、和風の商家の中に突然現れる洋風の応接室に驚かされました。明治から昭和にかけて、取引先や来客を迎える場として洋間を設けたのでしょうか。和の建物に洋の家具や暖炉が収まっている様子は、単なる「和洋折衷」という言葉以上に、時代の移り変わりを受け止めながら商いを続けてきた商家の工夫と意気込みを感じさせました。
母屋の奥へ進むと、急な階段が現れます。そろそろと上りたくなるような角度で、その下には物入れがしっかり作られていました。この階段と物入れの組み合わせが、まさに古い家らしい部分で、生活の細部にまで「商いの現場」としての実用性がにじんでいます。
二階に上がると、そこは畳敷きの和室が続きました。畳の感触と低い天井、窓の向こうに見える河崎のまちなみが一体となって、ここで暮らし、商売を営み、客を迎えた人びとの姿を自然と想像してしまいます。さらに奥の蔵の一つは、ガラス張りの展示室になっていて、古い機械が整然と並んでいました。ぱっと見ただけでは蓄音機なのかラジオなのか迷うような機械もあり、かつての暮らしの中で音や情報を運んでいた道具たちが、今は静かに並んでいます。商人館では、こうした道具だけでなく、伊勢河崎の歴史や「伊勢の台所」としての役割、日本最古の紙幣といわれる「山田羽書」なども展示しており、河崎という町が単なる物流拠点ではなく、文化や金融の面でも重要な役割を担っていたことが伝わってきます。
館内を歩いている途中、他の観光客の案内を終えたガイドの方とすれ違いました。その方が、敷地の脇にあるコンクリート造りの小さな建物を指さし、「これも登録有形文化財なんですよ」と一言だけ教えてくれました。ぱっと見ただけでは、倉庫なのか機械室なのか分からない、飾り気のない建物です。しかし、伊勢河崎商人館には、明治時代から製造されていたご当地サイダー「エスサイダー」のろ過施設や検査室が残されており、そうした機能を担っていた建物も文化財として登録されています。 何に使われていたのか想像しながら眺めていると、一見地味なコンクリートの小屋にも、この町の商いと産業の歴史がぎゅっと詰まっていることに気づかされました。
伊勢河崎商人館が今の姿で残っている背景には、地元の人びとの根気強い保存活動があります。老舗の酒問屋が平成11年に閉業したあと、広大な敷地と建物を前に、地域だけで維持するのは難しい状況でしたが、住民たちが行政に働きかけ、市が土地を購入し修復する代わりに、運営は市民が担うという形で「伊勢河崎まちづくり衆」というNPOが設立されました。 いま私たちが気軽に見学できるのは、こうした「まちの記憶を残したい」という思いが形になった結果だと思うと、一部屋一部屋を通り過ぎるたびに、感謝と尊敬の気持ちがわいてきます。
外に出てから、あらためて通りを振り返ると、黒い板壁の蔵と町家が並ぶ風景の向こうに、勢田川の水面がちらりと見えました。江戸時代、この川を行き交う船から物資が下ろされ、そのまま蔵に運び込まれていたことを思うと、静かな川沿いの風景がにわかに活気づいた港町の姿として立ち上がってきます。かつては「伊勢の台所」として、今はレトロな町歩きとカフェやショップが楽しめる観光エリアとして、形を変えながらも人びとの暮らしを支え続けているのが河崎というまちなのだと感じました。
伊勢神宮の参拝だけで一日が終わってしまいがちな伊勢観光ですが、その「アフターストーリー」を教えてくれる場所が伊勢河崎商人館だと思います。神宮で祈りを捧げたあと、少し足を延ばして、参宮客を迎え支えてきたまちの側の歴史に触れてみると、伊勢という土地が立体的に見えてきます。急な階段、洋間の暖炉、畳の部屋、ガラス越しに並ぶ古い機械、そして用途の分からない小さなコンクリートの建物。それぞれの断片が、伊勢河崎で暮らした人びとの時間を今につなぐ装置のように感じられ、静かな秋の午後の記憶として心に残りました。
旅程
東京
伊勢市駅
↓(バス)
内宮前
↓(徒歩)
伊勢神宮内宮
↓(徒歩)
↓(徒歩)
伊勢神宮 外宮
↓(徒歩)
古本屋 ぽらん
↓(徒歩)
↓(徒歩)
↓(徒歩)
伊勢市駅
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