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関ヶ原古戦場/岐阜関ケ原古戦場記念館/関ケ原笹尾山交流館/関ヶ原戦国甲冑館

本日、岐阜県不破郡の関ヶ原古戦場を歩きました。戦国時代のクライマックスともいえる関ヶ原の戦いの舞台を、実際に自分の足でたどってみたいと思い、日帰りで訪れました。

関ケ原駅を降りると、周囲はのどかな田園風景ですが、案内板には「東軍陣跡」「西軍陣跡」といった文字が並び、すでに歴史散策モードに切り替わります。駅から道なりに進んでいくと、まず岐阜関ケ原古戦場記念館が現れました。ここを最初の拠点にして、ビデオシアターや展示で関ヶ原の戦いの全体像を頭に入れてから歩き出すことにしました。

館内では、1600年に起こった関ヶ原の戦いがどのような経緯で勃発し、どのような布陣で戦われたのかを、映像と模型を使って分かりやすく解説していました。徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とした西軍が、この東西交通の要衝・関ヶ原に集結し、日本の行方を決める一日限りの大会戦が行われたことを、改めて「物語」として体感できます。予備知識として知っていたつもりの歴史も、大画面で合戦の様子を疑似体験すると、頭の中に立体的に配置されていくのが分かりました。

記念館を出たあとは、いよいよ古戦場を歩き始めます。まず向かったのは細川忠興陣跡でした。静かな田畑の中に陣跡の標柱と説明板が立っているだけなのですが、記念館で見た布陣図を思い出しながら眺めると、ここに細川勢が控えていたのだと実感がわいてきます。そのまま決戦地へと足を進めると、一気に視界が開けました。現在は穏やかな平地ですが、この場所で短時間のうちに戦局が決し、多数の武将たちの運命が変わったのだと思うと、風景の見え方が変わります。

さらに進んで、石田三成陣跡や島左近陣跡を訪ねました。石田三成の本陣が置かれた笹尾山は小高い丘になっており、上まで登ると関ヶ原の盆地が一望できます。ここからなら東軍の動きだけでなく、西軍諸隊の配置もよく見えたはずで、三成がこの場所を本陣に選んだ理由が体感的に理解できます。島左近陣跡の近くには関ケ原笹尾山交流館や関ヶ原戦国甲冑館があり、甲冑や武将に関するさまざまな資料に触れることができました。大きな博物館とはまた違う、地域に根ざした展示や解説が印象的で、地元の方々の「関ヶ原を伝えたい」という思いも感じられます。

その後も、古戦場内の各スポットを順に巡りました。徳川家康最後陣跡では、合戦の途中で家康が本陣を前進させ、勝利を確信して采配を振るっていたとされる場面を想像します。島津義弘陣跡では、数的不利な状況からの「敵中突破」の逸話が思い浮かび、静かな田畑の風景と激しい退き口のイメージとのギャップに不思議な感覚を覚えました。開戦地、福島正則陣跡、京極高知・藤堂高虎陣跡、松平忠吉・井伊直政陣跡、そして戦いの後に首級がおさめられた東首塚なども歩きましたが、車で一気に回るのとは違い、徒歩でたどることで、各陣地間の距離感や高低差が身体感覚として残りました。

関ヶ原の戦いは、教科書の中では「戦国時代の終わり」「江戸幕府成立への決定的な一戦」として紹介されますが、実際に現地を歩いてみると、一つの合戦に対してこれほど多くの資料館や記念施設が集中していることに驚かされます。岐阜関ケ原古戦場記念館のような大規模な施設から、甲冑や武将のゆかりを紹介する小さな資料館まで、関ヶ原という「コンテンツ」が、現代の観光や学びの場として徹底的に掘り下げられていることを実感しました。戦国ゲームや大河ドラマなどの人気もあり、関ヶ原は「分かりやすく物語にしやすい」題材なのだろうと思いますが、その分、歴史の光の当たり方にも濃淡が生まれているようにも感じます。

古戦場をひととおり巡ったあと、近くの不破関跡と不破関資料館にも足を延ばしました。不破関は、奈良時代から平安時代にかけて設けられた古代の関所で、東国と畿内を結ぶ交通・軍事の要衝を監視し、往来を管理する役割を果たしていました。つまり、この地域は関ヶ原の戦いよりずっと以前から「境界」と「通行」をめぐる重要な場所だったわけです。

ところが、関ヶ原古戦場周辺と不破関跡を比べると、整備や展示にかけられているお金や人の手間の違いが、どうしても目についてしまいます。古戦場エリアは最新の映像設備や体験型展示が整い、多くの観光客で賑わっているのに対し、不破関は歴史的な価値こそ高いものの、展示や建物はより素朴で、訪れる人の数も少ないように見えました。人気のある時代、分かりやすい合戦、派手な武将たちが「コンテンツ」として注目を集める一方で、その周りを支えてきた古代の関所や静かな文化的背景は、どうしても影に隠れがちなのかもしれません。

関ヶ原古戦場と不破関跡を続けて訪れると、一つの地域の歴史を「点」ではなく「線」として見ることができます。古代の関所が置かれた交通の要衝であり、やがて戦国の大合戦の舞台ともなり、その後は近代以降の歴史の中でも要地であり続けた場所。華やかな合戦だけでなく、その前後に広がる長い時間の積み重ねにも、同じようにスポットライトが当たってほしいと感じました。

関ヶ原は、戦国ファンにとってはもちろん、歴史を通して「人気のある出来事」と「その周辺の静かな歴史」のバランスについて考えるきっかけにもなる場所だと思います。古戦場のダイナミックな展示で戦いの流れを体感したあと、不破関跡の静かな佇まいに身を置いてみると、同じ土地に重なっている時間の層の厚さが、じわじわと伝わってきます。もし関ヶ原を訪れる機会があれば、古戦場を歩くだけでなく、不破関跡やその周辺の資料館にも足を延ばしてみると、この地域の歴史がより豊かに見えてくるのではないでしょうか。

旅程

東京

↓(新幹線/JR東海道)

関ケ原駅

↓(徒歩)

関ケ原古戦場

↓(徒歩)

関ケ原笹尾山交流館

↓(徒歩)

関ヶ原戦国甲冑館

↓(徒歩)

関ケ原ウォーランド

↓(徒歩)

不破関跡

↓(徒歩)

不破関資料館

↓(徒歩)

関ケ原駅

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