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日本郵船氷川丸:山下公園の海に浮かぶ、昭和の豪華船をたどる旅

横浜・山下公園の海に、黒と白と赤の船体が静かに浮かんでいます。この船、日本郵船氷川丸を本日の締めくくりとして訪れました。朝から三渓園を歩き、港の見える丘公園で港を見下ろしたあと、夕方の山下公園へ下りてくると、冬の澄んだ空気の中で氷川丸が待っていてくれたのが印象的でした。

氷川丸は、1930(昭和5)年に横浜で建造された日本郵船の貨客船で、太平洋横断のシアトル航路に就航した船です。戦前日本を代表する高速貨客船として活躍し、チャーリー・チャップリンや皇族、柔道の嘉納治五郎など、当時の著名人も乗船したことで知られています。太平洋戦争が始まると海軍の特設病院船となり、触雷しながらも沈まずに任務を続け、戦後は再び貨客船として太平洋を行き来しました。30年ほどの現役生活を終えたのち、1961年に山下公園前に係留されて保存され、現在は戦前に建造された唯一の現存貨客船として、国の重要文化財にも指定されています。横浜港のシンボルとして、単なる観光スポットという以上に、日本の海運史を物語る存在だと感じます。

船内に足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは、客席へと続く狭くて長い通路でした。現代のクルーズ船のような開放感とは違い、壁が迫ってくるような細い廊下を歩いていくと、かえって「ここから船旅が始まる」という期待感が高まります。

やがて通路の先が開け、アールデコ様式で整えられた食堂にたどり着きました。白いテーブルクロスがぴんと張られ、食器がきちんと並んだテーブルが規則正しく並ぶ様子は、まるで映画の中で見る昔の豪華客船の一場面そのものでした。実際、氷川丸の一等食堂や社交室は、シアトル航路で活躍していた時代の資料を基に復原されたもので、当時の雰囲気を今に伝えています。

食堂の先には、ソファーのある広間が続き、そこには暖炉もありました。船の中でどこまで実際に火を入れていたのかは分かりませんが、木目と暖炉の組み合わせは、海の上というよりも洋館のサロンにいるような不思議な感覚を与えてくれます。太平洋を何日もかけて渡る時代、人々はただ移動するだけでなく、こうした空間で食事をし、談笑し、音楽を楽しみながら時間を過ごしていたのだろうと想像すると、「船旅」という言葉の重みが今とはまったく違っていたのだと実感しました。

客船エリアから先へ進むと、展示パネルや写真で氷川丸の歴史が紹介されています。就航当初の華やかな時代、戦争による航路休止、病院船としての活動、戦後の引揚船としての役割、そして再び貨客船として太平洋を渡った日々と、同じ一隻の船の中に、戦前・戦中・戦後という日本の激動の歴史が凝縮されています。山下公園に静かに係留されている現在の姿からは想像しにくいほど、波乱万丈な人生を歩んできた船なのだと分かります。

展示エリアを抜けて甲板に出ると、一気に視界が開けました。訪れたのは冬の日でしたが、運よく風はそれほど強くなく、空気は冷たく澄み、雲の合間からのぞく青空が印象的でした。デッキから眺める横浜港は、昼間の喧騒が少し落ち着いた穏やかな表情を見せていて、三渓園や港の見える丘公園から続いてきた一日の記憶が、海風とともに締めくくられていくようでした。現在、屋外デッキにはデッキチェアーも置かれ、港の景色を楽しみながらくつろげるようになっていますが、この日は冬の夕方ということもあり、静かなデッキを歩きながら海と空を眺める時間になりました。

続いて操縦室へ向かうと、そこには大きな操縦桿と、どっしりとした磁気羅針盤が据え付けられていました。ガラスの向こうに広がる横浜港を眺めながら、この場所から太平洋の荒波を越えてシアトルやバンクーバーへと向かっていたのだと思うと、展示物というより「ここで実際に航海が行われていた」という実感が湧いてきます。レーダーや電子機器が当然のように並ぶ現代のブリッジとは異なり、計器も機械もどこか素朴で、人間の判断や経験に大きく頼っていた時代の技術の重みを感じました。

そして最後に訪れたのがエンジンルームでした。階段を降りていくと、そこには巨大な機関が複雑に組み合わさった空間が広がっています。鉄の柱やパイプが縦横無尽に走り、油の匂いがかすかに残るような雰囲気の中で、スマホやノートPCのような、薄くて静かな現代の機械とはまったく別の「機械の美しさ」を感じました。氷川丸は当時最新鋭のディーゼル貨客船として登場し、その機関部も含めて現在まで保存されていることから、日本の造船技術を伝える貴重な産業遺産と評価されています。目の前の鉄の塊を見ていると、「機械で世界をつなぐ」という、20世紀前半の技術への信頼や野心のようなものが、かすかによみがえってくるようでした。

こうして船内をひと回りすると、最初に受けた「レトロでおしゃれな船」という印象が、「日本の近代史を体現してきた場所」という重みへと変わっていました。豪華客船として華やかな時間を過ごし、戦争で病院船となり、戦後は引揚や再びの旅客輸送に従事し、そして今は横浜港で静かに人々を迎え入れる。氷川丸は、単なる古い船ではなく、時代ごとに役割を変えながら生き延びてきた「歴史の証人」そのものだと思います。

三渓園の庭園から始まり、港の見える丘公園で海を見下ろし、最後に氷川丸の甲板から横浜港を眺めた一日は、横浜という街と海との関わりを立体的に感じる旅になりました。山下公園の散歩のついでに眺めるだけでも存在感のある船ですが、実際に船内に入り、食堂や社交室、操縦室やエンジンルームを歩いてみると、横浜港の風景が少し違って見えてきます。港町・横浜の歴史に触れてみたいとき、日本郵船氷川丸はぜひ時間をとってじっくり見学したい場所だと感じました。

旅程

根岸駅

↓(バス)

三渓園

↓(徒歩)

横浜市八聖殿郷土資料館

↓(徒歩)

(略)

↓(徒歩)

山下公園

↓(徒歩)

日本郵船氷川丸

↓(徒歩)

日本大通り駅

周辺のスポット

  • 山下公園
  • 横浜中華街
  • 港の見える丘公園

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