スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

10月, 2025の投稿を表示しています

気象庁気象科学館/港区立みなと科学館:都市を支える見えない仕組みに出会う

東京都港区の一角で、気象と暮らしをつなぐ学びの場をはしごしました。上階にある気象庁の気象科学館では、まず日本の気象観測の歩みをたどります。 毛髪自記湿度計の繊細な筆致や、観測船の模型に刻まれた実務の工夫は、気象が“読む学問”であると同時に“測る技術”でもあることを教えてくれます。大型電子計算機 IBM704 導入時に贈られたという「金のカギ」は、予報が手計算から計算機の時代へと舵を切った象徴のように感じられました。衛星ひまわりの 5・6・8・9 号の模型が並ぶ展示を前にすると、地上から上空、そして静止軌道へと観測の視点が広がってきたことが実感できます。 災害・防災のコーナーでは、緊急地震速報や津波フラッグの説明に加え、巨大な津波シミュレーターが印象的でした。押し寄せる水の勢いと回り込む流れを立体的に確かめられる体験は、数字や言葉だけでは届きにくい“動き”を身体で理解させてくれます。 小さなスペースながら、人と防災未来センターとの連携企画で阪神・淡路大震災の写真が紹介され、記憶を継承することの重みを改めて思いました。いつか神戸のセンターも訪れ、展示を通して学びをつなげたいと感じます。 続いて 1 階の港区立みなと科学館へ。特別展「ちがうってふしぎ! ~絵本から考えるネコとイヌ~」は、入口から絵本の世界に誘うような構成で、視覚や嗅覚、盲導犬の役割まで、身近な動物を科学の眼で見直す仕掛けがほどこされていました。 常設展は「しぜん」「わたし」「まち」「うみ」の四つのテーマで構成され、手を動かしながら学べるのが魅力です。 「しぜん」では、巨大なビル群の合間にも息づく港区の生態系に驚かされます。都市らしさの奥に、武蔵野の記憶をわずかに残すような草木や生きものがいる――その事実は、都市計画と自然保全を両立させる可能性を感じさせます。「わたし」は人体のコーナーで、身体スキャンや模型、義足の展示から、人の体がどれほど精妙な仕組みで成り立ち、また技術がそれをどう支えているのかが伝わってきました。「まち」では、高層建築の耐震構造をシミュレーターで体験し、地震国・日本の工学的知恵に触れます。「うみ」では、レインボーブリッジや消波ブロックの展示を通じて、港区が“港”に根差したまちであることを再発見しました。六本木のイメージが先行しがちですが、海とともにある都市としての素顔がここではっきり見え...

岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵):王権のかたち、軍事のかたち、祈りのかたち

藤井寺市の岡ミサンザイ古墳を訪ねました。以前に応神天皇陵には足を運びましたが、今回はアイセルシュラホール見学のあとに、まだ見ていなかった仲哀天皇陵へ向かいました。歩いていくと、他の天皇陵と同じく、前方後円墳の方墳側の先に、きれいに整えられた白い砂利の広場と鳥居があらわれます。結界の内と外をやわらかく区切る空間で、風が通るたびに砂利の乾いた音がして、ここが日々ていねいに守られていることを感じました。 外周を眺めていると、古墳そのものはやはり巨大で、近くに立つと全体の形がつかめません。堤の傾斜と樹木の緑、堀を思わせる低地が視界に断片的に入ってきて、遠近の尺度が失われていくようです。古市古墳群は世界遺産にも登録された巨大古墳の集中地帯ですが、岡ミサンザイ古墳もその一角らしく、個々の説明を超えて「古墳景観」がひとつの文化を形づくっているのだと実感しました。 案内板には、この古墳が室町時代には城として利用されたことが記されていました。堀と高まりを備えた地形は、有事には自然に防御施設へと転用されます。王権の象徴として築かれた墳丘が、時代を経て軍事的な機能を帯び、さらに現代では静謐な聖域として保全されている――同じ土の高まりが、歴史の局面ごとに意味を変え続けることに、時間の厚みを思いました。 鳥居の前で一礼し、しばらく砂利の広場に立っていると、アイセルシュラホールで耳にした祭りの掛け声がふとよみがえりました。台地の上に連なる前方後円墳、地域に根づく祭礼、そして今を生きる私の歩みが、一瞬だけ一本の線で結ばれたように感じます。古墳そのものの内部に立ち入ることはできませんが、外縁をめぐるだけでも、この土地が抱えてきた記憶の重さは十分に伝わってきました。次は古市古墳群の他の墳丘とも道をつなぎながら、季節を変えて歩いてみたいと思います。 旅程 東京 ↓(新幹線/JR京都線/JR関空線/JR阪和線) 信太山駅 ↓(徒歩) 大阪府立弥生文化博物館 ↓(徒歩) 池上曽根史跡公園 ↓(徒歩) 信太山駅 ↓(JR阪和線/JR関空線/近鉄南大阪線) 藤井寺駅 ↓(徒歩) アイセルシュラホール ↓(徒歩) 岡ミサンザイ古墳(仲哀天皇陵) ↓(徒歩) 藤井寺駅 周辺のスポット アイセルシュラホール 関連スポット 古市古墳群 誉田御廟山古墳(応神天皇陵) 仲津山古墳(仲津姫命陵) 市野山古墳(允恭天皇陵) ...

アイセルシュラホール:学びの船の短い航海、藤井寺の歴史をひと口サイズで

大阪府藤井寺市のアイセルシュラホールを訪ねました。 古市の古墳群は以前にいくつか巡ってきましたが、後から調べているうちに、船のような外観の巨大な建物が気になり、いつか立ち寄ろうと思っていました。ちょうど弥生文化博物館を見学した帰り道、藤井寺駅で下車すると、街にはだんじり祭りの掛け声が響き、秋の活気に背中を押されるように会場へ向かいました。ほどなく現れたアイセルシュラホールは想像以上に大きく、全景を収めるだけでもひと苦労なスケールです。外観から「巨大博物館」を連想していたのですが、実際は生涯学習センターや公民館機能を備えた複合施設で、展示は主に2階にまとまっていました。 歴史展示フロアは、古市古墳群や倭の五王、留学生・井真成、藤井寺の近現代史、そして近鉄バファローズの資料が一続きに配され、地域の通史をコンパクトに横断できる構成でした。まずは古市古墳群と倭の五王のコーナーへ。埴輪や石製品、鎧の出土品に加え、古墳の断面や墳丘のスケール感をつかめる模型が並びます。 中でも津堂城山古墳に関連する水鳥形埴輪は、のびやかな造形に当時の祭祀観念を感じさせ、実用品と聖域の境い目に立つような存在感でした。墳丘が点在する台地の上に政治と祭祀の場が重なっていたこと、そして列島と大陸の交流のうねりが古市の造形美に刻まれていることを、コンパクトな展示ながらも実感できます。 続く通路には井真成(せい しんせい/い まなり /いのまなり)の小コーナーがあり、墓誌レプリカなどを通じて、遣唐使とともに大陸へ渡った若者の息遣いに触れました。大陸側に名が刻まれ、再び郷土の施設に戻って物語を語り続けるという往還のドラマは、国際交流の歴史を「誰か一人の人生」に引き寄せて理解させてくれます。 藤井寺の地域史コーナーでは、町を支えた産業や交通、教育の足跡を辿りました。小山団扇の展示からは職人の技と暮らしが立ち上がり、河陽鉄道・河南鉄道・大阪鉄道といった路線の資料からは、都市圏の膨張と結びついた行き来の歴史が浮かび上がります。藤井寺球場や藤井寺教材園の記録も並び、まちの記憶が点から線、線から面へと広がる過程が見えてきました。 その延長線上にあるのが近鉄バファローズの展示です。ユニフォームやサイン入りのボール、バット、当時の雑誌などが所狭しと並び、球団を支えた選手とファンの熱量が資料の密度として残っています。私は野茂...

池上曽根史跡公園:弥生のスケール感を体感、稲作社会の設計図

大阪府和泉市の池上曽根史跡公園を歩きました。午前中に弥生文化博物館を見学した流れで、午後二時ごろお隣の公園へ。 まずは池上曽根弥生情報館に立ち寄り、発掘資料の展示や集落復元のパノラマをさらりと確認しました。ちょうど直前に博物館で弥生の基礎をおさらいしていたこともあり、ここでは頭の中の知識と現地の地形を照らし合わせる感覚が楽しく、早々に屋外へ出て復元建物へ向かいました。 視界の奥にそびえる巨大な高床建物がひときわ目を引きますが、まずは手前の小さな茅葺の建物を覗きます。低い軒と素朴な壁、踏みしめる土の感触から、住まいのスケール感や生活の息遣いが想像できました。 少し進むと視界が開け、広場と柱列が現れます。儀礼や共同の場として機能したと考えられる空間で、集落の中心が人々の祈りと暮らしを結びつけていたことが、足元の土と風の流れから伝わってきます。 その先には「やよいの大井戸」と呼ばれる大きな井戸があり、木組みで補強された構造の力強さに目を奪われました。安定した水の確保は稲作社会の要であり、共同体の持続を支えたインフラだったはずです。井戸の前に立つと、遠い昔にここで水を汲み、調理や祭祀に用いた人々の所作が自然に思い浮かびました。 そして、いよいよ巨大な高床式建物「いずみの高殿」へ。高く持ち上げられた床、堂々たる柱、風をはらむ屋根が、ふだんの住居とは異なる特別な機能を担っていたことを静かに語ります。貯蔵、儀礼、あるいは首長の権威の象徴——いずれであっても、共同体の意思や富を集約し、配分する場だったことは間違いありません。足場を渡りながら上を見上げると、木材の組み合いと陰影が美しく、設計と施工の技術の高さに改めて驚かされました。 池上曽根は弥生時代に栄えた大規模集落のひとつとして知られ、稲作とともに発展した社会の姿を、平面の図や写真では届かない立体感で示してくれます。情報館の展示で得た知識を、そのまま地形・建物・風景のスケールに重ね合わせられるのがこの公園の良さで、歩を進めるごとに、家並み・広場・水場・高殿という配置から、集落の秩序や役割分担が自然と立ち上がってきました。 博物館での学びを抱えたまま現地に立つと、過去は単なる年代ではなく、具体的な生活空間として迫ってきます。小さな茅葺の暮らしから、共同の儀礼、そして水と食の管理へ。池上曽根史跡公園は、その連なりを一続きの体験として...

大阪府立弥生文化博物館:令和7年度秋季特別展「伝世―弥生時代と古墳時代をつなぐモノ―」

朝から関東は雨の予報でしたので、以前から気になっていた大阪府立弥生文化博物館を訪ねました。大阪市内からは少し距離がありますが、信太山駅(しのだやまえき)から博物館へは色の違う遊歩道が続いており、案内に沿って迷うことなく到着できました。途中、法被姿の方々が交通整理をしていて太鼓や笛の音も聞こえ、本日はだんじり祭りの日だと後で知りました。土地の息づかいに背中を押されるような道中でした。 開館まもなくの10時前に入ると、エントランスにはセレモニーの会場が設えられ、受付の方に聞いてみると、本日が特別展「伝世―弥生時代と古墳時代をつなぐモノ―」の初日だと分かりました。まずは第一展示室へ。ここでは稲作の導入、石器から鉄器への転換、弥生土器の変遷といった、弥生文化の骨格が丁寧に整理されています。暮らしの道具や生産技術が社会をどう変えていくのか、展示ケース越しにも時間の流れがくっきり感じられました。 この博物館は邪馬台国近畿説のフィールドに比較的近いこともあってか、卑弥呼や邪馬台国関連の展示も充実しています。なかでも銅鏡や銅鐸のコーナーは見応えがあり、鏡背の文様や復元図を前にしていると、祭祀具が単なる「美術品」ではなく、権威や共同体をつなぐ媒体だったことが迫ってきます。 第一展示室を見終えるころ、特別展のオープニングセレモニーが始まり、一般も見学可とのアナウンス。せっかくなので参加しました。館長や教育委員会の方々の挨拶に続き、「学芸員が頑張って展示物を集めてくれた」という一言が印象に残ります。資料を借用するために各館と交渉を重ね、輸送や保存環境に細心の注意を払う――学芸員の方の学びと実務の積み重ねが、この場の一点一点を成立させているのだと実感しました。以前の自分なら「儀礼的」と受け取っていたかもしれない場面が、今日は舞台裏の努力を想像する入口になりました。 続く学芸員によるギャラリートークでは、特別展のキーワード「伝世(でんせい)」が腑に落ちました。作られてすぐ副葬されたのではなく、世代をまたいで大切に受け継がれたのちに古墳へ収められた品々――主に銅鏡――を通して、弥生と古墳の時間をつなぐ視点が提示されます。製作から埋納まで400年以上の時差を持つ例もあるという説明には驚かされました。モノが人と人、時代と時代を橋渡しする、その具体がここにあります。 展示では、大和天神山古墳の銅鏡群...

帰還者たちの記憶ミュージアム(平和祈念展示資料館):戦後は終わりではなく「過程」だった

朝から雨が降り、できれば外に出ずに行ける場所を探していたところ、戦後80年の節目のうちに訪ねたいと思っていた「帰還者たちの記憶ミュージアム(平和祈念展示資料館)」に向かいました。都営大江戸線の都庁前駅に隣接する新宿住友ビル33階にあり、しかも無料ということもあって、当初はビル内の小さな展示を想像していました。しかし実際には想像以上に充実しており、映像鑑賞も含めて気がつけば3時間ほど滞在していました。雨に煙る都心の眺望を背景に、静かに戦後史と向き合う時間になりました。 展示はまず出兵の場面から始まり、軍服や携行品、かばんなどの道具類、そして背中を押すように託された千人針や寄せ書きの旗が並びます。他の戦争資料館で見かける品もありますが、ここでは個々の持ち物が語る「生活の手触り」に焦点が当たり、前線へ向かう人びとの日常が立ち上がってくるようでした。 続くのは終戦後の拘留、なかでもソ連による抑留の章です。ラーゲリ(収容所)の生活、極寒の地での強制労働が、手仕事の遺物とともに伝えられていました。食べ物と引き換えに袖を手放したため片袖のない外套、スプーンをはじめとする手作りの道具──厳しい環境の中で命をつなぐための選択と工夫が、無言のまま来館者に迫ります。引揚が途中3年半中断し、最終的に1956年まで、戦後11年にも及んだことを示す年表は、数字の重み以上に長い待ち時間の感覚を想像させました。 過酷さばかりではありません。現地の女医から寄せられた人形、拘留者が結成した劇団の旗など、限られた自由の中でも人と人がつながり、文化や娯楽を介して心を守ろうとした痕跡も丁寧に紹介されていました。 著名人の体験に触れるコーナーでは、漫画家の赤塚不二夫さんやちばてつやさんの引揚の記憶が展示され、今年51歳の自分にとっても「遠い昔」ではなく、すぐ上の世代の現実だったのだと実感します。 映像コーナーでは、ちばてつやさんの満州からの引揚体験が語られていました。食べ物と引き換えに子どもが売られていく場面、飢えのあまり馬のふんを口にしたという証言は、言葉を失うほど壮絶で、スクリーンの暗がりの中でしばし身動きが取れませんでした。歴史は数字や地名の羅列ではなく、一人ひとりの身体と感情に刻まれた出来事なのだと改めて思います。 訪問時の特別展は「苦難の道程 朝鮮引揚げの記憶と記録」。朝鮮半島には非常に多くの日本人...