朝から関東は雨の予報でしたので、以前から気になっていた大阪府立弥生文化博物館を訪ねました。大阪市内からは少し距離がありますが、信太山駅(しのだやまえき)から博物館へは色の違う遊歩道が続いており、案内に沿って迷うことなく到着できました。途中、法被姿の方々が交通整理をしていて太鼓や笛の音も聞こえ、本日はだんじり祭りの日だと後で知りました。土地の息づかいに背中を押されるような道中でした。
開館まもなくの10時前に入ると、エントランスにはセレモニーの会場が設えられ、受付の方に聞いてみると、本日が特別展「伝世―弥生時代と古墳時代をつなぐモノ―」の初日だと分かりました。まずは第一展示室へ。ここでは稲作の導入、石器から鉄器への転換、弥生土器の変遷といった、弥生文化の骨格が丁寧に整理されています。暮らしの道具や生産技術が社会をどう変えていくのか、展示ケース越しにも時間の流れがくっきり感じられました。
この博物館は邪馬台国近畿説のフィールドに比較的近いこともあってか、卑弥呼や邪馬台国関連の展示も充実しています。なかでも銅鏡や銅鐸のコーナーは見応えがあり、鏡背の文様や復元図を前にしていると、祭祀具が単なる「美術品」ではなく、権威や共同体をつなぐ媒体だったことが迫ってきます。
第一展示室を見終えるころ、特別展のオープニングセレモニーが始まり、一般も見学可とのアナウンス。せっかくなので参加しました。館長や教育委員会の方々の挨拶に続き、「学芸員が頑張って展示物を集めてくれた」という一言が印象に残ります。資料を借用するために各館と交渉を重ね、輸送や保存環境に細心の注意を払う――学芸員の方の学びと実務の積み重ねが、この場の一点一点を成立させているのだと実感しました。以前の自分なら「儀礼的」と受け取っていたかもしれない場面が、今日は舞台裏の努力を想像する入口になりました。
続く学芸員によるギャラリートークでは、特別展のキーワード「伝世(でんせい)」が腑に落ちました。作られてすぐ副葬されたのではなく、世代をまたいで大切に受け継がれたのちに古墳へ収められた品々――主に銅鏡――を通して、弥生と古墳の時間をつなぐ視点が提示されます。製作から埋納まで400年以上の時差を持つ例もあるという説明には驚かされました。モノが人と人、時代と時代を橋渡しする、その具体がここにあります。
展示では、大和天神山古墳の銅鏡群がハイライトの一つ。23面中13面が実物、さらに10面は写真と解説で全体像を追える構成で、鏡の来歴や文様の比較が一望できます。弥生文化博物館が所蔵する漢鏡も並び、鏡がどのように地域を移動し、誰の手を経て「権威の証」として保存されてきたのか、想像が広がりました。銅鐸や埴輪も加わり、儀礼・政治・美が交差する立体的な景色が立ち上がります。
興味深かったのは、銅鏡の伝世とヤマト政権の形成をめぐる複数説が、来館者の投票ボード付きで提示されていたことです。証拠の積み上げが決定打に至らない現状を正直に示しつつ、解釈の射程を可視化する展示手法はとてもフェアでした。私はこれまで邪馬台国は近畿寄りに考えてきましたが、鏡の伝世の分布や時間差を丁寧に追うと、北九州を含む複数の可能性がなお息づいていることを改めて感じます。答えを急がず、資料と地道に向き合う態度こそが歴史学の面白さなのだと、会場で頷きました。
特別展の後は第二展示室へ。池上曽根遺跡の出土資料が一堂に会し、壺や木製道具に加えて巨大な柱や井戸の復元展示が迫力です。丸太をくり抜いた円筒形の井戸は、人が四人で囲んでも回しきれないほどのスケールで、当時の共同作業の大きさと技術の高さを物語ります。生活のための工夫が積み重なる場所に、弥生の息遣いが確かに残っていました。
気がつけば時計は14時。小腹を満たすために携帯していたエナジーバーをかじり、隣接する池上曽根史跡公園へ。発掘地が公園として整備され、遺跡と現在の生活が地続きであることを体感できるのは、この地域ならではの贅沢だと思いました。朝のだんじりの音から、学芸員の言葉、伝世の銅鏡、そして遺跡の大井戸へ――一日を通じて「受け継ぐ」というテーマが自然につながっていきます。
博物館は知識を与えるだけの場所ではなく、もの言わぬ資料の背後にいる無数の人の手と時間を感じさせてくれる場でした。弥生から古墳へ、地域から国家へ。大きな物語の節目を、銅鏡という一点から見通す体験は得難いものです。次は会場で名前を知った古墳や資料の出土地を歩き、今日見た「伝世」の線を自分の足でなぞってみたいと思います。
旅程
東京
↓(新幹線/JR京都線/JR関空線/JR阪和線)
信太山駅
↓(徒歩)
↓(徒歩)
↓(徒歩)
信太山駅
↓(JR阪和線/JR関空線/近鉄南大阪線)
藤井寺駅
↓(徒歩)
↓(徒歩)
↓(徒歩)
藤井寺駅
コメント
コメントを投稿