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国立科学博物館:特別展「大絶滅展」

国立科学博物館の特別展「大絶滅展」に行ってきました。科博は何度も訪れていますが、今回は入場の列や待ち時間こそいつも通りだった一方で、会場に入ってからの進みが想像以上にゆっくりで、展示を一つひとつじっくり読む余裕がなかなか作れませんでした。中央に球形の巨大ディスプレイが据えられていて、そこで立ち止まって眺める人が多いことに加え、各テーマを見終わるたびに中央へ戻る導線になっているため、流れが滞留しやすい構造だったのかもしれません。巨大な博物館で「特別展」を成立させる設計の難しさを、混雑そのものから体感するような時間でした。

展示構成は、プロローグから始まり、エピソード1「O-S境界」、エピソード2「F-F境界」、エピソード3「P-T境界」、エピソード4「T-J境界」、エピソード5「K-Pg境界」、エピソード6「新生代に起きた生物の多様化」、そしてエピローグへと続き、いわゆるビッグファイブ(五回の大量絶滅)を軸に、地球史を順に歩かせる設計でした。プロローグでは、通常絶滅と大量絶滅の違いの説明に加え、「大酸化イベント」「全球凍結」など、絶滅や環境激変の文脈を広く押さえていたのが印象的です。さらに「農耕革命」という言葉が登場し、しかもそれが人類史の農耕ではなく、カンブリア紀に生物が海底を掘り返し始めた現象を指すという説明には、言葉の比喩の巧みさと、地球史のスケール感のズレが同時に立ち上がってきて面白く感じました。

エピソード1の「O-S境界」は、オルドビス紀(Ordovician)とシルル紀(Silurian)の境目で、海の環境が揺さぶられた時代です。約4億4500万年前と4億4400万年前の二段階で大量絶滅が起きたという説明を読むと、数億年単位の歴史では百万年が“誤差”のように扱われる感覚に、こちらの時間認識が追いつかなくなります。火山活動に伴う寒冷化が引き金となり、サンゴ礁や浮遊生物が大きな打撃を受け、三葉虫も属数が激減したという流れは、繁栄のピークがいかに脆いかを端的に示していました。

一方で、大量絶滅後のシルル紀には温暖化も重なって多様性が回復し、脊椎動物の登場や植物の上陸へとつながっていくという“復元”の物語が続きます。巨大なスキフォクリニテスの化石や、列を成すユーリプテルスの化石、アクティラムスの大型標本と模型などは、海が主役だった時代の迫力を、視覚で押し切ってくる展示でした。

植物の展示では、断面撮影から立体復元する「デジタル・フォッシル・マイニング」の成果を3Dプリンターで再現したものもあり、化石が「石」ではなく「情報」でもあることを実感させられました。

エピソード2の「F-F境界」はデボン紀の内部、フラニアン期(Frasnian)とフォメニアン期(Famennian)の境目で、陸上生態系の発展が大きな背景として語られていました。大噴火に加え、植物が二酸化炭素を消費することで寒冷化が進んだという説明は、現代の温暖化とは逆向きのメカニズムでありながら、結局は環境の急変が生物相を揺さぶる点で通底しているように思えます。サンゴ礁の崩壊、顎をもたない魚類の衰退といった喪失の一方で、絶滅前には顎のある魚類が巨大化し、アンモナイトが登場していくなど、生命が“攻め”の進化を続けている様子も同時に提示されていました。フンスリュック粘板岩の化石のように軟体部まで残る資料は、古代の生物を「立体のまま」こちら側へ持ち込んでしまう力があり、まるで過去が3Dプリントされているように感じます。

また、陸へ進出した植物が土壌の栄養を過剰化させ、それが海へ流れ込んで絶滅要因の一つになったかもしれないという説は、現代の下水や肥料流出による富栄養化と重なって見え、地球史の比喩が急に生活の手触りに近づく瞬間がありました。展示の後半ではメゾン・クリークの軟体部化石(タリーモンスターなど)も並び、石炭紀へ向かう“次の繁栄”が、失われた世界の上に積み重なることを静かに示していました。

エピソード3の「P-T境界」は、史上最大級の大量絶滅として語られるペルム紀末(Permian)の危機で、パンゲア大陸という特異な地理条件のもと、シベリアの大規模火山活動が長期的に環境を破壊したと説明されます。寒冷化から始まり、火山ガスによる酸性雨、オゾン層の破壊、そして温暖化へという連鎖は、現代の公害や環境問題を思わせる“原因のオンパレード”で、自然現象であっても複合災害の形を取るのだと痛感しました。この絶滅で三葉虫がついに全滅し、陸上でも脊椎動物や昆虫が大きな打撃を受けます。

単弓類の化石が展示されていた点も印象に残り、恐竜のような姿をしていても恐竜の祖先ではなく、むしろ哺乳類側の系統に連なるという説明は、見た目と系統が簡単には一致しない進化の奥行きを教えてくれました。

パンゲアの内陸が乾燥し、裸子植物が繁栄したという背景も含めて、当時の地球は“広すぎる一枚の大陸”ゆえに極端さを増幅させていたのかもしれません。さらに衝撃的だったのは、絶滅後の回復に要した時間です。多様性の回復に500万年以上、陸上四肢動物に1500万年、サンゴ礁に2000万年以上というスケールを前にすると、生命のしぶとさと同時に、取り返しのつかなさが数字として迫ってきます。

続くエピソード4の「T-J境界」では、パンゲア分裂に伴う火山活動と二酸化炭素排出、温暖化と酸素濃度低下が鍵として示され、恐竜時代の大変革が描かれます。

会場には恐竜骨格モデルも多く、子ども向けの“華”のコーナーかと思いきや、熱心に写真を撮ったり眺めたりしていたのはむしろ大人が多かったように感じました。

そしてエピソード5の「K-Pg境界」では、小惑星衝突がもたらした超高温・日射遮断・寒冷化・酸性雨といった連鎖が語られ、鳥類以外の恐竜が舞台を去り、哺乳類が繁栄していく転換点へとつながります。

白亜紀(Kreide)の温暖さ、被子植物の登場と昆虫の多様化、そしてトリケラトプスの頭骨に人が集まる光景は、滅びの物語の中に「繁栄の細部」を挟み込みながら、終焉をいっそう劇的に見せる構成でした。

エピソード6は「ビッグファイブ後の世界」として新生代の多様化を扱い、寒冷化の進行や、生物の分岐が展示されていました。温暖化が話題になりがちな今に「寒冷化」という言葉が出てくると違和感もありますが、地球史の長い目で見れば、現在が氷期に属するという説明は、短い観測期間だけで世界観を固定してしまいがちな私たちの偏りを突いてきます。

マメ科の植物が白亜紀末に現れ、世界へ広がっていく話や、東アジア・北米のハナズオウがマメ科の基部に位置するという説明は、身近な植物が深い時間の上に乗っていることを、静かに実感させる展示でした。

エピローグでは、二酸化炭素の影響を探る研究として南極の氷床コアや別府湾の薄片資料などが紹介され、過去を読むことで現在を測る、という科学の基本姿勢が丁寧に締めくくられていました。

全体を見終えて強く残ったのは、地球と生命は、人間が想像する以上にしたたかだという感覚です。人間が起こす温暖化や公害も、地球史全体にとっては“通過点”になり得るのかもしれません。けれど、かつて海を支配した三葉虫も、陸上を席巻した恐竜も、繁栄の頂点から消えました。「地球のために」という大義名分よりも、「自分のため」や「自分の好きな生き物のため」といった切実で利己的な動機の方が、欲深い人間には案外効くのかもしれない、とも思います。大絶滅展は、過去の喪失を並べるだけでなく、私たちが何を守りたいのかを、地球史という圧倒的な時間の前で問い直させる展示でした。

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