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長楽寺:旅の終点で見上げた“城門”のような寺門

朝から深谷駅を起点に、田島弥平旧宅、満徳寺、世良田東照宮と巡り、旅の締めくくりに太田市の長楽寺に立ち寄りました。次々と史跡を辿ってきた一日の最後に、ここで急に時間の層が厚くなるような感覚があり、静かな余韻が残っています。

境内に入る手前でまず目を引いたのが、独特な形の太鼓門でした。楼門のようでありながら、どこか城郭の櫓門にも見え、たしかに「中国のお城にありそう」という第一印象に頷いてしまいます。太鼓門は鼓楼とも呼ばれ、かつて楼上に太鼓を置いて時報や行事の合図に使った、と説明されています。今は太鼓も鐘も残っていないそうですが、建物そのものが“合図の場”だったと思うと、門をくぐるだけで場の緊張感が少しだけ伝わってくる気がしました。

門を抜けて進むと、「徳川義季公累代墓」という石碑が現れます。ここで面白いのは、「徳川」と書かれていても、私たちが連想しがちな江戸幕府の徳川家そのものというより、そもそも“徳川”の名を名乗った源流側の話題に接続するところです。太田市の案内では、長楽寺の開基は徳川(新田)義季(よしすえ)で、義季以下の徳川氏累代墓所が境内の石塔群として伝わる、とされています。旅の終盤で急に「徳川」という大きな歴史語が立ち上がり、それがこの土地の地名や系譜の記憶と結びついていることに、妙に背筋が伸びました。

石碑の先、階段を上ったところにあるのが、国指定重要文化財の宝塔です。石造の宝塔というと、刻銘や稜線のシャープさに“造形としての強さ”を感じることが多いのですが、ここで目にした塔身は、表面がつるりと丸くなっていて、長い時間の風雨が細部を均してしまったように見えました。けれども、その“つるつる”の中にこそ、鎌倉後期に造立されたという事実の重みが宿っている気もします。宝塔の台石底面には建治2年(1276)12月25日の刻銘があり、鎌倉期の年紀銘をもつ貴重な例だと紹介されています。

さらに興味深いのは、宝塔が「文殊山」と呼ばれる前方後円墳の上に位置づけられている点です。古墳時代の地形の上に中世の石塔群が重なり、そこへ近世以降の信仰と整備が積み重なる。散策しながら足元にある土地の来歴を想像すると、寺社巡りというより、時間そのものを歩いているような気分になりました。

長楽寺は、承久3年(1221)に徳川(得川/世良田/新田)義季が、栄西の高弟である栄朝を開山として創建した寺で、「東関最初禅窟」とも称される、と太田市の説明にあります。鎌倉時代には大きな寺勢を持ち、のちに日本五山十刹の制度のもとで十刹の第7位になったものの、新田氏の衰退とともに荒廃した、とも述べられています。そして関東入部後の徳川家康が、天海に復興を命じて寺領を与え、宗派も臨済宗から天台宗へ改められ、幕府の庇護のもとで大寺院へ発展した、という流れまで一続きで語られていました。今日の境内の落ち着きの背後に、興亡と再生が折り重なっていることが、歩いてみると実感として腹落ちします。

境内では石造の仏像や十三重石塔なども見て回り、最後に本堂を参拝しました。石の造形が多い場所は、木造伽藍中心の寺とはまた違い、陰影の出方が静かで、気持ちが自然と内側へ向きます。一日の終盤で疲れも出ていたはずなのに、ここでは不思議と足取りが落ち着きました。


そして帰宅後に知って、いちばん悔しかったのが「道を挟んだ向かい側も長楽寺の境内で、三仏堂などがある」という点です。三仏堂には、釈迦如来・阿弥陀如来・弥勒菩薩を並べた“三世仏”が安置されていると紹介されています。次に訪れる機会があれば、今度こそ見落とさずに、門から向こう側まで“長楽寺としての全体”を歩いてみたいです。

こうして旅を締めくくり、世良田駅へ向かいました。太鼓門の造形、石碑が指し示す系譜、そして鎌倉の宝塔が古墳の上に立つという重なり。短い滞在でも、土地の時間の深さに触れられる場所でした。次は、見逃した三仏堂まで含めて、もう一度ゆっくり歩き直したいと思います。

旅程

(略)

↓(徒歩)

日本基督教団島村教会

↓(徒歩)

田島弥平旧宅

↓(徒歩)

 縁切寺満徳寺資料館

↓(徒歩)

新田義重夫妻の墓(徳川館跡の宝塔) 

↓(徒歩)

徳川東照宮(太田市)

↓(徒歩)

世良田東照宮

↓(徒歩)

新田荘歴史資料館

↓(徒歩)

長楽寺

↓(徒歩)

世良田駅

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