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リカヴィトスの丘:ケーブルカーで行く、空にいちばん近い夕暮れ

アテナイのアゴラのあと、リカヴィトスの丘に向かいました。 夕方、アテネ中心部の史跡めぐりを終えて、コロナキの坂を上り、地下トンネルのリフト「リカヴィトス・ケーブルカー」に乗りました。 車内は数分で暗い岩肌のトンネルを抜け、ふっと視界が開けると、白い礼拝堂と鐘楼のシルエットが夕焼けの空に浮かび上がりました。山上は思っていた以上に風が冷たく、三月の夕方に標高のある場所へ来ると、地中海の街でも体感は冬に逆戻りするのだと実感します。リカヴィトスの丘はアテネ中心部で最も高い丘で、標高は277メートルあります。 頂上の広場には、石造りの鐘楼が立ち、すぐ横には白く塗られた聖ゲオルギオス教会(19世紀)が寄り添うように建っています。鐘楼は1902年に建立されたもので、丘の上の静けさにアクセントを添える存在でした。 周囲をひと巡りすると、アクロポリスの丘や市街の碁盤目、その向こうにサロニコス湾の海までが、夕陽のグラデーションの中に溶け込んでいきます。石畳はまだ昼の熱を少しだけ残していましたが、風は鋭く、上着の襟を立てて眺め続けました。 この丘にはいくつかの「物語」が重なっています。名の由来は古く「狼の丘」を意味する説が知られ、さらに女神アテナがアクロポリスを高くするために運んでいた岩を落として、この丘が生まれたという神話も伝わります。都市の只中にぽこんと盛り上がる地形は、確かに神話が似合う形をしています。 実用の歴史も面白く、ふもとのコロナキと山上を結ぶケーブルカー(フニクラ)は1965年に開業し、2002年に大規模改修が行われました。トンネルを一直線に抜ける3分ほどの短い旅路が、夕暮れの頂上体験をぐっと身近にしてくれます。 さらに斜面には、建築家タキス・ゼネトスの設計で1965年に造られた屋外劇場もあり、近代アテネの文化を象徴する舞台として長く親しまれてきました。 日が沈み、街の明かりが一つずつ灯る時間になると、アテネは大理石色の昼から、琥珀色の夜景へと衣を替えます。史跡を巡った一日の締めくくりに、ここで風に身をさらしながら街を俯瞰すると、古代から続く層の厚さと現代の鼓動が同じ画面に収まって見えてきます。寒さに身震いしつつ、最後にもう一度だけ鐘楼の向こうの地平線を目に焼きつけ、再びケーブルカーで下山しました。夕方のリカヴィトスは、アテネという都市を「時間ごと」見渡せる場所でした。 ...

アテナイのアゴラ:ソクラテスも歩いた道、神殿と市場と哲学と民主主義が息づいた広場

アテネ国立天文台から東に向かい古代アゴラ(アテナイのアゴラ)に来ました。 アテナイのアゴラは、古代ギリシャのアテナイにおいて政治、経済、宗教、そして日常生活のあらゆる活動が集約されていた公共空間です。現代の「広場」や「市場」という言葉では捉えきれないほど多面的な機能をもっていた場所で、まさにアテナイ市民の生活の中心といえる存在でした。 このアゴラは、アクロポリスの北西に広がっており、現在では遺跡公園として整備され、多くの観光客や歴史愛好家が訪れています。広大な敷地の中には、神殿や公会堂、行政施設、商店、さらには哲学者たちが議論を交わした空間など、さまざまな建造物の遺構が残っています。 アテナイの民主政が栄えた時代、このアゴラは市民が集まって自由に討論し、投票し、意見を交換する場所でもありました。民衆裁判所が設けられ、市民が陪審員として参加する裁判が日々開かれていたという点も、現代の民主主義の原型を感じさせます。こうした政治的機能に加えて、アゴラはまた宗教的な儀式の舞台でもあり、ゼウスやアテナ、ヘルメスといった神々に捧げる祭祀が行われていました。 現在の遺跡の中でも特に目を引くのが、ヘファイストス神殿です。この神殿は、紀元前449年から紀元前416年ごろまで建築されました。古代ギリシャ建築の中でも保存状態が非常によく、美しいドーリア式の柱が今なお力強く立ち並んでいます。 また、ペルガモン王アッタロス2世によって建てられたストア・オブ・アッタロス(アッタロスの柱廊)は、1950年代に復元され、現在はアゴラ博物館として活用されています。この博物館では、日用品や陶器、石碑など、古代アテナイの人々の暮らしぶりを垣間見ることができます。 アゴラの中を南北に貫く大通りは「パナシナイア(パナテナイア)通り」と呼ばれ、アテナ女神を讃える祭礼行列がこの道を通ってアクロポリスへと進んでいったそうです。そうした場面を思い浮かべながら歩くと、古代と現在が一瞬交錯するような不思議な感覚にとらわれます。 ソクラテスもまた、このアゴラで市民たちと対話を重ねていたと言われています。彼の問いかけに真摯に向き合いながら議論したアテナイ市民たちの姿を想像すると、哲学という営みが決して学問の世界にとどまるものではなく、日常そのものに根差していたことが実感されます。 もしアテネを訪れる機会があれば、ぜひこのア...

パナシナイコスタジアム:彫刻のような席で見上げたギリシャの青空

アテネの青空の下、パナシナイコスタジアムを訪れました。アテネ観光の二日目、ゼウス神殿の壮麗さに触れたあと、私はこの歴史あるスタジアムに足を運びました。 パナシナイコスタジアムは、その名のとおりギリシャらしい白い石造りのスタジアムで、細長い独特の形状が印象的です。かつては古代ギリシャ時代のパンアテナイア大祭で競技が行われ、後に近代オリンピック発祥の地として、1896年に第1回アテネオリンピックが開催されました。周囲を取り囲む観客席はすべて石で作られており、太陽の光を浴びて白く輝く様子は、過去と現在が重なり合うような不思議な美しさがあります。 観客席の中でも、中央付近には特に装飾が施された貴賓席が設けられていました。そこは、まるでギリシャ彫刻そのもののように優雅な雰囲気が漂い、ただ座るだけでなく、空間そのものが美術品のように感じられました。かつての観衆や競技者たちがここから競技を見守ったのかと思うと、時代を超えた感動があります。 実際にトラックにも下りてみました。大理石の観客席に囲まれながら走路に立つと、ただの観光ではなく、古代の競技者たちに思いを馳せる瞬間が生まれます。この場所で、人々が競い、応援し、歓声がこだました歴史を想像しながら歩きました。 スタジアムの一角には展示室があり、そこでは近代オリンピックの歴史を物語る品々が並んでいました。ギリシャから世界各地へ受け継がれてきた聖火、歴代大会のトロフィーやメダル、そして懐かしい1964年の東京オリンピックのポスターも展示されていました。オリンピックの歴史が時代や国境を越えてつながっていることを改めて感じさせられます。 パナシナイコスタジアムは、ただのスポーツ施設ではなく、古代と現代、ギリシャと世界を結ぶ特別な場所です。晴れたアテネの空の下で、時代を超えた人々の熱気と情熱を感じることができた一日でした。 旅程 (略) ↓(徒歩) リシクラテス記念碑 ↓(徒歩) ハドリアヌスの凱旋門 ↓(徒歩) ゼウス神殿 ↓(徒歩) ザッペイオン/アテネ国立庭園 ↓(徒歩) ギリシャ議会議事堂 ↓(徒歩) パナシナイコスタジアム ↓(徒歩) プニュクス ↓(徒歩) アテネ国立天文台 ↓(徒歩) アテナイのアゴラ ↓(徒歩) リカヴィトスの丘 ↓(徒歩/ケーブルカー) ホテル 周辺のスポット ゼウス神殿 アテネ国立庭園 リンク Panat...

ゼウス神殿:ギリシャ神話の主神ゼウスを祀る、壮大な神殿

本日は、ギリシャのアテネに2泊滞在の2日目なので、アテネにある史跡を次々と廻っています。ハドリアヌスの凱旋門からゼウス神殿に来ました。 ギリシャの都市アテネに訪れると、アクロポリスの隅に現在も存在する壯大な遺跡が目に入ります。それが「オリンピエイオン(Olympieion)」、つまりゼウス神殿です。この神殿は、ギリシャ神話の主神であるゼウスを祈るために建てられたもので、古代ギリシャの横流を身を代表する作品として知られています。 この神殿の設計が開始されたのは紀元前550年ごろで、経済的にも文化的にもいたって苛盛を絶った時代でした。しかしながら、第一段階の建設は第一段階の手掛けのみで終わってしまい、その後長年にわたって止まったままでした。世紀を跨いで多くの参加者がこの建設に手を加えましたが、主な完成は紀元2世紀のローマ皇帝ハドリアヌスの时代まで持ち込まれ、132年に皇帝ハドリアヌスに捧げられる神殿として完成ました。 神殿の構造は非常に壯大で、完成当時は104本のコリント式の柱が並ぶ壯観な構造でした。現在はそのうちの15本しか残っておらず、大地に傾い倒れた柱は、時間の流れを感じさせます。 この神殿の意義は大きく、古代ギリシャとローマの文化が接点した証でもあります。建築のスタイルはギリシャ伝統のこれまでの構造を乗り越えるぐらいの壯大さを持ち、次の世代への歩みを歩む記念石としての模構を馳走しました。 現在、ゼウス神殿はアテネ観光の見どころの一つです。アクロポリスやハドリアヌスの門にも近く、古代の遺跡を追いながら歩くのにも最適な場所です。その幕にひるがる壯大なゼウス神殿の姿は、過去の苛盛と大臣な秋を一緒に気づかせてくれるでしょう。 旅程 (略) ↓(徒歩) リシクラテス記念碑 ↓(徒歩) ハドリアヌスの凱旋門 ↓(徒歩) ゼウス神殿 ↓(徒歩) ザッペイオン/アテネ国立庭園 ↓(徒歩) ギリシャ議会議事堂 ↓(徒歩) パナシナイコスタジアム ↓(徒歩) プニュクス ↓(徒歩) アテネ国立天文台 ↓(徒歩) アテナイのアゴラ ↓(徒歩) リカヴィトスの丘 ↓(徒歩/ケーブルカー) ホテル 周辺のスポット ハドリアヌスの凱旋門 ザッペイオン パナシナイコスタジアム アテネ国立庭園 地域の名物 ムサカ スブラキ ウゾ(ウーゾ)

ハドリアヌスの凱旋門:大理石の白、二千年のまばゆさ、皇帝が描いた街の境界線

アテネ2日目の午前、リシクラテス記念碑からゼウス神殿へと歩く途中、通りの先に白い石肌がすっと立ち上がる門が見えました。ハドリアヌスの凱旋門です。近づくにつれて、上部が枠だけのように抜け、空を額縁にしているのが分かりました。装飾は最小限で、直線と陰影だけで姿を保つその均整に、二千年という時間の厚みを忘れてしまうほどの清新さを感じました。崩れたのではなく、もともとこのような構成だったのだろうかと想像しつつ、石の継ぎ目や柱頭の彫りをしばらく眺めていました。 この門は、ローマ皇帝ハドリアヌスの治世に、彼がもたらした都市整備を記念して建てられたと伝えられています。アテネの古い市域と、ハドリアヌスによって拡張された新しい地区の境に置かれ、片側には「ここから先はテーセウスの街アテネではない」、反対側には「ここからはハドリアヌスの街である」といった趣旨の碑文が刻まれていたそうです。いわゆる軍事的勝利をたたえるローマ的な“凱旋”というより、都市の新旧を分かつ象徴の門であり、アテネが古典古代の記憶をたずさえたままローマ帝国の時代へと連続していく、その節目を示す建造物だったのだと思います。 素材は、アテネの名峰ペンテリコンから切り出された大理石といわれます。光を受けると白さが冴え、雲が流れると表情を変えるので、写真で見るより軽やかに感じました。高さは見上げるほどですが、巨大建築の威圧感はありません。むしろ、周囲の遺跡や現代の街並みと呼吸を合わせるように、すっきりとした比率で立っています。アーチをくぐって振り返ると、背後にはゼウス神殿の列柱が透け、その向こうに行き交う車と人。古代と現代の時間が一本の視線の上に重なり、門という装置の意味がふっと腑に落ちました。 考えてみれば、二千年も前に、これほど高く、しかも装飾に頼りすぎない端正さを持つ門が、都市の入り口として据えられていたこと自体が驚きです。技術の粋だけでなく、街をどう見せ、どう歩かせるかという「都市の体験設計」への感性がなければ、この軽やかさは生まれないはずです。アテネの石はただ遺るのではなく、今も人の視線や足取りをやわらかく導いているのだと感じました。 この日は、プラカの明るい街角から遺跡へと抜ける散策が心地よく、門の前でも観光客が交代で写真を撮っていました。私は少し離れて、上部の「枠」の向こうを流れる雲をしばらく見送りました。リシク...

ブルジュ・ハリファ:真夜中の熱狂、正月の頂上、見渡す限りの砂上の幾何学

年越しの花火を一目見ようと、ドバイの中心で夜を迎えました。 真夜中にもかかわらず、周辺一帯は広く規制され、世界中から集まった人で埋め尽くされます。私は開始の六時間前から付近へい移動しましたが、それでも「歩ける程度に混んでいる」状態で、倒数の瞬間には拍手と歓声が湾の向こうまで連なりました。後から知ったのですが、この年越しイベントは年によっては百万人規模で集客したこともあるそうで、スケールの違いにうなずきました。 翌日の元旦のチケットが取れなかった悔しさを胸に、次の2日に気持ちを切り替えて最上階へ。思い切って「一番上まで行ける」高額チケットを選び、集合場所でガイドに続いて高速エレベーターへ乗り込みました。耳が少しつまる感覚とともに、上昇はあっという間。到着したのは「At the Top SKY」のデッキで、地上約555メートル・148階の世界でした。限られた人数しか入れない落ち着いた空間で、価格に納得する密度と静けさです。 ガラス越しに広がるのは、砂漠の上に描かれた都市の幾何学。 直下には音と光の演出で知られるドバイ・ファウンテンの湖がきらめき、前夜の喧騒を思い出させます。噴水は2009年の稼働以来、音楽とともに水柱を高く打ち上げる名物で、この塔の足元をさらに祝祭の舞台へと変えてきました。 地上に戻ると、塔と同じ開発地区に広がるドバイ・モールへ。巨大な商業空間の中にはトンネル型の水槽で知られる「ドバイ・アクアリウム&アンダーウォーター・ズー」や、オリンピック規格の「ドバイ・アイスリンク」まで揃っていて、高さだけでなく“広さ”でも来訪者を包み込む街のような存在だと実感しました。 この塔が持つ象徴性は数字だけでは語り尽くせません。開業は2010年、総高さは先端を含めておよそ829.8メートル、建築高さ828メートル。現在も世界一高い建築として、ドバイの変化と野心を示すランドマークであり続けています。 設計を担ったのはSOMの建築家エイドリアン・スミスで、平面はユリ科の花「ハイメノカリス」に着想を得た三つ葉形。下から見上げると段状に後退する層が風を逃がし、上へ行くほど細く、光の柱のように空へ溶けていきます。技術と象徴性が一体になった“垂直の物語”が、上るほどに体で分かるのです。 旅の記憶としては、元旦に登れなかった悔しさ、約五万円の思い切った投資、そして最上階の静寂が一つの線...

ゴールド・スーク(ドバイ):未来都市の陰に息づく、煌めく都市と伝統市場

2019年の新年を迎えたばかりのドバイは、冬とは思えないほど澄んだ青空が広がっていました。この日は観光の3日目。年末年始のブルジュ・ハリファの華やかなイベントを体験するためにドバイを訪れていた私は、ついでにドバイの下町・ゴールド・スークに足を運ぶことにしました。 ドバイといえば超高層ビル群や近未来的な都市のイメージが強いものの、デイラ地区のゴールド・スークに一歩足を踏み入れると、そこには中東らしい伝統と活気が溢れています。ゴールド・スークは、その名の通り金製品を扱う店が通りの両側にぎっしりと並ぶ市場で、遠くからでも煌めくショーケースが目に飛び込んできます。金のアクセサリーや装飾品は、どれも日本ではなかなか目にしないデザインばかり。繊細な細工が施されたネックレスや、思わず見惚れてしまうようなブレスレット、そして、まるでおとぎ話に出てくる王族のような重厚な首飾りまで、豪華な品々が所狭しと並んでいます。まさに石油王国らしい華やかな空間で、歩いているだけでも気分が高揚してきます。 この市場の歴史は古く、20世紀初頭にはすでに地元の商人たちによって金の取引が行われていたそうです。今日では世界中から買い付けに訪れる人々が絶えず、観光名所としても人気を集めています。その理由のひとつは、品質と価格に対する信頼が厚いこと。政府による厳格な検査が行われているため、純度や重さをごまかされる心配もほとんどありません。ふと目をやると、観光客だけでなく、地元の女性たちが結婚式やお祝いごとのためにアクセサリーを選んでいる姿も目に入り、ドバイの日常に触れた気分になります。 しばらく煌びやかなウィンドウショッピングを楽しんだ後は、スパイス・スークへと足を伸ばしてみました。金の香り漂うゴールド・スークとは打って変わって、こちらは香辛料や乾燥フルーツ、ハーブの色と香りに包まれた市場です。狭い路地の両側には、色とりどりのスパイスが山積みにされており、エキゾチックな雰囲気に心が躍ります。 本来はブルジュ・ハリファの展望台に登る予定でしたが、混雑のため予約が必要とのことで、翌日に改めて予約を取り、この日は地元のマーケット巡りに予定を切り替えました。結果的に、きらびやかな現代ドバイだけでなく、歴史や伝統が息づくもうひとつのドバイの顔を知ることができた、思い出深い1日となりました。ドバイを訪れるなら、ぜひこのゴー...