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北方文化博物館新潟分館:新潟の旧家に残る文人の気配

この日は朝から新潟観光の日でした。白鳥の越冬地として知られる瓢湖からスタートし、そこからは交通機関の本数も多くないので徒歩で、まずは郊外の北方文化博物館を訪れました。その本館からさらに移動し、再度徒歩で新潟市街地へと向かいました。

バスの本数も限られているエリアなので、阿賀野川沿いの風や住宅地の雰囲気を感じながら、少しずつ街の中心へ歩いていく道のりです。郊外の田園風景から、やがてビルの立ち並ぶ市街地へと景色が移り変わっていくのを眺めながら、「伊藤家がなぜ市内にも別邸を構えたのか」ということに思いを巡らせました。

ようやくたどり着いた北方文化博物館新潟分館は、南浜通の静かな一角に建つ、落ち着いた佇まいの旧家でした。建物は明治28年に、日本海側の油田開発で財を成した清水常作が別邸として建てたもので、その後、明治末期に伊藤家七代目・伊藤文吉によって取得され、新潟別邸となったそうです。つまりここは、郊外の「豪農の館」と市街地とをつなぐ、伊藤家のもう一つの顔が残された場所でもあります。

門をくぐると、まず目に入るのは手入れの行き届いた庭と、二階建ての和風建築、奥に控える洋館です。新潟分館の洋館は、歌人・美術史家・書家として知られる會津八一が晩年を過ごした住まいであり、現在は彼の書や資料、新潟ゆかりの僧・良寛の書も展示する博物館になっています。

館内に入ると、旧家の各部屋がそのまま展示空間として生かされているのが印象的でした。古文書や巻物が静かに並び、窓際には使い込まれた木の机が置かれています。その机の上に開かれた帳簿や筆記具を想像すると、ここで実際に誰かが腰を下ろし、仕事や創作に向き合っていた気配がふっと立ち上がってくるようでした。

床の間には掛け軸が掛かり、その脇には控えめな意匠の壺や花器が置かれています。展示のために「並べました」というよりも、かつての暮らしの延長線上にあるような、自然な配置が心地よく感じられました。伊藤家の別邸として客を迎え、やがて會津八一が住まいとした場所だけあって、華美すぎず、それでいて文化的な香りのあるしつらえです。

部屋を移動するごとに、展示内容は少しずつ表情を変えます。ある部屋では會津八一の力強い書が壁面を飾り、別の部屋では、良寛の書が静かな気配をまとって並んでいました。どちらも新潟にゆかりの深い人物であり、北方文化博物館の収集・保存活動の延長線上にこうした展示があるのだと考えると、「北の方の文化を守り伝える」という館名の意味が具体的な重みを持って迫ってきます。

縁側に出て庭を眺めると、枯山水の庭と池泉が組み合わさった小さな庭園が広がっていました。郊外の本館のダイナミックな庭園に比べると、スケールはぐっとコンパクトですが、そのぶん街中の喧騒を忘れさせてくれる、密やかな落ち着きがあります。石灯籠や飛び石の配置、建物との距離感などに、伊藤家が郊外だけでなく市街地でも「庭のある暮らし」を大切にしていたことが感じられました。

一通り館内を見終えて門を出ると、すぐそこには現代の新潟市街の生活が広がっています。バスや車が行き交う通りから一歩中に入るだけで、明治から昭和にかけての文人や豪農の気配に包まれる――そんな時間の行き来を体験できるのが、この新潟分館の魅力だと思いました。

瓢湖から始まり、郊外の豪農の館を経て、市街地の旧家へとたどる一日の流れの中で、同じ伊藤家に連なる建物であっても、それぞれの場所で担ってきた役割が少しずつ違うことに気づかされました。田畑とともに歩んだ沢海の本邸、文化サロンや文人の住まいとして機能した南浜通の別邸。そのどちらにも足を運ぶことで、「北方文化」という名前に込められた、新潟の歴史と暮らしの厚みを、ほんの少しだけ実感できたような気がします。

旅程

(略)

↓(徒歩)

北方文化博物館

↓(徒歩)

北方文化博物館新潟分館

↓(徒歩)

旧齋藤家別邸

↓(徒歩)

新潟駅

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