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三人兄弟(タリン):三つのはずが四つ?タリンの不思議な家並み散歩

タリン旧市街を歩いているとき、ふと路地の先に、肩を寄せ合うように並んだ家々が見えてきました。タリン観光2日目です。石畳のゆるやかな坂道に、三角屋根の家がきれいに並んでいて、「あ、あれが三人兄弟だな」とすぐに分かりました。 タリンといえば、まず有名なのは「三人姉妹」ですが、実は旧市街には「三人兄弟」と呼ばれる家並みもあります。どちらも中世の商人住宅で、細長い敷地に三角屋根を通り側に向けて建てた、ハンザ都市らしいゴシック様式の家です。1階は吹き抜けのホール兼作業場、上の階は穀物や商品を貯蔵する倉庫という造りで、かつての商人たちの暮らしぶりがそのまま立体的に残っています。 タリン旧市街そのものが「中世の町並みがよく残る都市」として世界遺産に登録されていますが、その雰囲気を象徴する一角と言ってよさそうです。 建物の前に立ってじっくり眺めてみると、右から太くて背の高い白い家、少し細くて低い白い家、さらに細くて低い薄黄色の家、そして最後に、薄黄色の家より太いけれど背は低い黄色の家が続いていました。「あれっ、四つあるな……?」と首をかしげながら、しばらく立ち尽くしてしまいました。どう見ても四軒並んでいるのに、名前は「三人兄弟」。おそらく、真ん中の二軒が本来の「兄弟」で、端のどちらかは、たまたま似た姿でくっついて並んでいる“ご近所さん”なのでしょう。そんなことを考えながら眺めていると、どの家にも性格があるように見えてきて、兄弟たちの性格まで想像したくなります。 ここでふと、日本語の名前のことも気になりました。タリンやリガの建物は、日本語だと「三人姉妹」「三人兄弟」と紹介されることが多いですが、日本語の感覚だと「三姉妹」「三兄弟」と言った方が、すっきりした響きがあります。本来、エストニア語やラトビア語では「三人の兄弟」という素朴な表現で、建物に人間味を持たせるような愛称として使われているはずです。それを直訳しようとして、「三兄弟」だと少し意味が変わる気がして、「人」を足してしまったのかもしれません。観光案内のどこかで見かけた「三人兄弟」という表記を、そのまま自分のメモにも書き写してしまったのだろうなと、今になって少し照れくさくなります。 とはいえ、「三人」でも「三」でも、兄弟たちが並ぶ姿の親しみやすさは変わりません。白・黄・緑と色の違う家が肩を寄せ合い、通りの向こうからやって来た旅人...

聖オレフ教会:タリンの空に刺さる一本の尖塔

タリンの旧市街を歩いていると、屋根の海の向こうに一本の尖塔がすっと立ち上がっていました。遠くからでもよく目に入るその塔に導かれるように近づくと、そこが聖オレフ教会(St. Olaf's Church)でした。 入口から塔の内部へ進むと、石造りの階段は薄暗く、まるでTVゲームのダンジョンを進むような雰囲気です。 途中からは急な螺旋階段になり、足元の感覚だけを頼りに一段一段を確かめるように上りました。 やがて扉を抜けて外に出ると、そこは屋根のふもと。青緑に風化した金属葺きの屋根が目の前に広がり、単純な円錐に見えた尖塔も、展望台付近には意匠が施されていることに気づきました。足場は驚くほど狭いのに、視界は一気に開け、赤い屋根の旧市街から港、遠い海までを一望できました。展望台までは約232段。おおよそ60メートルの高さに設けられたこの回廊が、塔の上りつめた者だけに許されるご褒美の舞台でした。 教会の起源は中世にさかのぼります。12世紀に創建されたと伝わり、献堂先はノルウェー王で聖人となったオーラヴ2世です。タリンがデンマークの支配を受ける以前、北欧の商人・住民の信仰の中心でもあったとされ、13世紀の文献に名前が現れます。宗教改革期にはルター派の教会となり、戦後のソ連期を経て、現在はバプテスト教会として礼拝が続けられています。 この尖塔には、いくつもの伝承やドラマが重なっています。16世紀末に非常に高い尖塔が築かれ、かつて「世界一高い建物」と称されたことがありました。ただし当時の度量衡の解釈などをめぐって研究者の見解は分かれ、現在は「ヨーロッパ屈指の高塔だった」という理解が穏当でしょう。現在の尖塔の高さはおよそ123〜124メートルで、昔日の“最高”伝説を今に伝えるランドマークであり続けています。 高く細い塔は何度も落雷に見舞われ、1625年と1820年には火災で尖塔や屋根が焼失しました。銅や鉛の金属葺きまで燃え広がったと記録され、度重なる再建をへて19世紀に現在の姿が整えられます。風雨にさらされて青緑の肌をまとった屋根の色は、その歴史の厚みを静かに物語っているようでした。 ソ連時代には、この塔が監視・無線通信の拠点として使われたこともあり、宗教建築でありながら都市の記憶を映す「塔」としての役割を担ってきました。旧市街の赤瓦と海の青、そのあいだに立つこの塔は、時代ごとに...

三人姉妹:窓辺のフックが語るエストニアの中世の知恵と暮らし

本日は、ラトビア・エストニア観光の4日目、タリン滞在2日目です。エストニア・タリンの旧市街を歩いていると、中世の雰囲気を色濃く残した建物がいくつも目に入りますが、その中でもひときわ目を引くのが「三人姉妹」と呼ばれる建物です。太っちょマルガレータ(ふとっちょマルガレータの塔)など、市内のランドマークを巡ったあと、この三人姉妹に足を運びました。 三人姉妹は、15世紀から16世紀にかけて建てられたゴシック様式の商人の邸宅が3軒並んだもので、現在はホテルとして使われています。3棟並ぶ姿がまるで仲の良い姉妹のように見えることから、この愛称で呼ばれているそうです。石造りのファサードや、当時の面影を残す窓枠、堂々とした扉のデザインなど、古い時代のタリンの繁栄を感じさせます。 デジカメ時代の撮影では、パノラマ機能がまだ一般的ではなかったため、建物全体を一枚に収めるのは難しく、分割して撮った写真を帰国後に合成したのも良い思い出です。こうした歴史的な建物の外壁を見ていると、ふと気になるのが、建物の高い場所に取り付けられたフックのような金具です。実際、三人姉妹にもそれぞれフックがついていました。調べてみると、これは高層階の荷物や家具を直接外から引き上げたり下ろしたりするための道具で、中世ヨーロッパの商家によく見られる工夫だそうです。当時は階段が狭かったり、重い荷物を室内で運ぶのが大変だったため、このような仕組みが発達したのでしょう。 時代を経て、三人姉妹は姿を変えながらも、その美しさと実用性を保ち続けています。2003年にホテルとして生まれ変わり、旅人を迎え続けていると聞きます。古い石造りの壁の中には、何百年にもわたる商人たちの生活やタリンの歴史が静かに息づいているようでした。 タリン旧市街の散策の途中で、もしこの三人姉妹の前を通りかかったなら、外壁のフックや窓の細部までぜひ目を向けてみてください。時代を超えて今に伝わる知恵や美意識を、そっと感じることができるはずです。 旅程 (略) ↓(徒歩) 太っちょマルガレータ ↓(徒歩) 三人姉妹 ↓(徒歩) 聖オレフ教会 ↓(徒歩) 三人兄弟 ↓(徒歩) Tallinna Linnateater ↓(徒歩) (略) 周辺のスポット 太っちょマルガレータ Tallinn Horse Mill 聖オレフ教会 リンク Historic Hotel i...

猫の家:怒ってる?驚いてる?屋根の上の表情

リガ旧市街を歩いていると、クリーム色の外壁に窓が並ぶ可愛らしい建物の尖った屋根に、背中を弓なりにして尾を高く掲げた猫の像がちょこんと乗っていました。円錐屋根の稜線に前足と後ろ足を器用に掛けて踏ん張る姿は、地上で同じ格好をされたら怒っているのか驚いているのか判断に迷いそうですが、屋根の上ではむしろ街の守り神のような落ち着きがあり、見上げるこちらの頬がゆるみました。猫の素材は銅で、背を丸め尾を立てたシルエットが遠目にもはっきり分かります。 この建物は「猫の家」と呼ばれ、場所は旧市街のメイスタル通り(Meistaru iela)。目の前はカフェが並ぶリーヴ広場で、すぐそばには音楽ホールとしても知られる大ギルドの堂々たる外観がのぞきます。広場を囲む建物群の彩りと相まって、猫の家の黄色い外壁が広場の風景に温かみを添えていました。 猫の家が面白いのは、ただ可愛いだけではなく“小さな因縁”の物語を背負っていることです。もっとも有名な伝承では、建物の持ち主だった地元商人が大ギルドへの加入を拒まれた腹いせに、屋根の猫たちの“お尻”をギルド側に向けて据え付けたのだとか。のちに裁定で向きを変えるよう命じられ、現在はギルドを向く形に直された――そんなオチまで付いています。現地では向きを意識せずに眺めていましたが、伝承を知ってから写真を見返すと、怒って背を丸めたようにも、びっくりして体を反らせたようにも見えるポーズが、持ち主の悔しさと茶目っ気を同時に語っているように思えてきます。 大ギルド 建物自体は1909年の完成。設計はフリードリヒ・シェッフェルで、中世風の意匠にアール・ヌーヴォーの要素を織り交ぜた外観が特徴です。リガはヨーロッパでもアール・ヌーヴォー建築の密度が高い都市ですが、そのなかで猫の家は物語性と造形がうまく結び付いた、街歩きに欠かせない“名脇役”だと感じました。 私が訪れた日も、広場には花壇が波のように連なり、カフェのテラスからは賑やかな話し声がこぼれていました。ふと見上げると、円錐屋根の端で猫が今日も四肢を踏ん張り、どこか斜に構えた視線を遠くへ投げています。怒っているのか、驚いているのか――その曖昧さこそが、旅人の想像力をくすぐる魅力なのだと思います。 旅程 ホテル ↓(徒歩) 聖ローランドの像 ↓(徒歩) ブラックヘッドハウス ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 聖ペテロ教会 ...

火薬塔:レンガ造りの塔が語るリガの過去、中世の記憶を映す旧市街のランドマーク

スウェーデン門の後、ひときわ目を引く円柱形のレンガ造りの建物に出会いました。これが、ラトビア・リガの「火薬塔」です。朝から石畳の旧市街を巡り、歴史ある街並みや教会、広場などを見て回った一日の締めくくりとして、この火薬塔に足を運びました。 火薬塔は、丸みを帯びた堅牢な造りと、頂部の円錐型の屋根が特徴的です。中世のヨーロッパにタイムスリップしたかのような雰囲気が漂い、旧市街の中でも存在感のある建物です。塔自体の歴史は古く、14世紀に防衛施設の一部として建設され、リガの街を外敵から守る重要な役割を果たしてきました。当初は「砂の塔(Sand Tower)」と呼ばれていました。その後、火薬の貯蔵庫として使われるようになったことから「火薬塔」と呼ばれるようになったそうです。 現在はラトビア軍事博物館が併設されており、軍事や戦争の歴史を伝える展示が行われています。しかし、この日は夕方に到着したため、残念ながら博物館はすでに閉館していました。内部の展示を見ることはできませんでしたが、夕暮れ時にライトアップされ始めた火薬塔の姿は、日中とはまた違った趣がありました。 リガの旧市街を歩きながら、中世の防衛都市としての名残を今に伝える火薬塔を目にし、その歴史の重みや街の人々の営みに思いを馳せるひとときとなりました。再びリガを訪れる機会があれば、今度はぜひ博物館の中にも足を踏み入れてみたいと感じました。 旅程 ホテル ↓(徒歩) 聖ローランドの像 ↓(徒歩) ブラックヘッドハウス ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 聖ペテロ教会 ↓(徒歩) 聖ヨハネ教会 ↓(徒歩) リガ航海史博物館 ↓(徒歩) リガ大聖堂 ↓(徒歩) 三人兄弟 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) スウェーデン門 ↓(徒歩) 火薬塔 ↓(徒歩) 猫の家 ↓(徒歩) Great Guild ↓(徒歩) (略) 周辺のスポット ラトビア軍事博物館 スウェーデン門 猫の家 リンク The Powder Tower | LiveRiga

リガ大聖堂:中世の時を刻む鐘楼の下で、バルト三国最大級の聖堂で出会う音と静寂の風景

聖ヨハネ教会から北西に進み、リガ大聖堂に向かいました。 リガの旧市街を歩いていると、ひときわ目を引く重厚な建物が視界に入ってきます。それが、ラトビアの宗教的・歴史的シンボルとも言えるリガ大聖堂です。赤レンガ造りのファサードと高くそびえる尖塔は、リガの街並みにおいて欠かすことのできない存在となっています。 リガ大聖堂の建設が始まったのは1211年、リガを築いたドイツ人司教アルベルトによるものでした。当時はリヴォニア帯剣騎士団の宗教的中心地として、またバルト海地域におけるキリスト教布教の拠点としての意味も込められていました。何世紀にもわたって増築と改修が重ねられてきたため、この聖堂にはロマネスク様式からゴシック、さらにはバロックやアール・ヌーヴォーの要素までが共存しています。建築の各部位に、その時代ごとの美意識や技術が息づいていることが、訪れる者の目を楽しませてくれます。 この大聖堂のもうひとつの顔は、音楽の殿堂としての姿です。中でも特筆すべきは、1884年に設置されたパイプオルガンです。ドイツの名門ウォルカー社によって製作されたこの楽器は、6700本以上のパイプを持ち、世界でも屈指の規模と音色を誇ります。毎年夏になるとオルガンコンサートが開催され、聖堂に響き渡るその壮麗な音色を求めて、世界中から音楽ファンが訪れます。荘厳な内部空間と音楽が一体となる時間は、まさに時を超えた宗教芸術の体験そのものです。 また、大聖堂に併設された博物館では、ラトビアのキリスト教史に関する展示が行われており、写本や宗教画、かつての司教たちの遺品などが丁寧に紹介されています。中世の静謐な雰囲気が漂う回廊式の中庭では、観光の喧騒を離れてゆっくりと時間を過ごすことができます。石畳の床とレンガの壁に囲まれながら、ここで静かに過ごすひとときは、まるで時間が止まったかのような感覚を覚えさせてくれます。 現在もリガ大聖堂はルター派の大聖堂として宗教的機能を保っており、礼拝や宗教行事が行われています。その一方で文化的なイベントにも開かれた場となっており、市民の心の拠り所として、またラトビアの歴史と芸術を伝える場として、今も生き続けています。 リガを訪れるなら、ぜひこの大聖堂を訪れてみてください。壮大な歴史、建築の美、そして音楽が調和する空間は、観光という枠を超えた深い感動を与えてくれることでしょう。 旅程 ...

リガ航海史博物館:リガ大聖堂に抱かれて、リガ800年の航海の記憶をたどる

聖ヨハネ教会から北西に進み、リガ大聖堂に向かいました。リガ大聖堂には、リガ航海史博物館(Museum of the History of Riga and Navigation)が併設されています。 リガ旧市街にたたずむ「リガ航海史博物館」は、ヨーロッパでも最も古い博物館のひとつとして知られています。その起源は18世紀にまでさかのぼり、1773年にリガの医師ニコラウス・フォン・ヒムゼルが収集した私蔵コレクションが母親の手によってリガ市に寄贈されたことから始まりました。このコレクションが礎となり、現在の博物館が設立されたのです。 博物館はリガ大聖堂の建物群の一部に位置しており、その歴史的建築物とともに訪れる者を魅了します。特に18世紀に建てられた古典主義様式のコラム・ホールは、かつて図書館として使われていた空間で、現在も会議や特別展示など多目的に活用されています。こうした空間そのものが、リガという都市の文化的層の厚さを物語っているように感じられます。 展示室は16に分かれ、リガの誕生から現代に至るまでの約800年にわたる歴史と、ラトビアの航海文化の歩みを紹介しています。館内を巡ると、中世から近代にかけての工芸品や武具、交易の品々が目を引きます。特にハンザ同盟時代の計量器や、リガで実際に使われていた処刑人の剣などは、歴史の重みを肌で感じさせる迫力があります。 リガを旅するならば、石畳の美しい街並みを歩いた後に、ぜひこの博物館を訪れてみてください。きっと、過去と現在が織りなす物語に心を動かされることでしょう。 大北方戦争 17世紀の終わり、バルト海沿岸はスウェーデンの影に覆われていました。グスタフ2世・アドルフ以来の武勲に支えられ、スウェーデンは北方の覇者として君臨し、バルト海を「スウェーデンの湖」とも呼ばれるまでに支配を広げていました。しかし、その栄光は永遠ではありませんでした。1700年、若き王カール12世の登場とともに始まった「大北方戦争」は、北ヨーロッパの勢力図を塗り替える大きな転換点となります。 戦争の火蓋が切られたのは、スウェーデンの周辺諸国が連携して攻撃を仕掛けたときでした。ロシアのピョートル1世、ポーランド・リトアニア共和国のアウグスト2世、デンマーク=ノルウェーのフレデリク4世──彼らは18歳のカール12世を侮り、好機と見て一斉に攻め込みます。ところがそ...