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タリン市立劇場(Tallinna Linnateater):タリンの石畳の先の“舞台”のある中庭

タリン観光2日目は、朝から聖オレフ教会などを歩いて回り、旧市街の石畳にも少しずつ足が慣れてきた頃でした。ホテルでもらった地図に「theater」と書かれた場所があり、建物の外観だけでも写真に収めようと思って立ち寄ったのが、Tallinna Linnateater(タリン市立劇場)です。 行ってみると、いわゆる近代的なホールの正面玄関というより、旧市街の建物の隙間に吸い込まれていくような入口が印象的で、「ここが劇場なのか」と半信半疑のまま進みました。すると、思いがけず視界が開け、野外の劇場空間と舞台が現れます。観客席から舞台まで見渡せるつくりで、壁に囲まれた中庭がそのまま劇場になっているようでした。 舞台上には、街角の一部を切り取ったようなセットが組まれていて、これから物語が始まりそうな気配が漂っていました。近々公演があるのかもしれません。けれどこの日は、役者も観客もいない静かな時間で、舞台装置だけが「人が集まったときの熱」を想像させます。案内板には昼や夜の上演風景が紹介されていて、同じ場所でも時間帯によって空気ががらりと変わるのだろうな、と写真を撮りながら考えました。 あとで調べて知ったのですが、この劇場は1965年に「エストニア青年劇場」として創設され、演劇教育でも伝説的な存在として語られるVoldemar Pansoが最初の芸術監督を務めたそうです。半世紀以上の歴史を持ちながら、旧市街の空気感と近い距離で演劇を育ててきた場所だと思うと、私が偶然見た“誰もいない舞台”も、長い時間の蓄積の一部に見えてきます。  さらに特徴的なのが、劇場の建物が「16棟の中世の商人の家」を連結したユニークな構造だという点です。旧市街で出会う切妻屋根や古い壁の連なりが、単なる街並みではなく、そのまま劇場の器になっているわけで、私が“屋外の劇場”として体験した中庭空間も、その延長にあるのだと腑に落ちました。 劇場を後にした私は、そのまま次の目的地であるChurch of the Transfiguration of Our Lord(主の変容教会)へ向かいました。こちらもまた、旧市街の歴史が折り重なった場所で、起源は13世紀にまで遡り、もともとはシトー会の聖ミカエル修道院の主要教会として建てられたとされています。その後、18世紀に正教会の聖堂として再建され、宗派と時代をまたいで姿...

三人兄弟(タリン):三つのはずが四つ?タリンの不思議な家並み散歩

タリン旧市街を歩いているとき、ふと路地の先に、肩を寄せ合うように並んだ家々が見えてきました。タリン観光2日目です。石畳のゆるやかな坂道に、三角屋根の家がきれいに並んでいて、「あ、あれが三人兄弟だな」とすぐに分かりました。 タリンといえば、まず有名なのは「三人姉妹」ですが、実は旧市街には「三人兄弟」と呼ばれる家並みもあります。どちらも中世の商人住宅で、細長い敷地に三角屋根を通り側に向けて建てた、ハンザ都市らしいゴシック様式の家です。1階は吹き抜けのホール兼作業場、上の階は穀物や商品を貯蔵する倉庫という造りで、かつての商人たちの暮らしぶりがそのまま立体的に残っています。 タリン旧市街そのものが「中世の町並みがよく残る都市」として世界遺産に登録されていますが、その雰囲気を象徴する一角と言ってよさそうです。 建物の前に立ってじっくり眺めてみると、右から太くて背の高い白い家、少し細くて低い白い家、さらに細くて低い薄黄色の家、そして最後に、薄黄色の家より太いけれど背は低い黄色の家が続いていました。「あれっ、四つあるな……?」と首をかしげながら、しばらく立ち尽くしてしまいました。どう見ても四軒並んでいるのに、名前は「三人兄弟」。おそらく、真ん中の二軒が本来の「兄弟」で、端のどちらかは、たまたま似た姿でくっついて並んでいる“ご近所さん”なのでしょう。そんなことを考えながら眺めていると、どの家にも性格があるように見えてきて、兄弟たちの性格まで想像したくなります。 ここでふと、日本語の名前のことも気になりました。タリンやリガの建物は、日本語だと「三人姉妹」「三人兄弟」と紹介されることが多いですが、日本語の感覚だと「三姉妹」「三兄弟」と言った方が、すっきりした響きがあります。本来、エストニア語やラトビア語では「三人の兄弟」という素朴な表現で、建物に人間味を持たせるような愛称として使われているはずです。それを直訳しようとして、「三兄弟」だと少し意味が変わる気がして、「人」を足してしまったのかもしれません。観光案内のどこかで見かけた「三人兄弟」という表記を、そのまま自分のメモにも書き写してしまったのだろうなと、今になって少し照れくさくなります。 とはいえ、「三人」でも「三」でも、兄弟たちが並ぶ姿の親しみやすさは変わりません。白・黄・緑と色の違う家が肩を寄せ合い、通りの向こうからやって来た旅人...

聖オレフ教会:タリンの空に刺さる一本の尖塔

タリンの旧市街を歩いていると、屋根の海の向こうに一本の尖塔がすっと立ち上がっていました。遠くからでもよく目に入るその塔に導かれるように近づくと、そこが聖オレフ教会(St. Olaf's Church)でした。 入口から塔の内部へ進むと、石造りの階段は薄暗く、まるでTVゲームのダンジョンを進むような雰囲気です。 途中からは急な螺旋階段になり、足元の感覚だけを頼りに一段一段を確かめるように上りました。 やがて扉を抜けて外に出ると、そこは屋根のふもと。青緑に風化した金属葺きの屋根が目の前に広がり、単純な円錐に見えた尖塔も、展望台付近には意匠が施されていることに気づきました。足場は驚くほど狭いのに、視界は一気に開け、赤い屋根の旧市街から港、遠い海までを一望できました。展望台までは約232段。おおよそ60メートルの高さに設けられたこの回廊が、塔の上りつめた者だけに許されるご褒美の舞台でした。 教会の起源は中世にさかのぼります。12世紀に創建されたと伝わり、献堂先はノルウェー王で聖人となったオーラヴ2世です。タリンがデンマークの支配を受ける以前、北欧の商人・住民の信仰の中心でもあったとされ、13世紀の文献に名前が現れます。宗教改革期にはルター派の教会となり、戦後のソ連期を経て、現在はバプテスト教会として礼拝が続けられています。 この尖塔には、いくつもの伝承やドラマが重なっています。16世紀末に非常に高い尖塔が築かれ、かつて「世界一高い建物」と称されたことがありました。ただし当時の度量衡の解釈などをめぐって研究者の見解は分かれ、現在は「ヨーロッパ屈指の高塔だった」という理解が穏当でしょう。現在の尖塔の高さはおよそ123〜124メートルで、昔日の“最高”伝説を今に伝えるランドマークであり続けています。 高く細い塔は何度も落雷に見舞われ、1625年と1820年には火災で尖塔や屋根が焼失しました。銅や鉛の金属葺きまで燃え広がったと記録され、度重なる再建をへて19世紀に現在の姿が整えられます。風雨にさらされて青緑の肌をまとった屋根の色は、その歴史の厚みを静かに物語っているようでした。 ソ連時代には、この塔が監視・無線通信の拠点として使われたこともあり、宗教建築でありながら都市の記憶を映す「塔」としての役割を担ってきました。旧市街の赤瓦と海の青、そのあいだに立つこの塔は、時代ごとに...

三人姉妹:窓辺のフックが語るエストニアの中世の知恵と暮らし

本日は、ラトビア・エストニア観光の4日目、タリン滞在2日目です。エストニア・タリンの旧市街を歩いていると、中世の雰囲気を色濃く残した建物がいくつも目に入りますが、その中でもひときわ目を引くのが「三人姉妹」と呼ばれる建物です。太っちょマルガレータ(ふとっちょマルガレータの塔)など、市内のランドマークを巡ったあと、この三人姉妹に足を運びました。 三人姉妹は、15世紀から16世紀にかけて建てられたゴシック様式の商人の邸宅が3軒並んだもので、現在はホテルとして使われています。3棟並ぶ姿がまるで仲の良い姉妹のように見えることから、この愛称で呼ばれているそうです。石造りのファサードや、当時の面影を残す窓枠、堂々とした扉のデザインなど、古い時代のタリンの繁栄を感じさせます。 デジカメ時代の撮影では、パノラマ機能がまだ一般的ではなかったため、建物全体を一枚に収めるのは難しく、分割して撮った写真を帰国後に合成したのも良い思い出です。こうした歴史的な建物の外壁を見ていると、ふと気になるのが、建物の高い場所に取り付けられたフックのような金具です。実際、三人姉妹にもそれぞれフックがついていました。調べてみると、これは高層階の荷物や家具を直接外から引き上げたり下ろしたりするための道具で、中世ヨーロッパの商家によく見られる工夫だそうです。当時は階段が狭かったり、重い荷物を室内で運ぶのが大変だったため、このような仕組みが発達したのでしょう。 時代を経て、三人姉妹は姿を変えながらも、その美しさと実用性を保ち続けています。2003年にホテルとして生まれ変わり、旅人を迎え続けていると聞きます。古い石造りの壁の中には、何百年にもわたる商人たちの生活やタリンの歴史が静かに息づいているようでした。 タリン旧市街の散策の途中で、もしこの三人姉妹の前を通りかかったなら、外壁のフックや窓の細部までぜひ目を向けてみてください。時代を超えて今に伝わる知恵や美意識を、そっと感じることができるはずです。 旅程 (略) ↓(徒歩) 太っちょマルガレータ ↓(徒歩) 三人姉妹 ↓(徒歩) 聖オレフ教会 ↓(徒歩) 三人兄弟 ↓(徒歩) タリン市立劇場(Tallinna Linnateater) ↓(徒歩) Church of the Transfiguration of Our Lord ↓(徒歩) (略) 周辺のスポット ...

猫の家:怒ってる?驚いてる?屋根の上の表情

リガ旧市街を歩いていると、クリーム色の外壁に窓が並ぶ可愛らしい建物の尖った屋根に、背中を弓なりにして尾を高く掲げた猫の像がちょこんと乗っていました。円錐屋根の稜線に前足と後ろ足を器用に掛けて踏ん張る姿は、地上で同じ格好をされたら怒っているのか驚いているのか判断に迷いそうですが、屋根の上ではむしろ街の守り神のような落ち着きがあり、見上げるこちらの頬がゆるみました。猫の素材は銅で、背を丸め尾を立てたシルエットが遠目にもはっきり分かります。 この建物は「猫の家」と呼ばれ、場所は旧市街のメイスタル通り(Meistaru iela)。目の前はカフェが並ぶリーヴ広場で、すぐそばには音楽ホールとしても知られる大ギルドの堂々たる外観がのぞきます。広場を囲む建物群の彩りと相まって、猫の家の黄色い外壁が広場の風景に温かみを添えていました。 猫の家が面白いのは、ただ可愛いだけではなく“小さな因縁”の物語を背負っていることです。もっとも有名な伝承では、建物の持ち主だった地元商人が大ギルドへの加入を拒まれた腹いせに、屋根の猫たちの“お尻”をギルド側に向けて据え付けたのだとか。のちに裁定で向きを変えるよう命じられ、現在はギルドを向く形に直された――そんなオチまで付いています。現地では向きを意識せずに眺めていましたが、伝承を知ってから写真を見返すと、怒って背を丸めたようにも、びっくりして体を反らせたようにも見えるポーズが、持ち主の悔しさと茶目っ気を同時に語っているように思えてきます。 大ギルド 建物自体は1909年の完成。設計はフリードリヒ・シェッフェルで、中世風の意匠にアール・ヌーヴォーの要素を織り交ぜた外観が特徴です。リガはヨーロッパでもアール・ヌーヴォー建築の密度が高い都市ですが、そのなかで猫の家は物語性と造形がうまく結び付いた、街歩きに欠かせない“名脇役”だと感じました。 私が訪れた日も、広場には花壇が波のように連なり、カフェのテラスからは賑やかな話し声がこぼれていました。ふと見上げると、円錐屋根の端で猫が今日も四肢を踏ん張り、どこか斜に構えた視線を遠くへ投げています。怒っているのか、驚いているのか――その曖昧さこそが、旅人の想像力をくすぐる魅力なのだと思います。 旅程 ホテル ↓(徒歩) 聖ローランドの像 ↓(徒歩) ブラックヘッドハウス ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 聖ペテロ教会 ...

火薬塔:レンガ造りの塔が語るリガの過去、中世の記憶を映す旧市街のランドマーク

スウェーデン門の後、ひときわ目を引く円柱形のレンガ造りの建物に出会いました。これが、ラトビア・リガの「火薬塔」です。朝から石畳の旧市街を巡り、歴史ある街並みや教会、広場などを見て回った一日の締めくくりとして、この火薬塔に足を運びました。 火薬塔は、丸みを帯びた堅牢な造りと、頂部の円錐型の屋根が特徴的です。中世のヨーロッパにタイムスリップしたかのような雰囲気が漂い、旧市街の中でも存在感のある建物です。塔自体の歴史は古く、14世紀に防衛施設の一部として建設され、リガの街を外敵から守る重要な役割を果たしてきました。当初は「砂の塔(Sand Tower)」と呼ばれていました。その後、火薬の貯蔵庫として使われるようになったことから「火薬塔」と呼ばれるようになったそうです。 現在はラトビア軍事博物館が併設されており、軍事や戦争の歴史を伝える展示が行われています。しかし、この日は夕方に到着したため、残念ながら博物館はすでに閉館していました。内部の展示を見ることはできませんでしたが、夕暮れ時にライトアップされ始めた火薬塔の姿は、日中とはまた違った趣がありました。 リガの旧市街を歩きながら、中世の防衛都市としての名残を今に伝える火薬塔を目にし、その歴史の重みや街の人々の営みに思いを馳せるひとときとなりました。再びリガを訪れる機会があれば、今度はぜひ博物館の中にも足を踏み入れてみたいと感じました。 旅程 ホテル ↓(徒歩) 聖ローランドの像 ↓(徒歩) ブラックヘッドハウス ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) 聖ペテロ教会 ↓(徒歩) 聖ヨハネ教会 ↓(徒歩) リガ航海史博物館 ↓(徒歩) リガ大聖堂 ↓(徒歩) 三人兄弟 ↓(徒歩) (略) ↓(徒歩) St. Jacob’s Catholic Cathedral of Riga ↓(徒歩) スウェーデン門 ↓(徒歩) 火薬塔 ↓(徒歩) 猫の家 ↓(徒歩) Great Guild ↓(徒歩) ホテル 周辺のスポット ラトビア軍事博物館 スウェーデン門 猫の家 リンク The Powder Tower | LiveRiga

スウェーデン門:火薬塔へ続く、煉瓦の防衛線

リガ観光2日目に旧市街を北へ歩き、「スウェーデン門(Zviedru vārti)」まで足を運びました。リガ大聖堂や三人兄弟など、石造りの街並みと歴史の層を感じるスポットを見たあと、少しずつ城壁の気配が濃くなる方へ進んでいくと、ふいに“門”らしからぬ不思議な建物が現れます。 目の前にあったのは、門というより家の形をした石の建物で、1階部分だけがアーチ状にぽっかり抜けていて、その下を道が通っていました。街の中に、家の下をくぐり抜ける通路があるというだけで、リガ旧市街が「防衛都市」でもあったことを身体で理解できる気がします。実際、スウェーデン門は1698年に、城壁の一部(あるいは城壁沿いの建物)を利用する形で設けられた通用口で、城壁の外側にあった兵舎へ出入りするための実用的な目的を持っていました。 この門が「スウェーデン門」と呼ばれるのは、17世紀にリガがスウェーデンの支配下にあった時代背景と結びついています。いま見られる城門としては、かつて複数あった門のうち現存する唯一のものだとされ、だからこそ、旧市街を歩いていて偶然出会うと“遺構そのもの”に触れた感覚が強く残ります。 門をくぐって火薬塔の方向へ視線を向けると、煉瓦造りの古い城壁がすっと伸びていて、街の輪郭をなぞるように続いていました。スウェーデン門がトルニャ通り(Torņa iela)沿いにあることを踏まえると、門から火薬塔へ向かうこの動線自体が、城壁が都市を守っていた頃の「境界線」を追体験する散歩にもなります。 そして、こうした史跡に欠かせないのが伝説です。スウェーデン門には、スウェーデン兵と恋に落ちた娘が罰として壁に塗り込められた、という悲しい物語が語られています。史実として確かめようのない部分も含めて、城壁と門が日常の生活圏に溶け込んでいたからこそ生まれた“街の記憶”なのだと思うと、ただ通り抜けるだけのアーチが、急に物語の入口に見えてくるから不思議です。 スウェーデン門を後にして、そのまま火薬塔へ向かいました。門の「家の下を通る」感覚と、城壁が連なる重厚さを一度味わってから火薬塔へ向かうと、リガ旧市街の防衛の歴史が点ではなく線でつながって見えてきます。観光名所を巡ったというより、都市の仕組みそのものを歩いて確かめた一日だった、と後から振り返りたくなる場所でした。 旅程 ホテル ↓(徒歩) 聖ローランドの像 ↓(...