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カパルチャルシュ/グランドバザール(イスタンブール):石造の門が開く商いの迷宮、絨毯の海と陶器のきらめき

イスタンブールのカパルチャルシュ(グランドバザール)を訪れました。 外観は丸いドーム状の屋根が連なり、石造りの重厚な門がいくつも口を開けています。街の喧騒の中にあっても、長い歳月をくぐり抜けてきた建物の存在感があり、門をくぐる前から歴史の気配をはっきりと感じました。 中に入ると、印象は一転します。通路は整えられ、ガラス張りのショーウィンドウが光を返し、まるで現代のショッピングモールのような明るさでした。整然とした通りの両側には、伝統的なトルコ絨毯や手刺繍の服、藍や赤が鮮やかな陶器、金や銀の貴金属が並び、店主の呼びかけと人々の会話が交じり合って独特の活気を生んでいます。歴史の器に最新の店舗が収まっているような不思議な調和があり、歩くほどに時代を行き来しているような気持ちになりました。 17世紀に作られたキオスクの一つ この市場の成り立ちを知ると、その感覚の理由が少し分かります。カパルチャルシュは、オスマン帝国の時代に宝物庫や布を扱う市場から始まり、周囲の商店や職人街が次第に屋根で覆われて巨大な商業空間へと広がっていったとされています。幾度もの火災や地震を経て修復と改修を重ね、要所には石造のアーチとドームが残り、天井の高い回廊が迷路のように続きます。つまりここは、帝都の経済を支えた「生きたインフラ」が、時代ごとの商いの形を受け止めながら現在まで続いてきた場所なのだと思いました。 歩を進めるたび、織り模様の細やかな絨毯の手触りや、陶器の釉薬の艶、金細工の光沢に足が止まります。観光客向けの店構えであっても、品物の向こう側には職人の技が息づいており、一点ものに出会う楽しさがあります。値段交渉の声があちこちから聞こえ、買い物がコミュニケーションそのものであることも感じました。通路の角から角へと眺めが切り替わるたびに、古いアーチと新しいショーケースが同じ画面に収まり、イスタンブールという都市の多層性がそのまま凝縮されているように思えます。 外に出て振り返ると、石の門とドームの連なりが再び静かに立っていました。内部の賑わいを包み込みながら、街の時間を黙って受け止めてきた器のようです。歴史に守られた空間が現代の商いを呼吸している――そんな市場だからこそ、初めて訪れてもどこか懐かしく、何度でも歩き直したくなるのだと感じました。今回は絨毯や陶器、貴金属を眺めるだけでも十分に楽しく、次に来...

ガラタ塔:行列に挫けて見つけた景色、石の塔のふもとで雨宿り

イスタンブール観光の二日目の午後は、新市街地のガラタ塔に行きました。 本日は、朝から旧市街の王道を歩きました。地下宮殿のひんやりした闇を抜け、トプカプ宮殿の回廊で金角湾からの風を感じるうちに、石畳の街に少しずつ体が馴染んでいくのを覚えました。人混みを避けて横道を選んでいると、「昼、一緒にどう」と声をかけられます。旅先での唐突な誘いに一瞬身構えましたが、通りの真ん中にテーブルを出し、親戚一同が賑やかに食事を囲んでいる光景に肩の力が抜けました。「どうぞ」と手渡された家庭の味は素朴で温かく、知らない土地で不意に居場所をもらえたような気持ちになりました。 午後は新市街へ、と伝えると、口をそろえて勧められたのがガラタ塔でした。もともと行くつもりでしたが、地元の人の太鼓判に背中を押され、まずは塔を目指します。金角湾を渡ると、丘の上に円筒形の石塔がすっと立ち上がり、遠目にもよく目立ちます。ガラタ塔は14世紀、ジェノヴァ人が築いた街ガラタの城壁の一部として建てられたと伝わり、のちにオスマン時代には市中を見渡す火の見や、監視の拠点にも使われました。伝説では、17世紀に風乗りのヘザルフェン・アフメト・チェレビが、ここから翼で金角湾を越えたとも語られます。旧市街と新市街、ヨーロッパとアジア、歴史と現代を見晴らすこの塔は、まさに都市の「交差点」を象徴する存在だと感じます。 ところが、ふもとに近づくにつれ、現実はなかなか厳しいものでした。入口から蛇行する行列は、日本の人気ラーメン店さながらの長さで、しかも空模様が急変して雨粒が落ちてきます。展望階からの景色を楽しみにしていただけに残念でしたが、古い塔ゆえに入場者数を調整しているのかもしれません。長い時間をかけて積み上げられた石の静けさを壊さないための配慮だと考えると、列の長さにも納得がいきました。 結局この日は上ることをあきらめ、足元のカフェで雨宿りをしながら、塔の外壁を流れる雨筋を眺めました。金角湾の向こうに見えるモスクの群れ、背後に広がる近代的な街並み、そして自分の手前で立ち止まる雨――目の前の景色は、上から見下ろすのとは違う密度で胸に残ります。旅では、計画通りに行かない瞬間こそ、街の素顔に触れられるのかもしれません。昼食のテーブルで交わした「どうぞ」という一言と、上れなかった塔を見上げた首筋の雨の冷たさは、私にとって同じ一日の連続した記...

トプカプ宮殿:イスラムとヨーロッパの交差点、スルタンの記憶が眠る宮殿でオスマンの夢をたどる

トルコのイスタンブール観光の2日目。地下宮殿のあと、トプカプ宮殿に向かいました。 イスタンブールを訪れるなら、一度は足を運んでほしいのが「トプカプ宮殿」です。この壮大な宮殿は、オスマン帝国のスルタンたちが約400年にわたり政務と私生活を営んだ、歴史的にも美術的にも非常に価値の高い場所です。ボスポラス海峡と金角湾を望む絶好のロケーションに建てられており、イスタンブールの旧市街を歩いていると、その威容に自然と引き寄せられるような気持ちになります。 トプカプ宮殿の建設は、オスマン帝国の第7代スルタン、メフメト2世によって1459年に始められました。彼がコンスタンティノープルを征服したわずか6年後のことです。以後、19世紀半ばまでの長い間、オスマン帝国の中枢として機能してきました。その後、近代化を進めていたスルタンたちは、新たに建設されたドルマバフチェ宮殿へと移り、トプカプ宮殿はその役割を終えることになります。 この宮殿は、中庭が4つも連なる構造を持っており、訪れる人々はその順に進んでいくことで、まるで時代や空間を旅するような感覚を味わうことができます。第一中庭は一般市民にも開かれていた広場で、古代ビザンツ時代の教会「アヤ・イリニ」が残されています。次に進むと、行政の中心だった第二中庭に入ります。ここには、重臣たちが会議を開いていた「御前会議の間」や、かつての台所跡などがあり、かつての宮廷生活の片鱗を感じさせます。 さらに「幸福の門」を通り奥に進むと、スルタンの私的な領域である第三中庭へと入ります。ここには、オスマン帝国の宝物が収められた「宝物庫」や、神聖な「聖遺物室」があります。特に聖遺物室には、イスラム教の預言者ムハンマドの髭や剣などが展示されており、非常に神聖な空間となっています。ムスリムでなくとも、その静謐な雰囲気には自然と背筋が伸びるような気持ちになります。 そして第四中庭は、美しい庭園やパビリオンが広がる、まるで別世界のような空間です。ここからはボスポラス海峡の青い水面を一望でき、風に揺れる木々や花々が、長い歴史に包まれた宮殿に穏やかな表情を添えてくれます。なかでも「バグダッド・キオスク」は戦勝を記念して建てられた建物で、精緻な装飾やタイルがとても印象的です。 忘れてはならないのが「ハーレム」です。ここはスルタンの家族や側女たちが暮らしていた特別な空間で、まさに...

地下宮殿:メデューサが眠る神秘の石の回廊、石柱が語るビザンツの物語

トルコ観光2日目の朝、イスタンブールの地下宮殿を訪れたました。外は今にも雨が降り出しそうな曇り空で、街を歩く人々も少し足早に見えたのを覚えています。そんな中、期待と少しの緊張を胸に、地下宮殿への階段を降りていきました。 地下へと進むと、ひんやりとした空気が頬に心地よく、上とはまるで別世界のような静けさが広がっていました。内部は想像していたよりもずっと広大で、天井は高く、あたりはライトの明かりがところどころに灯るのみで、全体的に薄暗い雰囲気です。その暗がりがまた歴史の重みを感じさせてくれます。 歩を進めるごとに、いくつもの石柱が林立している光景が目に飛び込んできます。一つひとつの柱や天井には美しい装飾が施されていて、ただの貯水池とは思えない荘厳さがありました。この地下宮殿は、ビザンツ時代の6世紀、ユスティニアヌス1世の時代に造られたとされ、イスタンブールの街を支えてきた重要なインフラでもありました。 中でも印象的だったのは、柱の土台に彫られている逆さまの顔です。ガイドブックで予習していた「メデューサの頭」を実際に目にした時は、その大きさと不思議な迫力に圧倒されました。なぜ顔が逆さまなのか、その理由には諸説あるようですが、こうした伝説や謎も、訪れる人々の想像をかき立てる大きな魅力の一つです。 静かに水が張られた地下の広間を歩きながら、遥か昔の人々がこの場所でどんな思いを巡らせていたのだろうと考えました。イスタンブールの喧騒とはまったく異なる、静謐で神秘的な空間で、短い時間でしたが悠久の歴史に包まれる特別な体験となりました。 旅程 ホテル ↓(徒歩) 地下宮殿 ↓(徒歩) トプカプ宮殿 ↓(徒歩) Sırkecı駅 ↓(路面電車) (略) Karaköy駅 ↓(徒歩) ガラタ塔 ↓(徒歩) Karaköy駅 ↓(路面電車) Sırkecı駅 ↓(路面電車) ホテル 周辺のスポット アヤソフィア(ハギア・ソフィア) トプカプ宮殿 スルタンアフメト・モスク 地域の名物 シシケバブ ドネルケバブ リンク イスタンブールの地下宮殿「バシリカ・シスタン」|おすすめトルコ観光地BEST20 | トルコ旅行・トルコツアー おすすめプラン満載の【ターキッシュエア&トラベル】

アヤソフィア(ハギア・ソフィア):時を超えて輝くトルコの宝物、キリスト教とイスラム教が織りなす奇跡の空間

トルコにイスタンブール観光に来ました。お昼過ぎにホテルに着き、街を軽く歩いた後、世界遺産のアヤソフィア(ハギア・ソフィア)が夜も入場可能だったので、見に行くことにしました。 トルコ・イスタンブールの象徴的な建築物、アヤソフィアをご存知でしょうか。アヤソフィアはギリシア語で「聖なる叡智」を意味し、歴史的にも文化的にも非常に重要な建物として知られています。 アヤソフィアの起源は東ローマ帝国(ビザンツ帝国/ビザンティン帝国)の時代にさかのぼります。最初の建物は360年頃にキリスト教の大聖堂として建設されましたが、火災によって失われました。その後、537年にユスティニアヌス1世によって壮麗な大教会として再建され、当時としては驚異的な建築技術を駆使した巨大なドームが特徴となりました。そのドームは直径約33メートル、高さは約55メートルもあり、現代でも見る人を圧倒します。 1453年にオスマン帝国がコンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を征服すると、アヤソフィアはモスクに改修されました。その際にミナレット(尖塔)や、イスラム教の礼拝方向を示すミフラーブなどが追加され、キリスト教時代のモザイク画の多くは塗りつぶされるか覆われることになりました。 トルコ共和国の建国者ケマル・アタテュルクの指導のもと、1935年にアヤソフィアは博物館となりました。これにより、キリスト教とイスラム教の両方の歴史を示す貴重な遺産が公開され、多くの人々に愛されるようになりました。 しかし近年の2020年、アヤソフィアは再びモスクとして使用されることになりました。現在は礼拝所として使われていますが、観光客も自由に見学できるため、歴史的なモザイク画や美しい内装を引き続き楽しむことができます。 1985年には、アヤソフィアを含むイスタンブール歴史地域がユネスコ世界遺産に登録されています。長い歴史の中でさまざまな文化と宗教が融合したこの建物は、トルコを訪れる際にはぜひ訪れてほしいスポットの一つです。その美しさと奥深い歴史に、きっと心を奪われることでしょう。 コンスタンティノープル コンスタンティノープルという名前を聞くと、多くの方は歴史の教科書に登場する東ローマ帝国の首都というイメージを思い浮かべるかもしれません。しかし、その実像は単なる「帝国の首都」という枠に収まらない、地中海世界とユーラシアをつなぐ壮...

Sidi Mahrez Mosque:黒ずみも美しい、歴史が息づく丸屋根群

チュニス旧市街の北側を歩いていると、夕方のやわらかな光に浮かび上がる白いドーム群が見えてきました。いくつもの小さな丸屋根に抱かれるように、中央の大きなドームが鎮座し、遠目にも独特の量感があります。近づいて見上げると、白地の漆喰にところどころ年季の黒ずみが混じり、磨かれた宝物というより、長い時間を住民とともに生きてきた建築だと感じられます。カルタゴ遺跡を巡った同日の締めくくりに、この空気感はとても印象的でした。 このモスクは一般にシディ・マフレズ・モスク(Sidi Mahrez Mosque)として知られ、ムラーディー朝のベイ、ムハンマド・ベイ・エル=ムラーディーの時代に1692年から1697年にかけて建てられたとされます。オスマン帝国期の影響が色濃く、中央ドームを四つの半ドームで受け、その四隅をさらに小ドームが支えるという、外観が段状のドームの集まりに見える構成が特徴です。白く連なる丸屋根の連なりは、旧市街の屋根並みからぽっかりと浮かび上がるランドマークで、チュニスでも屈指のオスマン風モスクとして言及されます。 モスクの名は、10〜11世紀に生き、チュニスの守護聖とも呼ばれる法学者シディ・マフレズ(マフレズ・ベン・ハラフ)に由来します。彼はアリアナの出身で、後年バブ・スイカ地区に住し、その住まいが後に霊廟(ザウィーヤ)となりました。寛容と信仰で知られた人物で、チュニスの記憶の中で今も敬われています。モスク自体は近世の建立ですが、この聖者への敬意が都市の精神史に長く根を張り、礼拝の場の重みをいっそう深めているように感じます。 旧市街(メディナ)は1979年にユネスコ世界遺産に登録され、数百に及ぶモスクや宮殿、霊廟が折り重なる文化景観を成しています。シディ・マフレズ・モスクの白いドーム群は、その重層的な町並みの中で光と影を受け止める器のように存在し、午後の傾いた日差しを浴びると、表面の小さな凹凸や古い手仕事の痕跡まで浮かび上がって見えました。白一色の潔さのなかに、長年の風雨が刻んだ陰影が潜んでいて、写真で見た“まぶしい白”よりもずっと、時間の厚みをまとった白さです。 この日は北側のモスクをいくつか巡ってからここに至り、外から一巡して佇まいを味わいました。中央ドームを取り巻く小ドームのリズム、外壁の控えめな装飾、そして周囲の生活の気配が、礼拝空間を町に溶かし込んでいます。...

Saheb Ettabaâ Mosque:迷宮の街の目印、白い大理石がまぶしい午後

午後のチュニスの旧市街は、午前中のカルタゴ遺跡の余韻を連れて静かに熱を帯びていました。北側の路地を抜けていくと、瓦屋根の海の向こうに、ひときわ背の高いミナレット(尖塔)が空に線を引きます。 目印のように堂々と立つその塔を追うように歩みを進めると、白い大理石が光をはね返し、思わず「新築ですか」と錯覚するほど端正な佇まいのモスクに行き当たりました。あとで調べると、ここは19世紀初頭に宰相ユースフ・サーヒブ・アッタバの名を冠して建てられ、1808年に着工、1814年に完成した歴史ある礼拝堂でした。 一帯はハルファウィーン(Halfaouine)地区。モスク単体ではなく、同時期にバザールやハンマーム、二つのマドラサ、公共泉(サビール)、隊商宿(フンドゥク)、さらにサーヒブ・アッタバの宮殿や廟までを含む複合施設として整えられたことが、この場所の独特の気配を作っています。列柱のフルーテッドや彩色大理石のヴェニアなどにはイタリア趣味の意匠が濃く、建設には当時の工匠ハッジ・サッシ(サッシ・ベン・フリージャ)が関わり、地中海で拿捕されたイタリア人捕虜の労働力も投じられたという背景が、石の肌合いにまで物語を刻んでいました。 遠目に私を導いたミナレットは八角形で、実は長らく未完のまま時を過ごし、1970年の修復で現在の姿に整えられたそうです。塔の上に載った小さなランタンまで含めて線が細く、しかし視線をさらう凛とした立ち上がりは、迷宮のような旧市街で方向感覚を取り戻させてくれる頼もしさがありました。 門に足を踏み入れると、回廊の影が涼しく、白と薄茶の大理石が幾何学の秩序で連なります。礼拝堂の天蓋から下がる装飾灯が静かに揺れ、人々の出入りに合わせて床石の冷たさがほんの少しだけ柔らぎます。数時間前に見たカルタゴの廃墟は「時間の断片」、ここは暮らしの中に生きる「時間の継続」。約200年という数字は、磨かれ続けた大理石の光沢の前ではただの通過点に過ぎないのだと感じました。 このモスクは、フランス保護領成立(1881年)以前にチュニスで築かれた「最後の大モスク」とされ、いまは歴史的記念物として守られています。旅人の目には新しいとさえ映る美しさの裏側に、権勢を誇った宰相の構想、地中海世界の交流と軋轢、そして祈りの営みが幾層にも重なっている――そんなことを思いながら、私は再びミナレットを振り返り、旧市街...