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粟島神社:池袋のビルの谷間、イケとフクロウ

豊島区の小さな粟島神社(あわしまじんじゃ)を訪ねました。 境内はこぢんまりとしていますが、まず目に入ったのは清らかな水をたたえる池でした。案内によれば自然の湧き水で満たされているとのことで、武蔵野台地の縁に点在する湧水の名残が、町なかの祈りの場にそっと息づいているのだと実感します。ビルの谷間で水面が風にさざめくさまを眺めていると、時間がふっと緩むようでした。 社名の「淡島(粟島)」は、和歌山・加太の淡嶋神社に源流を持つ淡島信仰に通じ、女性の守護や病の平癒に霊験があるとして江戸でも勧請が広がったと伝えられます。小社ながらも、旅の安全と日々の無事を祈る人々の気持ちが積み重なってきたのでしょう。本殿に手を合わせると、境内の静けさが一層深く感じられました。 ふと見ると、フクロウの石像がこちらを見守っていました。池袋界隈でフクロウ像をよく見かけるのは、地名の「池袋」と「ふくろう(梟)」の語呂合わせから生まれた街のシンボルゆえです。駅構内の「いけふくろう」をはじめ、商店街の装飾やベンチ、モニュメントまで幅広く用いられ、〈福が来る〉〈不苦労〉といった当て字の縁起も手伝って、地域の親しみやすい守り神のような存在になっています。粟島神社のフクロウも、そんな街の文脈の中で、湧水の池とともに訪れる人をやさしく迎えているのだと感じました。 参拝を終えて振り返ると、水面に揺れる木々の影が印象に残りました。都市の喧噪から一歩離れ、湧き水と小さな社に守られた空間に立つと、江戸からつづく信仰の糸が現在の日常へと静かにつながっていることに気づきます。次に訪れるときは、季節を変えてこの池の表情をもう一度見てみたいと思いました。 旅程 椎名町駅 ↓(徒歩) 粟島神社 ↓(徒歩) 椎名町駅 周辺のスポット 豊島区立熊谷守一美術館 リンク 粟島神社|2022年7月16日|出没!アド街ック天国:テレビ東京

小平ふるさと村:グリーンロードの先の、水車がゆっくり回る、静かな歴史散歩

スクーターを小平駅で駐車し、青々とした小平グリーンロードを歩くと、街の喧騒から少しずつ離れていく感覚がありました。その先に現れるのが、小平ふるさと村です。この施設は、小平市の歴史や人々の暮らしを今に伝える屋外博物館として整備されています。本日は、よく晴れた日で、初夏の日差しが木々の緑をいっそう鮮やかに照らしていました。 門をくぐると、まず目を引いたのは茅葺屋根の大きな住宅です。江戸時代から明治時代にかけてこの地域で暮らしていた人々の家がそのまま移築されており、現代の住宅とは異なる素朴な造りや、土間、囲炉裏など、昔の暮らしの息遣いを感じることができました。屋根の大きな茅葺は、夏の強い日差しを和らげ、冬の寒さも防ぐ、昔の知恵が詰まったものであることを改めて実感します。 また、旧小平小川郵便局舎も見学しました。1908年(明治41年)に建てられた木造の郵便局舎は、現代の建物とはまるで雰囲気が違います。温もりのある木の壁や小さな窓など、かつての郵便局の様子がそのまま残されていて、地域の人々がここに集い、手紙をやりとりしていた様子が目に浮かぶようでした。 さらに敷地内には水車もありました。実際に水が流れ、木の歯車がゆっくりと回っている様子は、都会にいることを忘れさせてくれます。水車は昔の農業や製粉に欠かせないものでしたが、今やこうして動いている姿を見るだけでもどこか懐かしい気持ちになります。 現在は新型コロナウイルスの影響で、ふだん体験できる昔のおもちゃや生活道具に触れるコーナーは中止されていましたが、普段であれば子どもたちが昔遊びや木工体験など、歴史を肌で感じるプログラムも楽しめるそうです。こうした体験が再開されたときには、家族でのんびりと過ごすのにもぴったりの場所だと思います。 小平ふるさと村を歩いていると、近代から現代にかけての変化の大きさや、地域の人々が大切にしてきた暮らしの知恵に気づかされます。日常から少し離れて、過去に思いを馳せるひとときは、とても贅沢な時間でした。 旅程 東京 ↓(スクーター) 小平駅 ↓(徒歩) 小平ふるさと村 ↓(徒歩) 小平駅 関連イベント 周辺のスポット 江戸東京たてもの園 地域の名物 関連スポット リンク 小平ふるさと村 小平ふるさと村|東京都小平市公式ホームページ 小平ふるさと村/東京の観光公式サイトGO TOKYO 小平ふるさと村で...

穴八幡宮:朱の門、黒の殿、江戸の余韻

新宿区の高台に鎮座する穴八幡宮(あなはちまんぐう)にお参りしました。正面の大鳥居をくぐると、まず目に飛び込んでくるのは鮮烈な朱の隋神門です。軒の組物まで丹塗りが映え、石段を上がるほどに境内の空気が澄んでいくのを感じました。門を抜けると正面に黒塗りの拝殿が構え、落ち着いた艶のある黒と白木の対比が、静かな威厳を漂わせています。ここで一礼し、ゆっくりと参拝を済ませました。隋神門は江戸後期の建立で、戦災後に再建されたものだそうで、鮮やかな色合いの背景にそんな歴史も重なって見えます。 由緒に触れておくと、この神社は康平五年(1062)に源義家が凱旋の折、兜と太刀を納めて八幡神を祀ったのがはじまりと伝わります。のちに南側の山裾を切り開いた際、横穴から御神像が現れたという出来事にちなみ「穴八幡宮」と称されるようになりました。江戸時代には徳川家光の耳にも達し、江戸城北の総鎮護として崇敬を受け、将軍家ゆかりの行事として流鏑馬も奉納されています。境内に立つと、早稲田の街中でありながら、こうした歴史の層が静かに息づいているのを感じます。 拝殿脇を巡ると、鼓楼が目を引きました。上部の朱と下部の黒がきりりと締まり、太鼓を納める楼らしい端正さがあります。例大祭や大晦日に太鼓が鳴ると聞くと、杉木立にひびく音を想像してみたくなります。 さらに境内奥には「神武天皇陵遥拝所」の石碑が立ち、遠く奈良の橿原にある御陵へ心を向けるための場として静かに据えられていました。都市の真ん中で、大和へと視線が伸びる不思議な感覚を味わいます。 この神社といえば、冬至から節分のあいだだけ授与される「一陽来復」の御守もよく知られています。復活と転機を象徴する言葉になぞらえ、家々の恵方に貼って祀る独特の作法が受け継がれてきました。金銀融通の御守とも呼ばれ、季節が巡る時節の信仰を今に伝えています。 参拝後は隋神門を振り返り、朱と黒の濃淡のなかに江戸と近現代の記憶が重なる姿をしばし眺めました。門前の喧騒から一段上がっただけで、時間の速度が変わる——そんな感覚を与えてくれる場所でした。 旅程 家 ↓(徒歩) 肥後細川庭園 ↓(徒歩) 関口芭蕉庵 ↓(徒歩) 穴八幡宮 ↓(徒歩) 戸山公園 ↓(徒歩) 家 関連イベント 周辺のスポット 早稲田大学歴史館 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館 戸山公園 地域の名物 関連スポット リンク 牛...

肥後細川庭園:江戸の風情が薫る緑の回遊路

昼の散歩に肥後細川庭園(ひごほそかわていえん)に行ってきました。 肥後細川庭園は、もともと新江戸川公園という名前だったのを2017年に改名しました。 肥後細川庭園は、江戸時代の終わりごろに肥後国(ひごのくに、現在の熊本県)の細川家の下屋敷の一つとなりました。 明治時代になると、細川家の本邸となりました。 1960年に東京都が購入し、1975年に文京区に移管されました。 肥後細川庭園は、回遊式泉水庭園で、中心の大きな池の周辺を歩きながら(回遊)、庭の景色を楽しむことができます。園内には、細川家ゆかりの銘花「肥後六花」のうち、肥後椿(ひごつばき)、肥後芍薬(ひごしゃくやく)、肥後花菖蒲(ひごはなしょうぶ)、肥後山茶花(ひごさざんか)が植えられています。「肥後六花」の残り2つは、肥後朝顔(ひごあさがお)、肥後菊(ひごぎく)です。 園内には、松聲閣(しょうせいかく)と呼ばれる建物があります。 松聲閣は、明治時代に細川家の学問所として建設されました。その後、大正時代に大改修が行われ、2階建てになり、一時期は細川家の住まいとしても使用されていました。現在の建物は、2016年(平成28年)に耐震補強されたものです。 旅程 家 ↓(徒歩) 肥後細川庭園 ↓(徒歩) 関口芭蕉庵 ↓(徒歩) 穴八幡宮 ↓(徒歩) 戸山公園 ↓(徒歩) 家 関連イベント 周辺のスポット 永青文庫 関口芭蕉庵 鳩山会館 地域の名物 関連スポット リンク 肥後細川庭園 | 文京区 肥後細川庭園 | 文京区 肥後細川庭園|一般財団法人 公園財団 肥後細川庭園 | 文京区観光協会

哲学堂公園:門をくぐれば、思索の旅が始まる、宇宙と真理の建築群

本日、東京都中野区にある哲学堂公園を訪れました。この日はよく晴れていて、冬の空気が澄んでおり、公園全体に静謐な雰囲気が漂っていました。 哲学堂公園は、明治時代の哲学者・井上円了(いのうえ えんりょう)によって「哲学を身近に感じてもらいたい」という願いのもとに作られた公園です。園内にはユニークな名前の建造物が点在しており、一つひとつに哲学的な意味や物語が込められています。私はまず、入口近くにそびえる「哲理門」をくぐりました。門をくぐると、日常の世界から一歩踏み出し、思索の空間に足を踏み入れたような気持ちになります。 園内を進むと、まるでお城のような外観の「絶対城」が現れます。この建物は、その名の通り「絶対」や「無限」といった大きな哲学的概念を象徴しているのでしょうか。建物の前に立つと、物事の根源や真理について考えるきっかけを与えてくれる気がしました。 さらに歩みを進めると、「四聖堂」が見えてきました。ここは、ソクラテス、カント、孔子、釈迦という東西の四大哲人を祀った場所です。和洋折衷の独特な建物を眺めていると、時代も場所も超えて人間が探求してきた「知」や「真理」のつながりを感じます。 池のほとりには「概念橋」が架かっていました。この橋を渡ると、考えや発想の世界がさらに広がるような気がします。公園の名前通り、歩くたびに「これはどういう意味なのだろう」「この建物の意図は?」と自然に自問自答が始まります。 また、「演繹観」や「宇宙館」といった建物も独特で、哲学堂ならではの非日常的な空気感を醸し出しています。それぞれの建物が、「演繹」や「宇宙」といった大きなテーマについて考えさせてくれる存在であり、散策しながら自分なりの思索を深めることができました。 哲学堂公園は、単なる公園ではなく、日常の喧騒を離れて思索にふけることのできる特別な場所です。冬の晴れた日に訪れることで、凛とした空気の中でゆっくりと自分の思考と向き合う時間を持つことができました。哲学に詳しくなくても、建物の名前や形、配置に触れるだけで自然と「考える」気持ちが芽生える場所です。都心の一角にある、静かな思索の庭をぜひまた訪れたいと思います。 現象と実在 私たちはふだん、「見えているものが、そのまま本当の姿だ」と思いがちです。しかし、ストローが水の中で折れているように見えたり、夕日が赤く見えたりするのは、実際の物体の...

トキワ荘:世代を越えて、ページはめくられる、四畳半に残るインクの匂い

豊島区にある再現施設のトキワ荘マンガミュージアムを訪ねました。冬の乾いた空気のなか、公園に足を踏み入れると、まず目に入るのは昭和の街角を思わせる電話ボックスや屋台の再現で、遠い時代の生活音まで聞こえてきそうでした。ミュージアム本体も、かつての木造アパートを忠実に蘇らせた造りで、外観からすでに時間旅行が始まっているように感じます。 館内に入ると、細い板張りの廊下と共同の台所、薄い壁の向こうに広がる四畳半――若い漫画家たちが暮らし、徹夜で原稿を仕上げ、互いに作品を見せ合っていた日々が、生活の手触りごと立ち上がってきます。ちゃぶ台にはペン先とインク、酒の空き瓶を花瓶代わりにした小さな一輪挿し。机上のライトは今も原稿を照らしているかのようで、紙の擦れる音や笑い声まで想像してしまいました。 展示では、当時の部屋の再現だけでなく、戦後から高度成長期にかけてのマンガ史が丁寧に辿られていました。昭和27年に建てられたトキワ荘には、のちに日本の大衆文化を形づくることになる若手が集い、互いの作品に意見をぶつけ合いながら切磋琢磨しました。貧しくも創造力に満ちた共同生活が、新しい表現の実験場となり、雑誌文化の発展とともに読者の裾野が一気に広がっていったことが、資料や誌面の変遷からもよく伝わってきます。老朽化で建物自体は解体されましたが、こうして再現された空間に立つと、失われたはずの時間が確かな重みを取り戻すのだと実感しました。 私は子どものころ『北斗の拳』や『ドラゴンボール』で育った世代です。展示されていた作品は少し前の世代の名作が中心で、実際には読んだことのないタイトルも多かったのですが、紙の匂いが残る雑誌の背や、手描きの線の勢いに触れるうち、少年誌が放つ高揚感が自分の記憶と自然に重なっていきました。作画机に置かれた道具やトーン、修正液の痕は、私が夢中になってページをめくった時代へと続く「はじまり」の証であり、世代をまたいで受け継がれる創作の系譜を目の前で確かめる体験でもありました。 見学を終えて外に出ると、電話ボックスのガラスに冬の日差しが反射していました。トキワ荘は単なる「伝説の建物」ではなく、互いに学び合い、挑み合うことで新しい価値を生み出した学びの共同体だったのだと改めて思います。作品は時代とともに変わりますが、創作の背骨にある情熱と対話は変わらない――そんな普遍性を、静かな部屋...

浅草神社:神仏習合の気配をたどる、にぎわいと静謐の境界線

浅草寺をお参りした帰り道、境内の喧噪がふっと途切れる角に、小ぶりで凛とした社殿が立っているのに気が付きました。浅草神社(あさくさじんじゃ)です。コロナ禍のさなかで人影の少ない午後、雷門から続くにぎわいを背に鳥居をくぐると、空気の密度が変わったように静けさが降りてきました。浅草寺の朱と賑わいに対して、こちらは落ち着いた朱色の色合いと陰影が印象的で、規模こそ大きくはありませんが、木鼻や軒まわりの細工に職人の呼吸が宿り、目を近づけるほど発見のある美しい社殿でした。 祀られているのは「三社様」と親しまれる三人、隅田川で観音像を引き上げた檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(ひのくまのたけなり)の兄弟と、その像を浅草で祀ることを勧めた土師真中知(はじのまなかち)です。628年(推古天皇36年)に始まるこの縁起は浅草寺の創建へとつながり、寺の成立に深く関わった人びとを神として祀るという、日本の宗教文化の特徴をよく物語っています。神道と仏教が長く影響し合い、重なり合ってきた「神仏習合」の記憶が、寺と社が並び立つこの配置に今も息づいているのだと実感しました。明治期の神仏分離で制度上は切り分けられましたが、浅草では日常の動線の中に両者が自然に共存し、街の信仰の層の厚さを感じさせます。 現在の社殿は江戸初期の1649年、三代将軍・徳川家光の命で造営されたものと伝わります。戦災をくぐり抜けて当時の姿を保った数少ない建物で、重要文化財にも指定されています。浅草寺本堂が近代に再建されたのに対し、浅草神社の社殿には江戸の空気がそのまま閉じ込められているようで、軒の反りや斗栱の組み方に、時代の美意識と技術の確かさを読み取ることができました。観光地の中心でありながら、歴史の厚みを静かにたたえる場所です。 例年5月の三社祭には、町々の神輿が威勢よく練り歩き、浅草一帯が熱を帯びます。私が訪れた日は、境内にその喧騒の記憶だけが残っているようで、控えめな鈴の音と砂利を踏む足音だけが耳に届きました。人の少ない社前で手を合わせていると、創建の伝承から江戸の繁栄、震災や戦災を経て現在に至るまで、この土地に寄せられてきた祈りの層が、静かに背中を押してくれるようでした。 浅草寺の大伽藍で「観る」感覚が満たされた後、浅草神社では「聴く」ように時を過ごしました。寺と社が隣り合い、互いの由緒が重なり合う浅草は、単なる観光...