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英雄広場(ブダペスト):アンドラーシ通りから始まる祝祭の音楽と馬車レース

ブダペストの英雄広場を訪れました。アンドラーシ通りを歩きながら広場を目指しました。周囲には朝の光が降り注ぎ、ブダペストの街並みはどこか高揚感に包まれていました。 広場に向かう前に、私はまず市民公園内のジャーキ礼拝堂とヴァイダフニャディ城を訪れました。ジャーキ礼拝堂は中世ゴシックの雰囲気を漂わせていて、静かな空気の中に佇むその姿は、まるで歴史の一部がそのまま残っているかのようでした。ヴァイダフニャディ城もまた、異国情緒あふれる建築で、湖に囲まれた姿が幻想的でした。 その後、英雄広場へと足を運ぶと、そこでは普段とは異なる熱気に満ちていました。どうやら何かのお祭りが開催されていたようで、アンドラーシ通りや公園、広場一帯がイベントで賑わい、人々の笑顔があふれていました。特に印象的だったのは、英雄広場に設けられた円形のコースで行われていた馬車――おそらく古代の戦車を模したものなのでしょう――によるレースでした。馬たちが力強く駆け、観客たちの歓声が響き渡り、祝祭の雰囲気を存分に味わうことができました。 そして、広場に響き渡っていたのは、ヨハネス・ブラームスの「ハンガリー舞曲第5番」。ハンガリーといえばやはりこの曲、というほど有名なメロディが会場全体を包み、現地の人々も外国からの観光客も一体となって楽しんでいる様子でした。この音楽が流れる中で英雄広場の中心に立ち、ミレニアム記念碑とその周囲を囲む英雄たちの像を眺めると、まさにハンガリーの歴史と文化が現代と響き合う瞬間に立ち会っているような気がしました。 英雄広場自体は、ハンガリー建国千年を記念して1896年に造られた象徴的な場所です。中央には、建国の父アルパードとマジャール七部族の首長たちが並び、半円状の回廊には歴代の王や偉人たちの像が誇らしげに立っています。この場所は、ハンガリーという国の誇りと記憶が結晶した空間であり、どの像にもそれぞれの物語と時代の息吹が込められていることを感じました。 祭りの華やかさと歴史的な荘厳さが調和した一日。晴れやかな空の下、英雄広場に響く音楽と、人々のにぎわい。そのすべてが、ブダペストという街の魅力を存分に伝えてくれる体験でした。またいつか、あの場所でハンガリーの風を感じたいと思います。 旅程 ホテル ↓(徒歩) ブダ城 ↓(徒歩) Budavári Evangélikus Templom és G...

市民公園(ブダペスト)/ ヴァイダフニャディ城 / Chapel of Ják:都会の森で出会う“歴史の見本帖”

アンドラーシ通りを歩いて市民公園へ向かいました。 並木の下には出店が並び、舞台や屋台の音が風に混じって届きます。途中で軍用車や戦車が展示されていて、アンテナを載せた車両の前には親子連れの行列ができていました。何の催しなのか分からないまま、そのにぎわいに背中を押されるように公園の奥へ進みました。 市民公園は、19世紀に沼地を整備して生まれたブダペスト最古級の公共の緑地で、1896年の建国千年祭には博覧会の舞台にもなりました。入り口側の英雄広場や、通りの地下を走るミレニアム地下鉄M1の存在が、その時代の熱気を今に伝えています。湖畔の遊歩道は穏やかで、夏は手こぎボート、冬はアイスリンクへと姿を変える水面が、季節ごとに公園の表情を塗り替えていくのだろうと想像しました。 水辺を巡ると、ヴァイダフニャディ城が木々の間から現れました。中世の古城のように見えますが、実は千年祭のために各時代のハンガリー建築様式を“見本帖”のように組み合わせて造られ、後に石造で恒久化された建物です。ロマネスク、ゴシック、ルネサンス、バロックが一つの輪郭に同居し、近くで眺めるほどに時代のレイヤーが積み重なっていることが分かります。内部には農業博物館が置かれていると知り、博覧会の記憶を今日に受け渡す役目を担っていることにも納得しました。 城の向かいに立つChapel of Ják(チャペル・オブ・ヤーク)は、13世紀のロマネスク聖堂で知られる西ハンガリーのヤーク修道院教会を模した礼拝堂です。分厚い柱頭や装飾の豊かなポータルが、褐色の石肌に陰影を刻んでいました。ちょうど新郎新婦がプロのカメラマンに写真を撮ってもらっていて、礼拝堂の前に広がる静かな時間と祝福の空気が、観光地の喧騒から切り取られた小さな舞台のように感じられました。 軍の展示と家族連れの笑い声、湖面のきらめきと石造建築の重みが、同じ公園の中で自然に混ざり合っていました。千年祭のために築かれた建物や地下鉄が今も市民の散歩道や憩いの場として機能していることに、ブダペストの時間の積み重ねの強さを思います。にぎわいの余韻を背に、夕方の光が城壁を黄金色に染めていくのを見届けてから、公園を後にしました。 旅程 ホテル ↓(徒歩) ブダ城 ↓(徒歩) Budavári Evangélikus Templom és Gyülekezet ↓(徒歩) (略) ↓(...

ドハーニ街シナゴーグ/ Raoul Wallenberg Holocaust Memorial Park:静かな庭に眠る祈りの木

ブダペストのドハーニ街シナゴーグを訪れました。 ブダペスト観光の2日目で、この日はブダ城から英雄広場へと向かう途中に立ち寄りました。街の中心部にありながら、ひときわ印象的な建物で、遠くからでもすぐにそれと分かる存在感がありました。 シナゴーグの外観は、黄金色のレンガを基調とした壁面に、先端が球形の双塔が立ち並ぶ独特のデザインでした。近づいてよく見ると、窓の柵にはダビデの星があしらわれており、ユダヤ教の象徴であることがすぐに分かりました。当時は、仏教やキリスト教以外の宗教施設に自由に入ってよいものか分からず、結局、中には入らず外観だけ見て立ち去ってしまいました。今思えば、内部には礼拝堂や博物館も併設されていたようで、せっかくの機会を逃したのは少し心残りです。 シナゴーグの庭には、ホロコーストの犠牲者を追悼する記念碑がありました。銀色の柳の形をしたモニュメントで、枝の一つひとつには犠牲者の名前が刻まれているといいます。静かな空気が流れ、歴史の重みを感じる場所でした。 ドハーニ街シナゴーグは、ヨーロッパ最大規模のユダヤ教礼拝堂として知られ、19世紀半ばに建設された歴史的建造物です。ブダペストの多様な文化や宗教が共存してきた歴史を象徴する場所でもあり、今では観光客にも広く開かれています。次に訪れる機会があれば、今度こそ中に入り、その空間の静けさと祈りの重みを感じてみたいと思いました。 トーラー トーラーという言葉を聞くと、多くの人は「旧約聖書の最初の五つの書物」というイメージを持つかもしれません。ユダヤ教の伝統では、それは単なる古い宗教書ではなく、世界の始まりから人間の歴史、掟、そして共同体の生き方を方向づける「教えそのもの」として、大切に読み継がれてきました。ここでは、その内容と成り立ち、さらにトーラーを取り巻くユダヤ教の学びの世界を、少しゆっくりめにたどってみたいと思います。 私たちがふつう「トーラー」と呼ぶとき、具体的には創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の五つの書物を指します。ヘブライ語では「モーセの五書」とまとめて呼ばれ、キリスト教世界では「ペンテチュ―ク(五巻)」とも言われます。創世記は天地創造から始まり、アブラハムやヤコブといった族長たちの物語を通じて、イスラエルという民がどのように形づくられるかを語ります。出エジプト記は、エジプトの奴隷状態からモー...

ブダ城:ドナウの丘に眠る王たちの記憶、ハンガリーの千年、戦火と再生の城

ハンガリーのブタペストに来ました。観光スポットのあちこちで「ハンガリー舞曲第5番」が流れていて、中世の建物群と相まって、世界中の人にとってハンガリーでイメージするのがこういう感じなんだなと妙に安心しました。二日目の本日は、まず鎖橋の西側のブタ地方から探索することにし、ブダ城を目指しました。 ブダペストを訪れるなら、誰もが一度は足を運びたくなるのが、ドナウ川の西岸にそびえるブダ城(Buda Castle)です。この壮麗な城は、まるでハンガリーの歴史そのものを象徴するかのように、丘の上に静かに佇んでいます。何世紀にもわたり王たちの居城として、また戦乱の舞台として栄枯盛衰を繰り返してきたこの城を訪れると、ただの観光地ではない重みを感じます。 その始まりは13世紀にさかのぼります。モンゴルの襲来に備えて、ベーラ4世が防衛のために築かせたのがこの城の前身でした。そして14世紀、神聖ローマ皇帝ジギスムントのもとで本格的な宮殿へと拡張され、やがてハンガリー王マーチャーシュ1世の治世において、ルネサンス文化の華を咲かせることになります。彼の治世下でブダ城はヨーロッパ随一の文化都市の中心となり、イタリアから芸術家や建築家が招かれて、ルネサンス様式の優雅な宮殿が築かれました。 しかしその栄光も長くは続きませんでした。16世紀のモハーチの戦いののち、オスマン帝国がブダを占領し、城は軍事施設として使われるようになります。この時期、かつての優雅な王宮は荒廃し、その後ハプスブルク家によって再び奪還されるまで、長い間その栄華を失っていました。 17世紀末、ブダがオスマン帝国から解放されると、ハプスブルク家は城をバロック様式で再建し、オーストリア=ハンガリー帝国時代には王権の象徴的存在として整えられていきました。しかし20世紀に入ると、新たな災厄が城を襲います。第二次世界大戦中、ドイツ軍とソ連軍の激戦に巻き込まれ、城は徹底的に破壊されてしまいました。 戦後の社会主義体制下で、ブダ城は再建されましたが、それは過去の王宮の精巧な再現というよりも、新しい時代にふさわしい文化施設としての再構築でした。現在では、ハンガリー国立美術館、ブダペスト歴史博物館、そしてセーチェーニ国立図書館が城内に設けられ、文化と学びの場として広く開放されています。 特に印象的なのは、美術館で目にするハンガリー近代の画家たちの作品...

レトナ公園:プラハの風が運ぶ静けさ、メトロノームが見つめる街

プラハ観光の二日目、旧市街地やプラハ城を歩き尽くしたあと、坂を下る前に立ち寄ったのがレトナ公園でした。プラハ城の北側に広がるこの公園は、街を見渡す丘の上にあり、風が心地よく通り抜ける静かな場所でした。 公園に入る少し手前には「クラマーシュ邸」と呼ばれる立派な建物がありました。調べてみると、これはチェコの首相公邸とのことです。門の向こうに邸宅が見えるほどの距離で、思いのほか開けた場所にあり、治安や安全面が少し気になるほどでしたが、それだけ治安の良い国なのかもしれません。 公園に入ると、太い木の枝に縄で吊られたブランコがあり、まるで絵本の一場面のようでした。実際に乗れるのかは分かりませんでしたが、西洋の童話に出てくるような雰囲気が漂っていて、石造りの街並みとはまた違った優しい空気が流れていました。 さらに進むと、広場のような場所に巨大なメトロノームが立っていました。高さ20メートルを超えるこのメトロノームは、かつてここにあったスターリン像の跡地に建てられたものだそうです。音楽の都プラハにふさわしいモチーフでありながら、時の流れや歴史の変化を象徴しているようにも感じました。 眼下には、ヴルタヴァ川と赤い屋根が連なるプラハの街が一望でき、夕暮れが少しずつ街を金色に染めていく光景は忘れられません。観光地としての華やかさだけでなく、歴史と日常が静かに交わる場所として、レトナ公園は印象に残るひとときでした。 旅程 (略) ↓(徒歩) クラム・ガラス宮殿 ↓(徒歩) Old Town Bridge Tower ↓(徒歩) カレル橋 ↓(徒歩) 聖ミクラーシュ教会(マラー・ストラナ) ↓(徒歩) プラハ城 ↓(徒歩) 聖ヴィート大聖堂 ↓(徒歩) レトナ公園 ↓(徒歩) ホテル 周辺のスポット プラハ城 国立技術博物館 ルドルフィヌム 旧ユダヤ人墓地 Spanish Synagogue リンク Letná Park | Avantgarde Prague Letenské sady in Prague | VisitCzechia Kramář Villa | Prague City Tourism

聖ヴィート大聖堂:ゴシックの極致、プラハの空にそびえる祈りの塔

プラハ城の敷地内の聖ヴィート大聖堂(Katedrála svatého Víta)に向かいました。 聖ヴィート大聖堂は、ゴシック建築の傑作で、チェコ最大のカトリック大聖堂です。プラハ城の中に位置し、何世紀にもわたってチェコ王やボヘミア王国の重要な儀式、例えば戴冠式や王族の葬儀が行われてきました。 925年、聖ヴィート大聖堂が建設される以前、プラハ城内に、聖ヴァーツラフ(ボヘミア公のヴァーツラフ1世、チェコの守護聖人)の指示で小さなロマネスク様式の礼拝堂が建てられました。これが聖ヴィートに捧げられた建物の原点です。 929年、この礼拝堂は聖ヴィートに献納されました。当時、聖ヴィートは神聖ローマ帝国において重要な聖人であり、チェコの君主たちにとっても信仰の象徴でした。 1060年、スピチフニェフ2世がロマネスク様式の大聖堂を建設しました。この時期には既に、プラハ城がチェコの政治的中心地として重要な地位を占めていました。 1344年、プラハが司教区から大司教区に昇格したのを機に、神聖ローマ皇帝カール4世(当時ボヘミア王、カレル1世)は、より壮大な大聖堂の建設を決定します。これが現在のゴシック様式の聖ヴィート大聖堂の建設の始まりです。カール4世はプラハを神聖ローマ帝国の首都にするため、フランスやドイツのゴシック大聖堂に匹敵する壮大な教会を望みました。 1344年当初は、フランス人建築家マティアス・アラスが建設を監督し、最初の計画を立案しました。彼はフランスのゴシック様式に影響を受けた設計を行い、特に西側のファサードと高いアーチ天井の部分にそのスタイルが反映されています。 マティアス・アラスが1352年に亡くなると、ペトル・パルレーが建設を引き継ぎました。パルレーは大胆で独創的なデザインを導入し、大聖堂の建築スタイルにさらなる深みを与えました。彼は、特に装飾的な細部や彫刻において独自のスタイルを反映させ、また、天井や窓のデザインをより複雑で豪華なものにしました。彼の影響は聖ヴァーツラフ礼拝堂や中央塔などに見られます。 15世紀は、フス戦争(1419年–1434年)によって、チェコ国内が宗教的対立に揺れ、大聖堂の建設は一時中断しました。戦争により財政が悪化し、建設は事実上止まってしまいました。 16世紀~17世紀、ルネサンス様式やバロック様式が支配的になった時代に、大聖堂の修復...

プラハ城:城の石畳に刻まれたボヘミアの記憶、プラハの丘から千年の記憶を見下ろす

午前中は旧市街を探索し、カレル橋を渡ってプラハ城に来ました。 プラハの丘の上に静かにたたずむプラハ城は、ただの城というにはあまりにも豊かで、あまりにも深い歴史の層を抱えています。ヴルタヴァ川の西岸から旧市街を見下ろすその姿は、まるでプラハという都市の記憶そのものを体現しているかのようです。 この城の起源は9世紀後半にさかのぼります。ボヘミア公ボジヴォイ1世が築いた小さな要塞が始まりでしたが、それはやがて中欧の歴史の大舞台へとつながる大城郭へと成長していきます。中世にはボヘミア王国の中枢として、さらには神聖ローマ帝国の皇帝たちの居城としても用いられました。14世紀にはカール4世がゴシック様式の拡張を命じ、文化と政治の一大拠点としてその姿を整えていきます。 なかでもひときわ目を引くのが、聖ヴィート大聖堂です。その尖塔は遠くからでもよく見え、ゴシック建築の粋を集めた荘厳な姿は訪れる者を圧倒します。チェコの守護聖人ヴァーツラフに捧げられたこの聖堂では、歴代の王たちが戴冠式を行い、そして眠りにつきました。ステンドグラスの光が差し込む礼拝堂では、まるで時が止まっているかのような静けさが広がります。 一方、旧王宮に足を踏み入れると、ルネサンス期のヴラジスラフ・ホールが迎えてくれます。その広大な空間は、かつて騎馬試合が催され、王の権威と栄光が讃えられた場所です。ここから続く聖イジー教会では、さらに時を遡ったロマネスク建築がひっそりとその存在を示しています。赤いファサードと丸いアーチが特徴的なこの教会は、現在では国立美術館の分館として静かな芸術の空間となっています。 そして訪れる人々が心惹かれるのが、黄金小路です。小さなカラフルな家々が並ぶこの通りは、まるでおとぎ話の世界に迷い込んだかのような不思議な空気に包まれています。かつて錬金術師や城の衛兵が住んでいたという伝説もあり、20世紀初頭には作家フランツ・カフカが一時この地に住んでいたことでも知られています。 旧市街地のカフカ像 黄金小路の拷問器具博物館では、華やかなプラハ城の別の側面も見ることができます。 今日のプラハ城は、単なる過去の記憶にとどまらず、チェコ共和国の現在とも結びついています。城内には大統領府があり、衛兵交代式が厳かに行われ、国の中枢としての役割を今なお担っています。また、城のテラスから見下ろすプラハの街並みは、赤い...