小田原の町に着いたのは、箱根の山並みを越えてきた午後2時ごろでした。雲ひとつない冬晴れで、空の青さが石垣の白と松の緑をくっきりと縁取り、歩いているだけで気持ちが軽くなるような日でした。
南側から城址公園に入り、まずは復元された銅門をくぐります。扉金具の意匠や枡形の空間がきりっと引き締まっていて、門を抜ける瞬間に「城内へ踏み入れる」という感覚が一段深まります。今回は時間の都合でNINJA館やSAMURAI館は見送り、まっすぐ天守閣を目指しました。
天守前の広場に出ると、視界が一気に開け、白壁と黒い下見板をまとった天守が空に浮かぶように立っていました。広場のゆったりとした余白が、建物のプロポーションとよく合い、写真を撮るにも全体を眺めるにも心地よい距離感です。ここでしばらく天守の各層の重なりや破風の形を眺め、石垣の積み方にも目を凝らしました。野面積みが残る箇所や打ち込み接ぎの面など、時代や改修の痕跡が折り重なって見えてくるのが興味深いところです。
小田原城といえば、戦国末期に関東を治めた北条氏の本拠として知られます。とりわけ豊臣秀吉の小田原攻めは、広大な総構(そうがまえ)をめぐる天下分け目の大包囲として語られてきました。城下町を丸ごと取り込むように張り巡らされた外郭は、単なる“城”の防備を超えた「地域の守り」の発想を感じさせます。やがて江戸時代に入ると小田原は東海道の要衝として整えられ、参勤交代の行き交う町の顔も持つようになりました。明治以降、多くの城と同様に天守は失われましたが、現在の天守は昭和期に外観復元され、展示も改められて近年さらに見やすくなっています。過去の機能をいまの学びへつなぐ“器”としての役割を果たしているのだと感じます。
天守の階段を上り、最上階の展望へ出ると、冬の澄んだ空気が遠景までをくっきり見せてくれました。眼下に広がる城下の街並み、その向こうにひろがる相模湾のきらめき、ふり返れば箱根の稜線。戦の時代にここから物見をした人々は何を思ったのか、そして平和な観光地となった今、海と山に抱かれたこの地の地理的な恵みがどれほど大きいかを実感します。風に当たりながら、総構の外へと広がっていたかつての防御線のスケールを頭の中でなぞってみると、城が“点”ではなく“面”であり、暮らしと不可分だったことがすっと腑に落ちました。
下城の道すがら、小田原市郷土文化館に立ち寄りました。城の物語を地域の暮らしや産業、風土へと引き延ばして見せてくれる場所で、漁業と交易、東海道の往来、近代の観光の展開などがつながっていきます。天守で見た“権力と防御”の歴史に、“生業と日常”の歴史が重なり、城は単体のモニュメントから、町全体の記憶を束ねるハブへと像を変えました。こうして視点が増えると、石垣一つ、門一つを見る目にも厚みが出てくる気がします。
帰りは馬出門から外へ。文字どおり兵を“打って出る”ための前庭状の構えは、攻守の転換点を象徴する空間です。いまは人々が行き交い、子どもたちが駆ける穏やかな門前ですが、構造の意味を知ると、足元の曲線や土塁の起伏が生き生きと語りはじめます。夕方の陽が石垣の目地を際立たせ、通り抜ける風が冷たくなってきたので、小田原駅へ歩を進めました。
三島から箱根、小田原へとつないだ一日の終わりに、小田原城は“地域を丸ごと包み込む城”という姿を改めて教えてくれました。天守からの眺めに胸をすくませ、門や石垣に手触りを感じ、郷土の展示で暮らしの時間に触れる。歴史の知識は、こうした体験と重なることで立体になります。晴天の冬の日に恵まれたことも相まって、過去と現在が澄んだ空気のように重なり合う、気持ちのよい訪問になりました。
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