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神田神社(神田明神):茅の輪をくぐる、夕暮れの朱色に心癒やされて

 晴れやかな日の夕方、神田明神を訪れました。最初に湯島聖堂を歩いたあと、そのまま足を延ばし、賑わいを見せる神田明神へと向かいました。 表参道に立つ隨神門をくぐると、鮮やかな朱色の社殿が目の前に現れ、心が引き締まるような気持ちになります。 ちょうど境内では茅の輪(ちのわ)が設けられていて、私もその輪をくぐり、無病息災を願いました。茅の輪くぐりは日本各地の神社で見られる古くからの風習で、夏越しの祓と呼ばれ、半年分の穢れを落とすために多くの参拝者がこの時期訪れます。 神田明神の本殿は、江戸時代から続く壮麗な建築で知られ、都心の喧騒のなかにあっても神聖な空気が流れています。ご祭神には大己貴命、少彦名命、平将門命が祀られており、江戸の総鎮守として今も多くの人々に親しまれています。境内を歩くと、獅子山の威厳ある姿や、銭形平次の碑など、さまざまな見どころが点在していることに気づきます。銭形平次の碑は、時代小説やテレビドラマで知られる架空の岡っ引きですが、神田明神を舞台に多くの物語が生まれたことを感じさせてくれます。 夕方に到着したため、神田明神資料館は残念ながら閉館していましたが、また次の機会に訪れたいと思います。境内を歩きながら、江戸時代から続く神社の歴史や、四季折々の行事に思いを馳せ、日常のなかでふと立ち寄れる場所としての神田明神の魅力をあらためて感じました。 旅程 御茶ノ水駅 ↓(徒歩) 湯島聖堂 ↓(徒歩) 神田神社(神田明神) ↓(徒歩) 本郷三丁目駅 関連イベント 周辺のスポット 湯島聖堂 地域の名物 関連スポット リンク Home|江戸総鎮守 神田明神 神田神社【神田明神】 - 東京十社めぐり 神田神社(神田明神)(スポット紹介)|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda

湯島聖堂:孔子の教えに触れる東京散歩、哲人たちの面影をたどる

本日は、澄み渡る青空の下、湯島聖堂(ゆしませいどう)を訪れました。 御茶ノ水駅から歩みを進めると、正門とは反対側の西門にたどり着きました。そこから杏壇門をくぐると、静謐な前庭が広がっており、歴史ある聖堂の雰囲気に自然と気持ちが引き締まります。 前庭の一角には、以前足利学校で目にした「宥座の器(ゆうざのき)」が据えられており、儒教の知恵や象徴に改めて触れることができました。 湯島聖堂は、江戸時代初期に徳川五代将軍綱吉が建てた孔子廟として知られています。日本の儒学振興の拠点として位置づけられ、後には昌平坂学問所が設けられたことから、多くの学者や文人がこの地で学びを深めてきました。 大成殿に入ると、正面には威厳ある孔子像が鎮座し、その周囲には孟子、曾子、顔子、子思の像も並んでいます。また、十哲の名が記された札や、歴代の賢儒の図像など、学問と徳を重んじる儒教の精神を今に伝える展示が印象的でした。 帰り道は、表門へと向かって進みました。道すがら、秋に黄色く色づくことで知られる楷樹(カイノキ)や、堂々たる孔子銅像が目を引きます。 歴史の中で何度も火災や再建を経てきた湯島聖堂ですが、現在も静かに訪れる人を迎え、学問の神聖な空気を湛えています。仰高門をくぐり、荘厳な正門を抜けて外に出ると、都心の喧騒が一気に戻ってきました。 この後は、歴史と学問の空気に包まれた余韻を感じながら、ほど近い神田明神へと足を延ばしました。湯島聖堂の凛とした空間は、現代の私たちにも思索や学びの大切さを静かに語りかけてくれます。 旅程 御茶ノ水駅 ↓(徒歩) 湯島聖堂 ↓(徒歩) 神田神社(神田明神) ↓(徒歩) 本郷三丁目駅 関連イベント 周辺のスポット 神田神社(神田明神) 地域の名物 関連スポット リンク 史跡湯島聖堂|公益財団法人斯文会 史跡湯島聖堂 | 文京区観光協会 湯島聖堂(ゆしませいどう) | 文京区 湯島聖堂(スポット紹介)|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda

渋沢史料館:教育と福祉にも心を注いだ日本資本主義の父の軌跡

晴れ渡る空の下、東京都北区にある渋沢史料館を訪れました。以前、同じ飛鳥山公園内の紙の博物館や北区飛鳥山博物館は足を運んだことがありましたが、その時は渋沢栄一の大河ドラマが放送中で、しかもコロナ禍だったため予約が必須となり、見学は叶いませんでした。以来、いつか訪れたいと心に残っていた場所でした。 今回ようやくその念願が叶い、渋沢史料館の門をくぐることができました。あいにく企画展示は開催されていませんでしたが、常設展だけでも十分に見応えがありました。館内には渋沢栄一の生涯が、1年ごとにまとめられた91枚のパネルで丁寧に紹介されていました。彼の歩んだ軌跡を、年表ではなく一つひとつの「年」として追体験できるのは新鮮な体験でした。 渋沢栄一といえば、日本資本主義の父と呼ばれるほどの実業家としての顔が有名です。しかし、展示を読み進めるうちに、彼が経済界だけでなく教育や福祉の分野でも大きな功績を残していたことに改めて驚かされました。例えば、学校の設立や養育院の運営に携わるなど、社会を広く見渡し、未来を見据えた活動に尽力していたことが印象に残ります。 史料館の見学を終えた後は、同じチケットで入場できる青淵文庫と晩香廬にも立ち寄りました。青淵文庫は、重厚な建物の中に差し込むステンドグラスが美しく、静かな光に包まれて、当時の知の薫りを感じることができました。 一方、晩香廬では復元されたカーテンも見応えがありましたが、特に目を奪われたのは温かみを感じさせる暖炉でした。洋館の雰囲気の中にある暖炉は、渋沢が過ごした静かな時間を想像させてくれます。 飛鳥山の豊かな緑の中で、渋沢栄一の人生と、その志の広がりに思いを馳せる一日となりました。ビジネスだけでは語りきれない彼の人物像や社会貢献の精神に触れ、また新しい視点から歴史を感じることができました。再びこの場所を訪れる日が楽しみです。 旅程 王子駅 ↓(徒歩) 渋沢史料館 ↓(徒歩) 王子駅 周辺のスポット 北区飛鳥山博物館 紙の博物館 お札と切手の博物館 旧古河庭園 リンク 渋沢史料館|公益財団法人 渋沢栄一記念財団 渋沢史料館 | 飛鳥山3つの博物館 渋沢史料館/東京の観光公式サイトGO TOKYO

日本銀行金融研究所 貨幣博物館:銭から紙幣へ、めぐる日本の通貨物語

 曇りがちな空に雨の気配が漂うある日、午前中は靖国神社と遊就館をめぐり、将門塚に立ち寄ったのち、午後は日本橋の日本銀行金融研究所 貨幣博物館(かへいはくぶつかん)を訪れました。東京の中心にありながら、静けさと重みを感じさせるこの博物館は、まるでお金の歴史を通して日本の時間そのものを辿る場所のように感じられました。 貨幣博物館では、古代から現代にいたるまでの日本の貨幣の変遷を学ぶことができます。その背景には、単なる経済的な制度だけでなく、人々の暮らしや価値観の変化、国際情勢とのかかわりが色濃く映し出されていました。 古代の展示では、富本銭(ふほんせん)や和同開珎(わどうかいちん)といった初期の貨幣に加え、円形に方孔を持つ開元通宝(かいげんつうほう)などが紹介されていました。日本でも一時期は写経所(しゃきょうじょ)を中心とした国家的な宗教事業と結びつけて貨幣が使われましたが、しばしば「銭離れ」が起こり、米や絹といった実物財が交換の手段として重んじられる時期もあったようです。 中世に入ると、日本は自国で通貨を発行せず、主に中国の宋・元・明などの渡来銭が流通するという独特のスタイルが続きました。市の発達とともに有徳人と呼ばれる裕福な層が現れ、貨幣による商取引が活発になります。また、代銭納や撰銭といった制度も生まれ、徐々に「お金で納める」という発想が人々の生活に浸透していったようです。 そして、近世には徳川家康による貨幣の統一が大きな転換点となります。天正菱大判(てんしょうひしおおばん)や慶長小判といった金貨、銀貨が登場し、「金は天下のまわりもの」という言葉通り、貨幣が経済の血流として社会を循環していきました。石見銀山(いわみぎんざん)をはじめとする鉱山の開発は、この時代の経済活動を支えた柱の一つです。また、藩札や私札の発行、偽札防止の技術、両替屋の役割、さらには「付け払いや掛け払い」など、当時の人々のお金の使い方からも、今に通じる信頼や信用の基盤が築かれていく様子がうかがえました。 近代に入ると、金銀の流出や物価の高騰に悩まされつつ、円という新たな単位が誕生し、新貨条例が施行されます。開拓使兌換証券や政府紙幣の登場、西南戦争での紙幣乱発などを経て、日本銀行が設立され、やがて金本位制が導入されます。米騒動や金融恐慌、関東大震災といった社会の激動とともに、管理通貨制度へ...

将門塚:都会の真ん中で出会った千年の祈り、石碑の前で味わう“軽さ”と“重さ”

靖國神社を後にして貨幣博物館へ向かう途中、以前から気になっていた「将門塚」に立ち寄りました。曇天の昼下がりで、夕方には雨が降り出すという予報の日でしたが、塚の周囲は丁寧に清掃され、四季の花が静かに彩りを添えていました。都心の高層ビルに囲まれながらも、そこだけ時間が緩やかに流れているような空気が漂います。  将門塚は、平安時代中期に東国で反乱を起こした平将門の首が祀られていると伝わる場所です。940年(天慶三年)に討たれた将門の首は都へ運ばれ、晒された後に夜な夜な唸り声を上げながら東国へ飛び去った──そんな伝説が『将門記』などに描かれています。やがて首は現在の大手町付近に落ち、土地の人々が塚を築いて慰霊したのが始まりとされます。江戸時代には徳川幕府が塚の修復を命じ、関東大震災後や第二次世界大戦後にも復興が行われるなど、幾度となく整備されてきました。首都中枢の再開発が進む中でも「動かすと祟りがある」と恐れられ、ビルの設計を変更してまで保存を優先したという逸話も残っています。  私が訪れた時間帯には、海外からの旅行者と思しき人々が静かに列を作り、手を合わせていました。観光名所のひとつくらいの軽い気持ちで立ち寄った自分が、少し恥ずかしくなるほどの落ち着いた雰囲気です。近年は歴史や伝統行事を事前に学び、礼儀正しく振る舞う海外の方が増えていますが、その姿勢がこの小さな聖域にも表れていました。  塚の中心には将門の名を刻んだ石碑と賽銭箱が置かれ、周囲には案内板が控えめに立っています。賽銭を投じ、二拝二拍手一拝で祈りを捧げると、都会の喧騒が少し遠のくように感じられました。ビル風に揺れる木々の葉音、参拝者同士が自然に保つ距離感、それらが一体となって厳かな空気を醸し出しています。  将門塚を後にしながら、東京という巨大都市は多層的な歴史の上に立っていることを改めて実感しました。最先端のオフィス街に、千年以上前の戦乱と人々の祈りがひっそり息づいている──そのギャップこそが東京の魅力の一つなのでしょう。気軽に足を運べる立地でありながら、訪れる際には将門の物語と土地の人々が守り継いできた思いに敬意を払いたいと感じました。  雨雲の色が濃くなり始めた空を見上げつつ、次の目的地である貨幣博物館へと足を向けました。短い滞在でしたが、将門塚は雨が落ちる前のわずかな時間に静かで濃密な歴史体験を与えてく...

靖國神社/遊就館:戦争と記憶をめぐる静かな時間

本日、東京・九段にある靖国神社と併設の遊就館(ゆうしゅうかん)を訪れました。夕方から雨の予報ということもあり、空気はややひんやりとしていて、境内の木々にもどこか静けさが漂っていました。 まずは靖国神社を参拝しました。明治時代に東京招魂社として創建され、後に靖国神社と名を改めたこの場所には、戊辰戦争以降の戦争や事変で命を落とした人々が英霊として祀られています。社殿の奥には日本庭園があり、訪れる人の心を穏やかにさせてくれる佇まいを見せていました。 続いて、隣接する遊就館を見学しました。館内には戦国時代から近代にかけての武具や歴史資料が豊富に展示されており、特に目を引いたのは、靖国刀や庖丁政宗と伝えられる脇差、六連発火縄銃や南蛮筒といった火器、そして紅糸威の大鎧など、日本の武の美学と技術の粋を感じさせる品々でした。 展示はその後、幕末から明治維新、そして帝国日本の成立、対外戦争へと時代を追っていきます。ペリー来航やフェートン号事件、吉田松陰や坂本龍馬らの志士たちの紹介から始まり、五箇条の御誓文、徴兵制、富国強兵政策、そして日清・日露戦争へと続く流れは、近代国家としての日本の歩みを丁寧にたどるものでした。 さらに、大東亜戦争と呼ばれる第二次世界大戦期の展示では、戦闘機や潜水艦の実物大模型、特攻作戦に関する記録、戦地での生活を伝える品々が印象に残りました。館内には映像資料も多数あり、当時の社会の雰囲気や国民の意識を今に伝えようとしていることが感じられます。 一方で、展示の随所に、戦地で命を落とした人々を英霊として悼む姿勢が強く打ち出されており、それが見る者にさまざまな感情を呼び起こすことも確かです。こうした記憶の語り方や祀り方は、日本国内でも意見が分かれることがありますが、少なくともこの場所では、国家と個人の犠牲というテーマが、荘重な形式の中で表現されていました。 戦争の記憶をどう伝え、どう受け止めていくのかは、国や時代によってさまざまな形があるのだと、あらためて考えさせられる訪問でした。 旅程 市ケ谷駅 ↓(徒歩) 靖國神社/遊就館 ↓(徒歩) 将門塚 ↓(徒歩) 日本銀行金融研究所 貨幣博物館 ↓(徒歩) 東京駅 関連イベント 周辺のスポット 昭和館 皇居 江戸城跡 東京大神宮 東京国立近代美術館 地域の名物 関連スポット リンク 靖國神社 遊就館|靖國神社

玉川大学教育博物館:歴史の中の教室を歩く、教育をめぐるまなざし

今月から学芸員の勉強をするために玉川大学の通信教育課程に入学しました。本日、初めて玉川大学のキャンパスに足を運び、教育博物館を訪れました。キャンパスを訪れるのは初めてで、今後のオフラインスクーリングのためにキャンパスや周辺の店を見る目的もあり、胸が高鳴る思いでした。 博物館では、特に第一展示室の「教育史」に焦点を当てて見学しました。展示室に足を踏み入れると、縄文時代の勝坂式土器や古代遺跡の出土品が目に飛び込んできました。人類が文字を持つ以前から、技術や知識を伝えてきたことを物語る遺物に、教育の根源的な意味を感じます。 展示は江戸時代の教育へと進み、幕府の直轄機関である昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)や湯島聖堂(ゆしませいどう)が紹介されていました。儒学を中心とした学びが、武士たちの教養形成に大きな役割を果たしていたことがよくわかります。一方で、蘭学や国学も発展していたことから、当時の知識体系が意外にも多様だったことに驚かされました。 藩校の資料も豊富で、水戸藩の弘道館(こうどうかん)や庄内藩の致道館(ちどうかん)、津和野藩の養老館(ようろうかん)など、各地で特色ある教育が行われていたことが伝わってきます。貧しい者にも無償で藩校出版物を配布していたという話には、当時の教育への情熱と社会的意義を感じずにはいられませんでした。 さらに、私塾や寺子屋にもスポットが当てられており、広瀬淡窓(ひろせ たんそう)の咸宜園(かんぎえん)や緒方洪庵(おがた こうあん)の適塾(てきじゅ)、吉田松陰の松下村塾(しょうかそんじゅく)など、民間で営まれた教育の力強さに心を打たれました。特に寺子屋の起源が室町時代後期の寺院教育に遡ると知り、日本の教育文化の奥深さに改めて感動しました。 また、江戸時代後期の科学の発展を伝えるコーナーも興味深かったです。『解体新書』に代表される医学書や、地球説略(ちきゅうせつりゃく)、植物啓原(しょくがくけいげん)など、学問の成果が具体的な形で紹介されており、知識の探求が時代を超えて続いてきたことを実感しました。 展示は明治以降の近代教育にも及びます。学制や小学校令の制定による教育制度の整備、国定教科書の登場など、国家主導の教育改革が進められた様子が丁寧に紹介されていました。その一方で、植民地支配下での日本語教育という重いテーマにも触れられており、教育の...