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東本願寺:銀杏が黄金に染まる朝、親鸞の足跡をたどる

京都駅の近くにある東本願寺を、朝の静かな時間に訪れました。京都鉄道博物館と京都文化博物館の特別展示を見るために、朝から京都に来ていたのですが、開館まで少し時間があったので、まずは西本願寺を歩いて見学し、その足で東本願寺へ向かうことにしました。京都駅の北側を西から東へと横切るかたちになり、同じ浄土真宗本願寺系のお寺を続けて巡る、ちょっとした「はしご参拝」になりました。 西本願寺側から歩いていくと、東本願寺はぐるりと回り込むような形で東側に大きく構えています。徳川家康が1602年に本願寺を東西に分けたことから生まれたのが、この東本願寺で、現在は真宗大谷派の本山として知られています。目の前に現れた御影堂門(ごえいどうもん)は、その歴史にふさわしい迫力のある大きさで、門の下に立つと、自分がすっかり小さくなってしまったような感覚になります。西本願寺の門も壮麗でしたが、東本願寺の門もまた、別の重みと風格をたたえていました。 境内に入り、まずは参拝接待所のギャラリーを訪ねました。ここでは、親鸞の生涯がパネルでわかりやすく展示されていました。京都に生まれ、比叡山での修行を経て、35歳ごろに越後へ流され、40歳前後には関東へと拠点を移し、やがて60歳ごろに再び京都へ戻り、その後90歳まで過ごしたという人生の道のりが、年表と地図を交えながら説明されています。流罪や移動を重ねながらも教えを広め続けた姿を辿っていると、「一つの寺に落ち着く」イメージとは違う、動き続ける宗祖の生々しい人生が浮かび上がってきます。 同じギャラリーには、親鸞の主著である『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)と、『正信偈』(しょうしんげ)に関する展示もありました。浄土の教え(教)、念仏の実践(行)、阿弥陀仏の本願を信じる心(信)、そしてその結果としての証(証)を四つの柱としてまとめた『教行信証』について、パネルに簡単に説明が書かれていました。 ギャラリーを出て、いよいよ御影堂へと向かいました。東本願寺は度重なる火災で焼失し、現在の伽藍は明治期に再建されたものですが、その中でも御影堂は世界最大級の木造建築の一つともいわれる堂々たる建物です。中に入ると、西本願寺と同じく黄金の装飾が堂内を彩り、柱や欄間の彫刻も細やかで、視線をどこに向けても見どころがあります。親鸞聖人の御真影を安置する場にふさわしく、厳かな空気の中にも、...

西本願寺:細部に光る遊び心、埋木と天の邪鬼を探して

京都駅の近くにありながら、いつでも行けると思って後回しにしていた西本願寺を、ようやく訪れることができました。この日は京都鉄道博物館と京都文化博物館の特別展示を見るために朝から京都に来ていたのですが、開館まで少し時間があったので、朝早くから拝観できる西本願寺に立ち寄ることにしました。 駅から歩いて向かったため、まず西側の南寄りにある御影堂門から境内に入りました。 朝の8時半ごろでしたが、銀杏の木はすでに鮮やかな黄金色に色づき、その下には多くの外国人観光客や日本人の参拝者が集まっていました。西本願寺の大イチョウは樹齢数百年ともいわれる古木で、秋には境内を黄金色に染め上げることで知られていますが、まさにその評判どおりの姿で迎えてくれました。 まずは御影堂と阿弥陀堂を、外観と内部の両方からじっくりと見学しました。御影堂(ごえいどう)は浄土真宗の宗祖・親鸞聖人の御影を安置する建物で、阿弥陀堂(あみだどう)は阿弥陀如来を本尊とする礼拝の中心となる堂です。現在の西本願寺は、戦国時代に織田信長と対立した本願寺顕如が、豊臣秀吉からこの地を与えられて再興したのが始まりとされ、1591年に現在地に移ってからは本願寺派(浄土真宗本願寺派)の本山として栄えてきました。 内部に入ると、特に正面の内陣が印象的でした。柱や欄間、須弥壇の周りには金箔がふんだんに使われ、細かな彫刻と装飾が隙間なく施されています。金色というと、どうしても世俗的な「欲」や富の象徴を連想しがちですが、宗教空間で見る金色は不思議とそれとは逆の、清らかさや尊さの方を強く感じさせます。阿弥陀堂には阿弥陀如来像とともに、インド、中国、日本の高僧たちの影像が並び、御影堂には親鸞聖人の御影が安置されていますが、いずれも金色の輝きの中に静かにおさまっていて、視線を向けると自然と背筋が伸びるような気がしました。 堂内の静けさを味わったあと、境内を歩きながら経蔵や唐門へ向かいました。 経蔵(きょうぞう)はその名のとおり経典を収める建物で、唐門(からもん)は桃山時代らしい華やかな彫刻で知られる門です。西本願寺は、その建築群の多くが安土桃山時代から江戸初期の姿をとどめており、御影堂や阿弥陀堂、唐門などが国宝に指定されています。また、こうした建物群が評価され、1994年には「古都京都の文化財」の一つとしてユネスコ世界遺産にも登録されています。駅か...

平城宮跡歴史公園:古代の都に重なる、現代のまつりの賑わい

奈良市の平城宮跡歴史公園を歩きました。今回は正倉院展を主目的に奈良を訪れ、開化天皇陵、興福寺、東大寺ミュージアムと巡った締めくくりに、東大寺から徒歩で40分ほどかけて平城の地へ向かいました。朱雀大路のスケール感が少しずつ輪郭を現し、古代の都へ入っていくような感覚が高まっていきます。 南の入口に着くと、ちょうど「なら奈良まつり」が開催中で、朱雀門へ続く通りには出店が並び、古都の軸線に現代の賑わいが重なっていました。 まずは復原遣唐使船へ。船の前では、古代日本か唐風の装束を思わせる一団が舞の稽古をしており、遠い大陸との往来が生んだ文化交流の気配が、今もイベントの形で呼吸しているように感じました。唐との往復は国家の大事業であり、危険と隣り合わせの「海の道」でしたが、その成果が律令国家の制度や都城の姿、そして宮廷文化を押し上げたことを思うと、この一艘の復原船にも物語が詰まっているように見えます。 朱雀門に近づくと、ちょうど合唱団の発表が終わったところで、出演者の記念撮影が続いていました。朱雀門は都の南正面を飾る表玄関で、かつては左右に築地塀が伸び、朱雀大路の先に羅城門が控えていたはずです。出店で何か買いたい気持ちを抑えつつ、奈良公園で肉まんとたこ焼きを食べ歩きした余韻のまま、門の裏手に回って北へ進むと、広大な広場に観光客が散らばり、人数の割に静けさが勝る独特の空気に変わりました。古代の中枢空間は、現代の雑踏をも吸い込んで静めてしまうようです。 正面の大極門は復原整備工事中で、覆屋に囲われていました。国家儀礼の正面を飾る門が徐々に姿を取り戻す過程は、完成後とは別の意味で見応えがあります。 西へ折れて復原事業情報館に立ち寄ると、宮大工の技法や大屋根の架構を理解するためのモックアップ、使用された道具類などが並び、千年単位の歴史を「現在形」に変換する作業の繊細さが伝わってきました。古材の痕跡から寸法や彩色を推定し、現代の安全基準とも折り合いをつける――復原とは、過去と現在の共同制作なのだと感じます。 北東の第一次大極殿へ。堂内では高御座の実物大模型を見学しました。即位の礼でテレビ越しに見たときは舞台の上の装置の一つという印象でしたが、目前にすると量感と格の高さが立ち上がります。大極殿は国家の中枢儀礼が行われた場であり、そこに据えられる高御座は、単なる家具ではなく「秩序」を目に見える...

東大寺ミュージアム:正倉院裂と仏教美術でたどる奈良の深層

奈良の東大寺ミュージアムを初めて訪れました。今回は奈良国立博物館で正倉院展を見た後、同じ「天平の息づかい」を別の角度から感じてみたくて足を延ばしました。東大寺そのものは前回の奈良訪問で拝観していましたが、伽藍に寄り添うように設けられたこのミュージアムは、寺の歴史と信仰を落ち着いた空気の中で確かめられる場所でした。 導入の紹介ビデオでは、聖武天皇が大仏造立の詔を発し、国家の安寧と人々の幸せを祈って東大寺の建立が進められたことが語られていました。当時の日本の人口の半分ほどが何らかの形で関わったという説明は、規模の大きさだけでなく、信仰が社会の広い層に浸透していたことを実感させます。単なる史実紹介にとどまらず、祈りの言葉が静かに染み込むような映像で、ここが観光施設ではなく「寺の展示室」であることに気づかされました。 展示室では、寺内に伝わる仏像や工芸が、修理の痕跡や制作技法の解説とともに並び、東大寺の長い時間が立体的に見えてきます。南都焼討や度重なる災禍を経ながらも、法灯が途切れず受け継がれてきたことを、木肌の色や金銀の擦れに感じ取りました。堂内で仰ぎ見た仏像とは別の距離感で向き合えるのが、ミュージアムの面白さだと思います。 ちょうど特別展示として「正倉院裂」が出ており、黄緑地霰花文錦幡頭などの裂(きれ)の華やかな文様が間近で見られました。正倉院の宝物は国立博物館で拝むものだとつい思い込みがちですが、その由来をたどれば東大寺の祈りの場と不可分であり、一部は寺にも伝来・保存されていることをあらためて知りました。織りの細やかさや色彩の残り方は、千年以上の時を経てもなお、儀礼の場の光と音を思い起こさせます。 正倉院展の余韻を抱えたまま東大寺ミュージアムに入ると、国家的な文化財としての天平と、寺の日常に息づく天平が、二枚重ねの透明なフィルムのように重なって見えてきます。歴史を学ぶことと信仰に触れること、その二つのレンズを切り替えながら歩く時間は、奈良らしい静けさの中で心が整う体験でした。次は伽藍を回る前にもう一度ミュージアムから始め、展示で得た目と心で堂塔の姿を見直してみたいと思います。 旅程 東京 ↓(新幹線/近鉄) 近鉄奈良駅 ↓(徒歩) 開化天皇陵(念仏寺山古墳) ↓(徒歩) 興福寺 ↓(徒歩) 奈良国立博物館 ↓(徒歩) 東大寺ミュージアム ↓(徒歩) 平城宮跡歴史公園 ...

奈良国立博物館 正倉院展:すし詰めの天平、美の渦へ

奈良国立博物館の正倉院展を目当てに奈良を訪れました。奈良に来るのはコロナ直後の2020年3月以来で、実に5年ぶりになります。東京・京都・九州の三つの国立博物館は既に足を運んでいたので、奈良だけはいつか必ずと心に留めていました。広々とした奈良公園のなか、白い外観が印象的な仏像館が遠目にもよく映え、あらためて「奈良に来た」という実感がわきました。 正倉院展の会場である新館へ向かうと、予約必須にもかかわらず長い行列ができていました。朝の冷え込みがやわらぎ、日が昇るにつれて少し汗ばむほどで、しばし気が滅入りましたが、スタッフの手際がよく列は意外なほどスムーズに進み、ほどなく入場できました。ところが中はまさにすし詰めで、その人気ぶりに圧倒されます。館内アナウンスも「順路にこだわらず、空いているところからご覧ください」と促すほどで、普段のように解説を読み込みながら丁寧に見て回るのは難しく、今回は展示そのものを目で味わい、細かな学びは目録で補う作戦に切り替えました。 木画紫檀双六局や平螺鈿背八角鏡など、奈良時代の宮廷文化の洗練を物語る品々が次々と現れます。材や技法の異国性と、天平美術の端正さが一つの場で交わる様子は、東西交流の結節点としての正倉院の性格をそのまま示しているようで、短い滞在でも十分に伝わってきました。終盤には今回の目玉の一つ、深い青が目を引く瑠璃坏が登場します。ここはさらに人が厚く、少しずつ前へ進んでようやく実物に対面できました。光を受けてわずかに揺れる青の奥行きに、千年以上を生き延びた素材と技術の奇跡を感じます。 ひと通り見終えると、まだ1時間も経っていないのに、人いきれでどっと疲労を覚えました。休憩を兼ねて目録を買い求めようと売り場に向かいましたが、人気のあまり売り切れとのこと。後日オンラインで再販されると案内があり、帰宅後に落ち着いて学び直す楽しみができました。 同じチケットで仏像館にも入れるので、その足で見学しました。特別展示の法華寺十一面観音立像や、金峯山寺仁王門の金剛力士立像をはじめ、時代や地域の異なる仏像が一堂に会しています。堂内の照明に浮かび上がる木肌や彩色の名残は、造像当時の祈りの温度をいまに伝えるようで、正倉院の雅と呼応しながらも、また別の静けさをもたらしてくれました。 途中には坂本コレクションの中国古代青銅器の展示もありました。爵、觚、罍、鼎、...

興福寺:千手観音に見守られて、見上げる令和の大修理

奈良公園の木々が色づきはじめた朝、正倉院展の開場時刻までのひとときに、久しぶりの興福寺を歩きました。コロナ初期に訪れたときは静けさが印象的でしたが、今回は外国語も交じる賑わいが戻り、かつての門前の活気がよみがえったようでした。 まず足を向けたのは興福寺国宝館です。中央に凛と立つ千手観音菩薩立像に迎えられ、堂内から移された仏像や仏具とじっくり向き合います。阿形・吽形の金剛力士像は、吽形の口元に吸い込まれるような静けさ、阿形の踏み込みに生まれる躍動が対をなし、木から命が立ち上がる瞬間を見せてくれるようでした。展示室の空気はしっとりとしていて、時代を重ねた木肌の色艶が、ただ“古い”のではなく“生きてきた”ことを語りかけます。 境内に出ると、まず東金堂へ参拝しました。薬師系の尊像を安置してきた歴史を思い、病や祈りの記憶がこの堂に幾度となく積み重なってきたことに思いを馳せます。 続いて中金堂へ。再建なってからの大屋根と鮮やかな朱が、奈良の空にくっきりと輪郭を描いていました。幾度もの兵火と震災で焼失・再建を繰り返してきた興福寺にあって、中心伽藍の復原は、単なる復古ではなく「都の記憶」を現在に結び直す仕事なのだと感じます。 南円堂へ向かう途中、視界を大きく遮る白い仮囲いに出会いました。五重塔の令和大修理が進行中との掲示。2034年までの長丁場と知り、荘厳な姿をしばらく拝めない寂しさと、千年単位で塔を未来へ手渡す“時間の工事”に立ち会っている喜びが交じります。奈良時代に始まり、藤原氏の氏寺として栄え、幾度も失っては立ち上がってきた寺の歴史の只中に、自分も一瞬だけ紛れ込んだような感覚でした。 次に八角円堂の南円堂を参拝しました。 さらに三重塔へ。 北円堂は静謐そのもので、堂宇を包む空気の密度がわずかに濃くなるように感じます。立ち並ぶ塔や堂は、それぞれが時代の層を抱えながら、全体としてはひとつの“都市の記憶装置”になっている——興福寺を歩くといつもそんな気分になります。 今回の奈良は、正倉院展という宮廷文化の粋をのぞく旅の合間に、興福寺の伽藍を順にたどる時間が加わった形になりました。観光客の笑い声、修学旅行生のざわめき、そして工事現場のかすかな機械音。どれもが寺の長い時間に刻まれる“今日”の音です。かつて藤原氏の氏寺として政治と文化の中心にあり、南都の学問や美術を育んだこの寺は、今も変...

開化天皇陵(念仏寺山古墳):都会の谷間に眠る古代の輪郭、扉の隙間に浮かぶ鳥居

奈良市の開化天皇陵(念仏寺山古墳)を訪ねました。 奈良に来るのは、コロナ直後の2020年3月以来およそ5年ぶりです。今回は奈良国立博物館の正倉院展(11時入場の予約)に合わせての再訪で、朝の時間を使ってまずは古墳へ向かいました。 大阪の百舌鳥・古市古墳群では、周囲に高い建物が少なく、外周道路から墳丘のボリューム感をそれなりに確かめられました。しかし、都心部に位置する開化天皇陵は様子が異なります。周辺はビルなどに囲まれ、古墳をぐるりと回る道もありません。参拝できるのは拝所のみで、その拝所も鳥居の手前に扉が閉じられており、視界は限られます。扉や塀のわずかな隙間から、うっすらと鳥居のシルエットが見える程度でした。静けさの中に、都市の気配と古墳の気配が重なり合い、見えるものが少ないぶん、かえって「ここに古墳がある」という存在感だけが強く迫ってくるように感じます。 開化天皇は、記紀に記される初期天皇のひとりで、実年代や事績は伝承の色合いが濃い人物です。各地の「○○天皇陵」は、古代の埋葬実態と後世の比定・治定が折り重なって現在の姿になっており、学術的検討の余地を残しつつも、宮内庁によって静謐が守られています。内部に立ち入れない不自由さはあるものの、拝所から頭を垂れると、文献と考古学、そして近代以降の「保護するまなざし」が一歩ずつ重ねられてきた歴史の層に触れている実感がありました。 百舌鳥・古市のように雄大な墳丘線を眺める体験とは別種の、見えないものを想像する時間。朝の澄んだ空気の中で短い滞在を終え、正倉院展の開場までまだ余裕があったので、興福寺へと足を延ばしました。奈良の町では、世界遺産や名刹の華やかさの陰に、こうした静かな古墳の佇まいが確かに息づいています。次に来るときは、地図の空白に見える小さな社や陵墓も織り込みながら、奈良の“見えない”歴史をもう少し丁寧にたどってみたいと思いました。 旅程 東京 ↓(新幹線/近鉄) 近鉄奈良駅 ↓(徒歩) 開化天皇陵(念仏寺山古墳) ↓(徒歩) 興福寺 ↓(徒歩) 奈良国立博物館 ↓(徒歩) 東大寺ミュージアム ↓(徒歩) 平城宮跡歴史公園 ↓(徒歩) 大和西大寺駅 周辺のスポット 興福寺 奈良国立博物館 東大寺:  2020/3 ,  2025/11 春日大社 リンク -天皇陵-開化天皇 春日率川坂上陵(かいかてんのう...