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銚子ポートタワー/ウオッセ21:岬の灯台から港のタワーへ、歩いて分かる銚子の距離感

冬の銚子を歩いていると、潮の匂いと海風の手触りが、町の輪郭をはっきりさせてくれます。この日は、朝から銚子市内を巡り、銚子電鉄で外川駅へ向かってから、外川町の路地や犬吠埼をたどりつつ、君ヶ浜沿いの道を北上して銚子ポートタワーへ歩きました。観光地同士を「地図の線」でつなぐのではなく、海岸線そのものを辿っていく移動は、銚子という土地が「海とともにある町」だという事実を、身体の感覚で納得させてくれます。

犬吠埼といえば、明治期に建設された灯台が有名です。犬吠埼灯台は1874年に完成した煉瓦造の灯台で、近代日本の海上交通を支えた遺産として重要文化財にも指定されています。 旅の序盤でこの近代化の象徴に触れておくと、同じ海を前にしても、海岸の景色が「眺め」だけではなく「人が築いてきた航路の歴史」と重なって見えてきます。

君ヶ浜を抜けて港の地区に入ると、遠くに銚子ポートタワーが見えてきました。海岸の開けた空に、鏡のようなガラスの塔が立っているのは、どこか未来的でもあり、港町の実務的な風景に一つのアクセントを添えています。銚子ポートタワーは千葉県の施策の一環として整備され、1991年に開業した高さ57.7メートルのタワーです。「水揚げの町」の日常が、観光という入口からも立ち上がるように設計された施設だと知ると、ただ展望を楽しむ場所以上の意味が見えてきます。

タワーの隣には魚市場のウオッセ21があり、まずはそちらから見学しました。市場の売り場に並ぶ魚介類の瑞々しさは、銚子の港が“現役”で動いていることを何より雄弁に語ります。ウオッセ21もタワーと同じく1991年にオープンした施設として紹介されています。 海鮮丼など食事を楽しめる場所もあり、観光客にとっては「港の恵みをその場で味わう」導線が整っていますが、この日は犬吠埼ですでに食事を済ませていたため、眺める楽しさに徹しました。食べられなかった悔しさよりも、「次はここで食べる理由ができた」という宿題が一つ増えた感覚の方が近かったです。

市場を一通り見たあと、銚子ポートタワーへ向かい展望階に上りました。高い場所から港を見下ろすと、銚子が関東の最東端で、利根川が太平洋に注ぐ地点に築かれてきた町だという地理がよく分かります。銚子という地名自体、河口の形が酒器の「銚子(提子)」に似ていることに由来する、という説明もあります。 こうした地形は、海からの交通と川の水運が接続する要所としての性格を強め、港町としての発展を後押ししてきたのでしょう。

展望室からは、広い港のスケール感が伝わってきます。一方で、歩いてきた君ヶ浜は遠すぎて視界に入りませんでした。地図で見れば一本の線でも、実際に歩いた距離は確かな時間と疲労の記憶として残っています。見えないほど遠くまで自分の足で来たのだと思うと、旅の達成感が静かに増していきました。観光は「見る」ことに意識が向きがちですが、銚子のように風と波が強い土地では、ときに「移動そのもの」が体験の中心になります。冬の海風に背中を押されながら、港へ近づいていく過程が、町の成り立ちや暮らしの匂いを少しずつ濃くしていくようでした。

銚子ポートタワーで港の全体像を掴んだあと、次の圓福寺へ向かいました。海の最前線の風景から、祈りや信仰の場へ移る流れは、港町の現実と精神文化が同じ町の中に共存していることを感じさせます。銚子の旅は、名所を点で回るだけでも十分に楽しいのですが、海岸線を歩いて港へ入り、展望から町を俯瞰して、そこから寺へ向かうように、視点を「水平」から「垂直」へ切り替えると、土地の奥行きが一段深くなる気がしました。

旅程

東京

↓(電車)

銚子駅

↓(銚子電鉄

外川駅(とかわえき)

↓(徒歩)

(略)

↓(徒歩)

地球の丸く見える丘展望館

↓(徒歩)

補陀洛山満願寺

↓(徒歩)

犬吠駅

↓(徒歩)

犬吠埼

↓(徒歩)

銚子ポートタワー/ウオッセ21

↓(徒歩)

圓福寺

↓(徒歩)

銚子セレクト市場

↓(徒歩)

妙福寺

↓(徒歩)

銚子駅

↓(JR)

東京

地域の名物

  • ぬれ煎餅

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