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タワー・ブリッジ:テムズ川にかかる「見せるための橋」

2024年元旦、ロンドン観光2日目の朝から街を歩き回り、新年らしい静けさと少し浮き立った空気を楽しんでいました。バッキンガム宮殿の前で衛兵交代の行列を想像しながら門越しに眺め、そのあとテムズ川沿いに出てロンドン塔へ向かいました。冬の薄い日差しの中で見えてきたのが、タワー・ブリッジでした。

ロンドン塔のそばから見上げるタワー・ブリッジは、写真で見慣れているはずなのに、実物は想像以上に大きく、高さも存在感も圧倒的でした。テムズ川にまたがる二つの塔は、橋というよりも小さなお城が川に立っているようで、石造りの塔に水色の鉄骨が組み合わさった姿は、ヴィクトリア時代の重厚さと近代の工業技術が同居しているように見えます。

本当は、まずロンドン塔の中を見学してから橋に向かうつもりでしたが、最近のオーバーツーリズム対策もあり、当日券が完売していてチケットを買うことができませんでした。ロンドンでは、人気の観光地ほど事前予約が必須になりつつあるのだと、改めて実感しました。少し残念ではありましたが、その分、外からじっくりとロンドン塔とタワー・ブリッジの組み合わせを眺める時間ができたとも言えます。

タワー・ブリッジは、19世紀末のロンドン東部の発展に応えるために建設された橋です。テムズ川の下流側では、当時ロンドン橋しか大きな橋がなく、港町として栄える一帯の人や荷物の移動には不便でした。そこで、1886年に工事が始まり、8年の歳月をかけて1894年に完成しました。

この橋の特徴は、中央部分が跳ね上がる「バスクル橋」であると同時に、その両側が吊り橋構造になっていることです。大型船がテムズ川を行き来できるよう、中央の道路が左右に持ち上がる仕組みになっており、完成当時は世界でも最先端の可動橋だったそうです。 もともとは蒸気機関で油圧ポンプを動かし橋を開閉していましたが、現在は油と電気を使ったシステムに切り替えられています。橋の内部にあるエンジンルームは、今では展示施設として公開され、ヴィクトリア時代の巨大な機械を見ることができるそうです。

二つの塔の上部を結ぶ高所の歩道も、この橋のユニークな点です。地上約40メートル以上の高さにあり、現在は内部見学用の通路として使われています。ガラス床になった部分もあり、見下ろすと自分の足元を車や歩行者、テムズ川の船が通り過ぎていく様子が見えるといいます。今回は時間の都合で中には入りませんでしたが、次にロンドンを訪れるときには、この高所の通路から街を眺めてみたいと思いました。

地上の歩道も十分な幅があり、のんびり歩くにはちょうど良い広さです。ただ、元日の観光シーズンということもあり、ときどき人が多すぎて、すれ違うのも一苦労なほどの混雑になる場所もありました。さまざまな言語が耳に飛び込んできて、一瞬、ここがどこの国なのか分からなくなるほど多国籍な雰囲気です。その喧騒の中を歩きながら、石の塔のディテールや橋の両端にある門の装飾を見上げていると、単なる交通インフラというより、「見せるための橋」としてデザインされていることを強く感じました。実際、設計段階でロンドン塔との景観調和が求められ、城塞風のスタイルが採用されたといわれています。

橋の中央あたりまで来ると、テムズ川の両岸の風景が一度に視界に入ります。上流側には、歴史あるロンドン塔と、近代的な高層ビルが混在するシティ・オブ・ロンドンの風景が広がり、下流側には、ガラス張りの尖塔ザ・シャードが空に向かって伸びているのが見えます。ヴィクトリア時代の可動橋と、21世紀の高層ビルが同じ川面に映り込んでいる光景は、ロンドンという都市の時間の厚みそのもののように思えました。

橋を渡りきると、空気の流れが少し変わったように感じました。北岸側ではロンドン塔の石壁が視界の中心でしたが、南岸に出ると、川沿いの遊歩道やカフェ、オフィスビルが増え、生活と仕事の匂いが強くなります。少し振り返ると、さきほどまで足元に感じていたタワー・ブリッジが、今度はテムズ川越しの風景として静かに立っていました。

その後は、そのまま歩いてロンドン・ブリッジ駅へ向かい、電車に乗ってグリニッジ天文台へと移動しました。バッキンガム宮殿で王室の気配を感じ、ロンドン塔で中世のロンドンを想像し、タワー・ブリッジでヴィクトリア時代の技術と美意識に触れ、最後にグリニッジで「時刻の基準点」に立つという、一日でロンドンの歴史をぎゅっと凝縮してたどるような行程になりました。

ロンドンの街は、同じテムズ川沿いでも時代ごとに違う顔を見せてくれます。その中で、タワー・ブリッジは、観光地としての華やかさだけでなく、今もなお多くの車と人を支え続ける「現役の橋」としての力強さも併せ持っていました。オーバーツーリズムで入れない場所が増えている今だからこそ、外から眺める時間や、橋の上を実際に歩く体験が、より大切なものに感じられたロンドンの元日でした。

旅程

ホテル

↓(徒歩)

テンプル駅

↓(地下鉄)

チャリング・クロス駅

↓(徒歩)

バッキンガム宮殿

↓(徒歩)

ビッグベン

↓(徒歩)

(略)

↓(徒歩)

ロンドン大火記念塔

↓(徒歩)

ロンドン塔

↓(徒歩)

タワー・ブリッジ

↓(徒歩)

ロンドン・ブリッジ駅

↓(鉄道)

Maze Hill駅

↓(徒歩)

グリニッジ天文台

↓(徒歩)

Maze Hill駅

↓(鉄道)

Cannon Street Station

↓(徒歩)

セントポール大聖堂

↓(徒歩)

St. Paul's駅

↓(地下鉄)

St. John's Wood駅

↓(徒歩)

アビー・ロード

↓(徒歩)

St. Paul's駅

↓(地下鉄)

テンプル駅

↓(徒歩)

ホテル

周辺のスポット

地域の名物

  • フィッシュ・アンド・チップス
  • 紅茶(ブリティッシュ・ティー)
  • スコーン&クロテッドクリーム
  • エール
  • ジン

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