大阪観光の締めくくりに万博記念公園を訪れました。
太陽の塔を眺めながら公園を歩いていると、木立の向こうにトーテムポールのようなものが見えてきました。
国立民族学博物館という案内がありました。時計を見ると、すでに午後3時過ぎ。帰りの新幹線から逆算すると、公園にいられるのはあと1時間ほどです。広そうな建物を前に、「今日はやめておこうか」「でも“民族学”って気になる…」としばし逡巡しましたが、結局、好奇心に負けて足を踏み入れることにしました。博物館の前の黒い石の Monument も、近づいてみると「国立民族学博物館」と刻まれています。文字の形がどこか象形文字のようで、期待が高まりました。
中に入ると、まずスケールの大きさに圧倒されました。国立民族学博物館、通称「みんぱく」は、文化人類学・民族学とその関連分野の大学共同利用機関として1974年に創設され、1977年に大阪・千里の大阪万博跡地に開館した、世界最大級の民族学博物館です。 研究者が世界各地で集めた生活用具や民族衣装など、約34万5千点もの資料を所蔵し、そのうち約1万2千点が常設展示で並んでいると知ると、先ほどの「1時間で見て回れるのか」という不安が一気に現実味を帯びてきます。
展示室は、オセアニアから始まり、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、西アジア、南アジア、東南アジア、中央・北アジア、東アジアと、地球を東回りに一周するような構成になっていました。 まさに「世界一周ルート」の途中に自分が紛れ込んだようで、入口で地図を受け取った瞬間から、駆け足旅行の始まりです。
ルーマニアの「陽気な墓」の展示は、その名のとおりカラフルで、一般的な「墓地」のイメージから大きく外れた世界が広がっていました。青や赤、黄色で描かれた板には、亡くなった人の人生やユーモラスなエピソードが描かれていて、「死」と「笑い」がこんなふうに同居する文化もあるのだと、短い時間ながら心に残りました。
ナイジェリアのヨルバ族のコーナーでは、ビーズで作られた人形が目を引きました。細かなビーズがびっしりと縫い付けられた人形は、単なる玩具というより、祈りや物語を宿した存在のように見えます。
続いて、アフリカ南部・ザンビアの仮面(マキシ)や、中東のベリーダンス衣装、インドの女神・ドゥルガー像なども並び、宗教儀礼から日常の衣装まで、「人が何を身にまとい、何を怖れ、何を祝うのか」が、立体的に見えてきました。
ただ、この日はとにかく時間がありませんでした。広大な展示室を早足で歩きながら、「これは何の像だったかな」「この写真、どこの地域だったかな」と後から写真を見返しても思い出せないものも多くあります。それでも、展示された道具や衣装、仮面たちの存在感は強烈で、「世界には、まだ知らない生活のかたちがこんなにもあるのだ」と、身体ごと揺さぶられるような感覚がありました。
後で調べてみると、みんぱくは単なる展示施設ではなく、「博物館をもった研究所」として位置づけられていることが分かりました。世界各地でフィールドワークを行う研究者たちが、暮らしの道具や儀礼用具を集め、文化の多様性と共通性を探る拠点になっているそうです。 戦前から渋沢敬三らによって構想されてきた国立の民族学博物館の夢が、万博跡地にこうして結実していると知ると、公園の中にひっそりと建っているように見えたこの建物が、急に「日本の知の蓄積が詰まった場所」に見えてきました。
太陽の塔が人類の未来や生命のエネルギーを象徴するモニュメントだとすれば、そのすぐそばにある国立民族学博物館は、人類が歩んできた多様な過去と現在を静かに語り続ける場所なのだと思います。短い滞在時間の中で私は、そのごく表面をなぞっただけでしたが、それでも世界をぐるりと一周したような不思議な疲労感と充実感を味わいました。
たまたま見つけた博物館に、迷いつつも入ってみて本当に良かったと感じています。次に大阪を訪れるときには、今度こそ半日ぐらい時間を確保して、一つひとつの展示とじっくり向き合いたいと思います。写真だけでは思い出せなかった「名前の分からない何か」にも、もう一度会いに行きたい。みんぱくは、そんな「もう一度」を約束してくれる、奥行きの深い博物館でした。
アルファベット
アルファベットについて考えるとき、私たちはつい「A・B・C…」という身近な文字だけを思い浮かべてしまいますが、その背景には三千年以上にわたる長い歴史があります。インターネットやスマートフォンの画面に並ぶアルファベットは、砂漠の岩壁に刻まれた小さな落書きのような文字から始まったと考えられているのです。
アルファベットの起源をたどると、古代エジプトのヒエログリフに行き着きます。ヒエログリフは、神殿の壁や墓室を飾った絵文字のような文字で、一つひとつが目や鳥、人の姿など具体的なイメージを持っていました。このヒエログリフは単純な「絵」ではなく、すでに音を表すしくみも持っていました。その中から、エジプトに出入りしていたセム語系の人びとが、いくつかの文字を「自分たちのことばを書くための記号」として借りて使い始めたと考えられています。つまり、「ヒエログリフをもとにした、ごく限られた記号セット」が、アルファベットの祖先になった、という理解が現在の主流です。ヒエログリフそのものがそのままアルファベットになったというより、ヒエログリフの一部を簡略化して音の記号として再利用した、とイメージしていただくと近いと思います。
この初期の文字は「プロト・シナイ文字」「プロト・カナン文字」と呼ばれます。シナイ半島やレバント地方の岩や石碑に、ぎこちない線で刻まれた短い碑文が残っており、そこにすでに後のアルファベットにつながる形が見え隠れしています。例えば、エジプトのヒエログリフに「牛の頭」を描いた文字がありますが、これを「アルフ(牛)」というセム語の単語の頭の音「a」を表す記号として借り、「牛の頭」の絵をだんだん簡略化していくと、やがて「A」のご先祖のような形になります。こうした「絵としての意味」ではなく「ことばの頭の音」に注目して記号化していく考え方を、アクロフォニック原理と呼びます。このようにして、ヒエログリフの「簡略版」というよりも、「ヒエログリフを材料にしつつ、別の言語のために作り直した新しい音の記号体系」が生まれていきました。
やがて、この初期のアルファベットはフェニキア人の手によって洗練されます。フェニキアは地中海東岸の海洋交易民で、船で各地を行き交う中で、簡潔で持ち運びやすく、書きやすい文字が求められました。フェニキア文字は子音だけを書き表す方式で、記号の数が少なく、彫ったり書いたりするのに都合の良い形に整えられていきます。このフェニキア文字が、後の多くのアルファベットの「親」のような存在になりました。
フェニキア文字は、地中海世界を通じて西へと伝わり、ギリシア人に受け継がれます。ここでアルファベット史の大きな転換が起こります。ギリシア人は、フェニキア語では子音として使われていたいくつかの文字を「母音」を表す記号に作り替えました。フェニキア文字は子音主体の「アブジャド」と呼ばれるタイプでしたが、ギリシア文字は子音と母音の両方を明示的に書く、本格的なアルファベットになっていきます。アルファ、ベータ、ガンマ…という文字名には、フェニキア語の痕跡が今もかすかに残っていますが、中身はギリシア語に合わせて再構成されているのです。
その後、ギリシア文字からいくつかの枝分かれが起こります。イタリア半島では、ギリシアの植民都市を通じて文字を知った人びとが、自分たちの言語に合わせて少しずつ形や使い方を変え、やがてラテン文字、つまり現代のローマ字につながっていきます。一方で、東地中海ではアラム語を通じてヘブライ文字やアラビア文字の系統が育ちます。どれも元をたどると、エジプトのヒエログリフを手がかりに作られた初期のアルファベットに行き着くので、遠い親戚のような関係にあるといえます。
ラテン文字は、ローマ帝国の拡大とともにヨーロッパ全域に広がりました。帝国が崩壊した後も、ラテン語は教会や学問の共通語として長く使われ、修道院では写本が作られ続けました。その過程で、文字の形や書き方が少しずつ変化し、「ローマの石碑に刻まれたカクカクした大文字」から、「写本に書かれる丸みを帯びた小文字」へと発展していきます。今日のアルファベットの大文字と小文字の違いは、このような書記文化の変化の積み重ねの結果です。
十五世紀になると、グーテンベルクの活版印刷術が登場します。金属活字として使いやすいように、アルファベットの形はさらに整えられ、書体としてのデザインが追求されるようになります。印刷物が大量に出回るにつれて、ある程度統一された形と綴りが広まり、アルファベットは「個々の書き手の手書きの線」から、「大量生産されるタイポグラフィ」へと姿を変えていきました。この段階までくると、もはや砂漠の岩壁に刻まれた素朴な線からは想像できないほど洗練された記号体系になっていますが、根っこには「限られた数の記号で音を表す」というシンプルな発想が一貫して流れています。
現代になると、アルファベットはいよいよ地球規模に広がります。植民地支配や宣教、近代教育制度の拡大とともに、多くの言語がアルファベット系の文字を採用したり、もともとあった文字から切り替えたりしました。アフリカや東南アジアなどでは、植民地宗主国の言語だけでなく、地域の言語のために新しいアルファベットが考案されることもありました。さらに二十世紀には、タイプライターやコンピュータ、インターネットといった新しいメディアが登場し、「キー配列」や「フォント」のかたちで、アルファベットの見た目や使い方にも新しい制約と自由が加わっていきます。
こうして見てくると、「ヒエログリフの簡略版が起源」という言い方は、完全に正確とは言えないものの、核心をある程度つかんでいるともいえます。アルファベットはヒエログリフの直接の子どもではなく、ヒエログリフという豊かな絵文字の中から一部を選び取り、意味の絵としてではなく音の記号として使い直すという、かなり大胆な発想の転換の上に成り立っているからです。ヒエログリフをそのまま簡略化しただけなら、エジプト内部で発展したヒエラティック(神官文字)やデモティック(民衆文字)のような別の書体になっていきますが、アルファベットはそこからさらに一歩踏み出して、「どの言語にも応用しやすい音の骨組みの記号」にまで抽象化されました。
私たちが普段何気なく入力しているAやBの文字は、こうした長い旅路の現在地点にすぎません。砂漠の岩肌に刻まれた小さな線から、古代船乗りの商取引、哲学者の対話、修道士の祈り、印刷工房のにぎやかな音、そして現代のSNSの短いメッセージに至るまで、アルファベットは常に「声を形にする道具」として人びとの生活に寄り添ってきました。これから先、AIや新しいインターフェースが広がる時代に、アルファベットがどのような姿に変わっていくのかを想像しながら、そのルーツであるヒエログリフとの遠いつながりを思い浮かべてみると、画面に並ぶ文字も少し違って見えてくるかもしれません。
メタコメット
アメリカ先住民のメタコメットという名前を聞くと、多くの人はピンとこないかもしれません。けれども「フィリップ王戦争」と聞けば、アメリカ植民地時代でもっとも激しい戦争の一つとして、歴史の教科書に登場します。このフィリップ王こそ、ワンパノアグの指導者メタコメットが、イングランド人との関係の中で与えられた名前でした。
メタコメットの父マサソイト(オウサメクイン)は、当初はイングランド人入植者と友好的な関係を結んだ人物でした。1621年、飢えと病に苦しんでいたプリマス植民地と同盟を結び、ワンパノアグの人々は作物の育て方や狩猟・漁労の技術を教え、植民地の生き残りに大きく貢献したと伝えられています。この同盟は半世紀近く保たれ、その間マサソイトは、周辺部族からの攻撃を防ぐためにも、英植民地との平和維持を戦略的に選び続けたと考えられています。
しかし、マサソイトの死後、状況は急速に変わっていきます。植民地人口が増えるにつれ、入植者はより多くの土地を要求し、家畜が先住民の畑や貯蔵していた食料を荒らす問題も頻発しました。ワンパノアグ側が抗議しても十分な賠償がなされず、一方で先住民側が家畜を殺すと厳しく罰せられるという、不公平な状況が積み重なっていきます。さらに、一部の宣教師は先住民をキリスト教に改宗させようとし、政治的・文化的な圧迫感も強まっていきました。
マサソイトのあとを継いだ長男ワムサッタ(アレクサンダー)は、父の路線を引き継ぎながらも、英植民地との駆け引きに苦心していました。そのワムサッタが、プリマスでの尋問後に急死したことは、ワンパノアグの間に「殺されたのではないか」という強い不信感を生みます。その後、二男のメタコメットが一族と連合の長として立つことになりますが、すでに父の時代のような「対等な同盟関係」を維持する余地はほとんど残っていませんでした。
イングランド人から「フィリップ」と呼ばれるようになったメタコメットは、当初は完全な決裂を望んでいたわけではなかったと考えられています。彼は、英植民地と条約や土地売買を通じてなんとか自らの人々の暮らしを守ろうとしましたが、土地の喪失と政治的従属の圧力は止みません。最終的に、ワンパノアグの側は、自らの生存と尊厳をかけて武力抵抗に踏み切るしかないと判断するようになっていきます。
1675年、プリマス植民地のスウォンジー周辺で家屋の襲撃が起こり、これをきっかけに大規模な武力衝突が広がっていきます。後に「フィリップ王戦争(King Philip’s War)」と呼ばれるこの戦いは、1675年から1676年にかけてニューイングランド一帯を巻き込み、さらに北方では1678年ごろまで尾を引く大戦争となりました。
この戦争は、先住民諸部族と英植民地、それぞれの側の同盟関係が複雑に絡み合ったものでした。メタコメットが率いるワンパノアグ、ナラガンセット、ニプマクなどの諸勢力は、入植地の町々を次々と襲撃し、ニューイングランドの約半分の町が攻撃を受けたといわれます。一方、植民地側も民兵を組織し、先住民側と敵対関係にあったモホーク族などの支援も得て、反撃を強めていきました。結果として、この戦争は当時の人口規模に対して非常に高い死者を出し、アメリカ植民地史の中でも最も血なまぐさい戦争の一つと評価されています。
戦局が悪化する中で、メタコメットは現在のロードアイランド州ブリストル近くのマウント・ホープ周辺へ退きますが、1676年8月、味方の裏切りも絡んで植民地側の民兵に討たれてしまいます。その後の報復は苛烈で、メタコメットの遺体は切り刻まれ、頭部はプリマスの町で長期間さらされたと伝えられています。また、彼の妻や子ども、多くのワンパノアグの生存者たちは、カリブ海などの奴隷市場へ売り払われていきました。
フィリップ王戦争の結果、ワンパノアグやナラガンセットなど南ニューイングランドの先住民社会は壊滅的な打撃を受け、多くの土地を失います。一方で、この戦争は入植者側にとっても、町や経済の破壊という大きな犠牲をもたらしました。興味深いのは、この経験を通じて、イングランド本国の軍事支援に頼らず「自分たちだけで戦争を戦い抜いた」という意識が芽生え、やがて「イギリスから独立したアメリカ人」という自覚の萌芽につながった、と後世に解釈されている点です。
こうした歴史の中で、メタコメットは長らく、英語圏では「King Philip」という名で語られてきました。彼の名を冠した戦争の呼び名も、そもそもは植民地側の視点からつけられたものです。近年の歴史研究では、「Metacom’s War(メタコムの戦争)」など、先住民側の視点を反映した名称も用いられるようになり、彼を単なる「反乱指導者」としてではなく、自らの人々の土地と生活、世界観を守ろうとした政治家・軍事指導者として捉え直す動きが強まっています。
現在のマサチューセッツ州プリマスの街を歩くと、タウン・スクエアの一角に、メタコメットをしのぶ小さな記念碑が設けられていることに気づきます。そこには、ワンパノアグのサチェム(首長)の子として生まれ、「King Philip」と呼ばれた彼が、入植者に対する反乱の指導者としてイギリス軍によって殺されたことが記されています。かつて彼の頭部がさらされた同じ町で、今はその名が静かに刻まれているという事実には、歴史の皮肉のようなものを感じます。
同じプリマスのコールズ・ヒルには、感謝祭の日に毎年行われる「National Day of Mourning(追悼の日)」を説明する別の銘板も設置されています。そこでは、感謝祭が「友好的な収穫祭」の物語として語られる一方で、先住民の側にとっては、土地の略奪や大量殺戮、文化への攻撃を想起させる日でもあることがはっきりと書かれています。つまり、メタコメットをめぐる記憶は、同じ町の中でさえ、英雄視・悪役視・追悼という複数の層が重なり合って存在しているのです。
メタコメットの生涯をたどると、一人の「戦争指導者」というよりも、父の世代が築いた同盟と平和を守ろうとしながら、植民地拡大の勢いの前で身動きが取れなくなっていった指導者の姿が見えてきます。イングランドに友好的だった父の路線と、それでもなお悪化していく関係。その間に立たされた世代として、彼はどこまで妥協し、どこで抵抗を選ばざるを得なかったのか。そう考えると、フィリップ王戦争は、単なる「反乱の鎮圧」ではなく、二つの社会のあいだで行き場を失った交渉の、悲劇的な終着点として見えてきます。
もしプリマスを訪れる機会があれば、メタコメットの記念碑や、ナショナル・デイ・オブ・モーニングの銘板に立ち寄ってみるとよいと思います。そこでは、「感謝祭」という祝祭の陰で長いあいだ語られてこなかった物語が、静かに、しかし力強く刻まれています。メタコメットの名を通じて、私たちは「誰の目線から歴史を見るのか」という問いを、自分自身に投げかけることができるのではないでしょうか。
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