スキップしてメイン コンテンツに移動

投稿

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸:船上でたどる鉄路と海の交差点

三内丸山遺跡のあと、ねぶたの家 ワ・ラッセを見て、青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸に来ました。 子供頃、1988年に青函トンネル開通直前に青函連絡船に乗ったことがあります。当然、詳細は覚えていないですが、なんとなくノスタルジックな感じになりました。 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸は、1988年に廃止になった青函連絡船の八甲田丸を利用した青函連絡船や当時の青森に関する資料が展示された博物館です。 八甲田丸は、1964年(昭和39年)に竣工し、1988年(昭和63年)の青函連絡船が終航するまでの23年間運行されました。 内部は、エンジンなどの船の設備、 電車の車両、 客室、 操縦室、 甲板など、当時の青函連絡船の設備のほぼすべてを見てまわることができます。 また、当時の青森の街の雰囲気を再現した実物大の模型などもあり、青函連絡船だけでなく、周辺の文化や歴史についても学ぶことができます。 旅程 東京 ↓(新幹線) 新青森駅 ↓(徒歩 結構遠い) 三内丸山遺跡 ↓(タクシー) ねぶたの家 ワ・ラッセ ↓(徒歩) 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 ↓ (略) 周辺のスポット 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 ねぶたの家 ワ・ラッセ 青森県観光物産館アスパム 三内丸山遺跡 地域の名物 関連スポット リンク 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸 青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸|スポット・体験|【公式】青森県観光情報サイト Amazing AOMORI 青函連絡船 メモリアルシップ八甲田丸 青函連絡船メモリアルシップ 八甲田丸  | 見る | 青森市観光情報サイト「あおもり案内名人」

三内丸山遺跡:縄文の風が吹く丘で、5900年前にタイムスリップ、日本最大級の縄文遺跡

縄文時代から古墳時代の文字がなく作者が分からない土器、土偶、石器などを眺めるのが好きで、以前から行きたいと思っていた三内丸山遺跡(さんないまるやまいせき)に来ました。 青森というと東京から遠いので宿泊が必要かと思ったのですが、計算してみると日帰りでも十分楽しめそうだったので、新幹線を使って日帰りで来ました。三内丸山遺跡は新青森駅から近く、歩くのが好きな人にはちょうど良い距離です。 青森市にある三内丸山遺跡は、日本の縄文時代を語るうえで欠かせない、非常に貴重な史跡です。およそ5,900年前から4,200年前、縄文時代中期に栄えたこの遺跡は、かつての縄文人たちの生活の様子を現代に伝えてくれる「タイムカプセル」のような場所です。 遺跡が発見されたのは1992年(平成4年)のことでした。もともとは野球場の建設予定地として整地されていた土地でしたが、その調査の過程で地中に埋もれた巨大な集落跡が姿を現しました。この発見により、計画は大きく変更され、現在では遺跡が保存・公開される施設「三内丸山遺跡センター」として整備されています。 三内丸山遺跡を訪れると、まず目を引くのが巨大な柱を使った建物の復元です。地面には直径1メートルを超えるクリの木の柱穴が6本並び、それをもとにした高床建物の模型が建てられています。この建物は、単なる住居ではなく、儀式や共同作業などに使われた可能性があると言われています。何のためにこのような大きな構造物を造ったのか。現在でもその正確な用途はわかっておらず、想像をかき立てられます。 また、遺跡内には大型の竪穴建物跡もあり、こちらは住居として使用されていたと考えられています。このような建物の多くが一箇所にまとまって存在していることから、三内丸山は一時的なキャンプではなく、何世代にもわたって人々が定住していた大規模な集落だったことがわかります。 遺跡からは多くの土器や石器、装身具も発掘されており、展示室ではそれらをじっくり見ることができます。中には翡翠の玉や彩色された土器もあり、遠方との交易が行われていたことがうかがえます。さらに、クリの栽培跡も見つかっており、縄文人たちが自然に頼るだけでなく、植物を選び育てていた可能性があるとされています。これは「森林農法」と呼ばれるもので、農耕以前の社会の在り方に新しい視点をもたらしました。 見学にはガイドツアーを利用するの...

松本市美術館

旧開智学校を目的に松本市に来ましたが、残念ながら改築中で中に入れず、周辺の観光スポットをまわっているときに、草間彌生(くさまやよい)さんの名前が目に入り、本当に偶然に寄りました。 芸術には疎いので、草間彌生さんのことも実は忘れていて、なんとなく聞いたことある人だなと思ったので入ったのですが、水玉の作品や幻覚に悩まされた説明を見ているうちに少し前に英語の題材として学んだ方だと思い出しました。  外壁も一面が水玉。 中も水玉。 こちらは数少ない写真を撮っても良い作品で多くの人が並んでいました。 外壁も水玉で中も草間さんの作品で埋まっていたので、常設かと思っていたのですが、この記事のためにサイトを確認したところ、期間限定でした。ただし、2022年4月21日(木) 〜 2025年3月31日(月)でまだまだ余裕があります。 芸術は今まで触れて来なかったので、どの美術館も良く分からずに眺めていることが多いのですが、英語とは言え勉強した方の作品だったので、少し理解できたような気がします。 旅程 東京 ↓(電車) 松本駅 ↓(徒歩) なわて通り商店街 ↓(徒歩) 松本城 ↓(徒歩) 松本神社 ↓(徒歩) 旧開智学校 ↓(徒歩) 旧司祭館 ↓(徒歩) 四柱神社 ↓(徒歩) 松本市時計博物館 ↓(徒歩) 松本市美術館 ↓(徒歩) 旧制高等学校記念館 ↓(徒歩) まつもと市民芸術館 ↓(徒歩) 高橋家住宅 ↓(徒歩) 松本駅 周辺のスポット 旧開智学校 松本城 旧制高等学校記念館 地域の名物 関連スポット リンク 松本市美術館

青岸寺:米原の隠れた名庭、旅の途中で出会った禅の静謐

彦根観光の帰りに新幹線に乗るために米原駅に来ました。新幹線まで少し時間が余っていたため、観光案内所で観光マップをもらい、近くの青岸寺(せいがんじ)に行ってきました。 もともと予定なかったのもあり、それほど大きな期待をしていなかったですが、非常に立派な日本庭園で、国の名勝に指定されています。 青岸寺は、もともとは室町時代の初期(1350年ごろ)に建てられ米泉寺という名前でした。その後、戦国時代(1504年)に焼失し、1650年に再建されました。150年後に再建されたことに驚きです。 この再建のときに尽力した伊藤五郎助の諡(おくりな)から青岸寺という名前になりました。 庭が国の名勝に指定されたのが昭和9年(1934年)で、きれいな庭が長期に渡って維持されてきました。 喫茶室もあり、きれいな庭を見ながら、お茶やお菓子を食べることができます。 旅程 東京 ↓(新幹線/JR琵琶湖線) 彦根駅 ↓(徒歩) 滋賀縣護國神社 ↓(徒歩) 彦根城 ↓(徒歩) 玄宮園 ↓(徒歩) 彦根港/琵琶湖 ↓(徒歩) 清凉寺 ↓(徒歩) 龍潭寺 ↓(徒歩) 千代神社 ↓(徒歩) 彦根駅 ↓(電車) 米原駅 ↓(徒歩7分) 青岸寺 ↓(徒歩7分) 米原駅 地域の名物 信楽焼 鮒ずし 関連スポット 永平寺: 本山 総持寺(横浜市鶴見区): 本山 リンク 青岸寺公式サイト – 名勝青岸寺庭園 湖北霊場会第二十七番札所 青岸寺 【国指定名勝・青岸寺庭園】【木造聖観音菩薩坐像】  | 長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト 青岸寺(せいがんじ)/米原市 新幹線「米原」から徒歩7分!和スイーツも楽しめる、癒やしの寺院『青岸寺』 - しがトコ

千代神社:城下町に佇む、時を刻む社殿

彦根城などを訪れたあとの初夏の昼下がり、千代神社を訪れました。彦根の町は、歴史的な街並みや名所が点在し、散策するだけでも心が落ち着きます。そんな中、千代神社は静かな住宅地にあり、地域の方々に親しまれている神社という印象を受けました。 千代神社の歴史は古く、社伝によれば、創建はなんと孝元天皇の時代にさかのぼると伝えられています。長い時の流れの中で、この地の人々の暮らしや祈りを見守ってきたのでしょう。 境内を進むと、落ち着いた雰囲気の拝殿が迎えてくれます。そっと手を合わせて参拝をし、静かな空気に包まれながら、しばし心を落ち着けました。千代神社の本殿は、江戸時代の1638年(寛永15年)に再建されたもので、現在は国の重要文化財にも指定されています。 彦根城をはじめとする大きな観光地も良いですが、千代神社のように地元の歴史や信仰が息づく場所にも、旅の魅力が詰まっています。静かな境内で過ごすひとときが、心に残る時間となりました。 旅程 東京 ↓(新幹線/JR琵琶湖線) 彦根駅 ↓(徒歩) 滋賀縣護國神社 ↓(徒歩) 彦根城 ↓(徒歩) 玄宮園 ↓(徒歩) 彦根港/琵琶湖 ↓(徒歩) 清凉寺 ↓(徒歩) 龍潭寺 ↓(徒歩) 千代神社 ↓(徒歩) 彦根駅 ↓(電車) 米原駅 ↓(徒歩7分) 青岸寺 ↓(徒歩7分) 米原駅 周辺のスポット 彦根城 地域の名物 信楽焼 鮒ずし リンク 彦根観光ガイド : 公益社団法人 彦根観光協会 神社紹介 > 滋賀県の神社 > 滋賀県神社庁 千代神社/彦根市 千代神社 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる!

龍潭寺(彦根):彦根の静寂に触れて、苔の道と蓬莱の庭

梅雨の合間の晴天に恵まれ、滋賀県彦根の龍潭寺を訪れました。この日は彦根城や清凉寺も巡ったあとで、歴史と自然が織りなす一日となりました。 龍潭寺は井伊家に縁のある寺院として知られており、古くは遠州・浜松の龍潭寺と同じく、井伊氏の菩提寺としての歴史を持ちます。彦根藩初代藩主・井伊直政の死後、二代直孝の時代に整備が進められました。彦根城からそう遠くない場所に位置しながら、喧騒から離れた山裾にひっそりと佇む姿が印象的です。 山門へと続く参道の脇には、手入れの行き届いた苔が広がっており、陽射しが強い日にもかかわらず、そこだけはひんやりとした空気に包まれていました。静けさの中で、緑が放つ涼やかな気配が心を和ませてくれます。 中に進むと、襖絵や鎧が展示された空間に出会います。中でも、龍潭寺方丈襖絵(りょうたんじほうじょうふすまえ)は、落ち着いた筆致で描かれた風景が印象的で、時間を忘れて見入ってしまいました。武家の歴史を背負うこの寺ならではの展示が、時代の流れを肌で感じさせてくれます。 そして何よりも心に残ったのは、蓬莱池泉庭(ほうらいちせんてい)の佇まいでした。池泉式の庭園は、蓬莱神仙思想の影響を受けたもので、中央の島が蓬莱山を象徴しているとされます。静かな水面とその周囲を囲む石と植栽が調和し、まるで現実と夢の境を歩いているかのような気分に誘われました。水音も風の音も、どこか遠くで響いているようで、心の奥深くに届くような静寂がありました。 さらに奥へと進むと、大洞観音堂があります。こちらはもともと佐和山城の遺構のひとつとも伝えられ、彦根の歴史の積み重ねを感じさせる場でもあります。堂内には観音像が祀られており、その穏やかな表情が訪れる人の心を静かに見守っているようでした。 帰り道、ふと見上げた山の中腹に「佐和山城跡」の看板が見えました。 かつて石田三成が拠点とした名城が、いまはただ木々の向こうに眠っていると思うと、歴史の重みと同時に、自然と共に時を過ごす建造物の儚さを思いました。 歴史を知り、自然に触れ、心を整える。そんな時間を、龍潭寺は静かに与えてくれました。 旅程 東京 ↓(新幹線/JR琵琶湖線) 彦根駅 ↓(徒歩) 滋賀縣護國神社 ↓(徒歩) 彦根城 ↓(徒歩) 玄宮園 ↓(徒歩) 彦根港/琵琶湖 ↓(徒歩) 清凉寺 ↓(徒歩) 龍潭寺 ↓(徒歩) 千代神社 ↓(徒歩) 彦根...

清凉寺:佐和山を背に、心を澄ます、井伊家の眠る場所

滋賀県彦根市の清凉寺(せいりょうじ)を訪ねました。 彦根駅から東へ向かう道すがら、山の斜面に「佐和山城跡」という大きな看板が現れ、まずはこの土地の歴史に迎えられた気持ちになりました。佐和山は関ヶ原前夜の緊張をはらんだ舞台で、石田三成の居城としてよく知られています。戦後、城は廃され、やがて井伊家が彦根城を築き近世の城下町が形づくられていきました。そんな時代の重なりを思いながら、清凉寺の参道へ足を踏み入れます。 門前は広く、白い砂利が隅々まで敷き詰められていて清々しい景観でした。参道の脇には堂々と枝を広げる松が立ち、風に揺れる葉の音が静けさを際立たせます。境内に入っても同じく砂利が行き届き、掃き清められた空間が続きました。派手さよりも手入れの良さが印象に残り、寺の姿勢がそのまま風景になっているように感じます。 石碑には井伊家菩提寺の文字。彦根藩主としてこの地を治めた井伊家は、関ヶ原後に佐和山から彦根へと時代の舵を切りました。清凉寺は、その一族の祈りと記憶を静かに受け止めてきた場所です。城や武家屋敷が語る政治の歴史に対して、菩提寺は人としての営みを伝える場だと実感します。勝敗と制度が表の歴史なら、弔いと祈りは裏側から時代を支える柱なのだろう、と。 本堂の前に立つと、お賽銭箱は見当たりませんでした。由緒や宗派によっては、賽銭箱を常時置かないお寺もあります。ここでは静かに手を合わせることがいちばんの礼儀だと受けとめ、合掌して日々の感謝を伝えました。広い砂利の反射光がやわらかく本堂の木肌を照らし、短い祈りの時間がいっそう落ち着いたものになりました。 その後、井伊家の墓所にも足を運び、同じように手を合わせました。家の歴史というと豪壮な城や甲冑を思い浮かべがちですが、墓前に立つと、為政者である前にひとりの人であったことが胸に迫ってきます。代々の当主たちが見てきた季節の移ろいも、ここでは砂利の白さや松の緑に静かに沈んでいるようでした。 清凉寺の境内は、観光の高揚をいったん落ち着かせ、土地の時間の流れに歩調を合わせてくれる場所でした。行きがけに見た「佐和山城跡」の看板は、合戦と政の記憶を呼び起こしますが、門前の砂利と松の風情は、それらを包み込む長い静けさを教えてくれます。城と寺、表の歴史と裏の祈り。その両方が重なり合う彦根という土地の輪郭が、ここで少しはっきりした気がしました。 帰り道...