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茂林寺:茅葺きの山門をくぐって、ぶんぶく茶釜の伝説に触れる

群馬県館林市にある茂林寺を訪れました。この日は晴天に恵まれ、穏やかな日差しが心地よく感じられました。 寺の前の道には、茂林寺の伝説『ぶんぶく茶釜』にちなんだ焼き物やかわいらしい置物が並び、訪れる人々を楽しませていました。地元ならではの温かみが伝わる光景です。 総門をくぐり参道へと入ると、そこではちょうど地元の子ども会が主催する「昔あそびフェスティバル」が開催されていました。けん玉やこま回し、竹馬など、昔ながらの遊びに子供たちが夢中になっている姿は、どこか懐かしく微笑ましいものでした。 参道の両側には、様々な表情やポーズをしたたぬきの像が並んでおり、その愛嬌ある姿は茂林寺ならではの風景です。ユーモラスなたぬきたちの姿を楽しみながら歩くうちに、気持ちも和らいでいきます。 茅葺き屋根の趣ある山門をくぐり、本堂へ向かいました。 本堂では静かに参拝を済ませ、中の展示をゆっくりと見学しました。 茂林寺らしく、本堂の中には仏具だけではなく、たぬきの剥製や焼き物など、たぬきにまつわる品々が展示されていました。これらの展示を眺めていると、この寺がなぜ「ぶんぶく茶釜」の伝説と強く結びついているのかがよくわかります。 茂林寺の由来は室町時代までさかのぼります。1426年(応永33年)に開山したと伝わる歴史ある寺院であり、「ぶんぶく茶釜」の伝説を通じて全国的にも知られています。この伝説に登場する不思議なたぬきが恩返しをする物語は、日本人が古くから持つ動物への親しみや自然への感謝の気持ちを伝えているように思えます。 穏やかな時間を過ごしながら、歴史と伝説に触れることができた茂林寺への訪問は、心が豊かになる素敵な一日となりました。 旅程 東京 ↓(電車) 足利市駅 ↓(徒歩) 鑁阿寺 ↓(徒歩) 足利学校 ↓(徒歩) 明石弁天厳島神社(美人弁天) ↓(徒歩) 足利織姫神社 ↓(徒歩) 足利市駅 ↓ 茂林寺前駅 ↓(徒歩) 茂林寺 ↓(徒歩) 茂林寺前駅 ↓(東武伊勢崎線) 東京 関連イベント 周辺のスポット つつじが岡公園 地域の名物 関連スポット リンク 拝観のご案内 – 曹洞宗茂林寺の公式ホームページ 茂林寺 | スポット一覧 | 心にググっと観光ぐんま 21体のたぬき像が出迎える、ぶんぶく茶釜の寺「茂林寺」

足利織姫神社:朱の社と七色の鳥居に導かれて

朝から足利の歴史的な名所を巡り、足利織姫神社(あしかがおりひめじんじゃ)に足を運びました。鑁阿寺や足利学校の見学でひとときを過ごしたあと、すぐ近くにあるこの神社にも寄りました。 神社の入り口に立つと、まず目を引くのは鮮やかな朱塗りの社殿です。青空を背景に、その赤が一層際立ち、どこか非日常の世界に誘われるような気持ちになりました。織姫神社という名前からも分かる通り、ここは織物のまちとして知られる足利の歴史と深く結びついています。古くからこの地では織物産業が盛んで、織姫神社は、機織りや産業繁栄、さらには縁結びの神様として地域の人々に親しまれてきました。 境内には「七色の鳥居」と呼ばれる鳥居が並び、どれも色鮮やかで、思わず写真を撮りたくなります。ひとつひとつの鳥居をくぐるたび、願い事が叶うと言われているそうです。私も静かに願いを込めながら、心を整えて歩きました。 山の中腹にある神社からは足利の町並みを一望でき、歴史と自然が調和する景色が広がっていました。喧騒から少し離れ、心をリセットできる場所でもあると感じます。短い時間でしたが、足利の伝統と人々の祈りが息づくこの神社で、改めて日本の文化の奥深さに触れることができました。 歴史ある足利の町歩きの締めくくりに、足利織姫神社の静かな美しさと温かい空気を感じられたことは、とても印象に残っています。 旅程 東京 ↓(電車) 足利市駅 ↓(徒歩) 鑁阿寺 ↓(徒歩) 足利学校 ↓(徒歩) 明石弁天厳島神社(美人弁天) ↓(徒歩) 足利織姫神社 ↓(徒歩) 足利市駅 ↓(東武線) 茂林寺前駅 ↓(徒歩) 茂林寺 ↓(徒歩) 茂林寺前駅 ↓(東武伊勢崎線) 東京 周辺のスポット 鑁阿寺 足利学校 足利市立美術館 明石弁天厳島神社(美人弁天) リンク 足利織姫神社 足利織姫神社 | とちぎ旅ネット〜栃木の観光旅行情報サイト 足利織姫神社 | 足利市観光協会 | 学び舎のまち足利 織姫神社  社殿・神楽殿・社務所・手水舎(おりひめじんじゃ  しゃでん、かぐらでん、しゃむしょ、ちょうずしゃ) | 足利市 公式ホームページ

明石弁天厳島神社(美人弁天):技芸のまちで祈る、小さな願い

朝から足利学校を目当てにまち歩きをはじめ、鑁阿寺の大銀杏に秋の名残を見つけ、次は足利織姫神社へ——と進む前に、少しだけ回り道をして明石弁天厳島神社に立ち寄りました。 市街地のざわめきからふっと音が引くように、境内は土曜の昼下がりらしい静けさに包まれていました。鳥居をくぐると、弁天像がいくつも視線をやさしく迎えてくれます。 水辺や島とゆかりの深い弁才天(弁天さま)は、もともとインドの河の女神サラスヴァティーを源流とし、日本では中世に音楽・芸能・知恵の守護、のちには財福にも通じる神として信仰が広がりました。「厳島神社」を名乗る社が各地にあるのは、安芸の厳島に鎮まる宗像三女神や弁天信仰が重なり合い、池や中島に社殿を配する風景が日本の町場に受け入れられていった歴史の名残でもあります。 足利は織物の町として栄え、機(はた)を織る手の巧みさもまた「技芸」のひとつ。そう思うと、弁天さまがこの土地で大切にされてきたことに、どこかしっくりくるものがあります。境内に並ぶ弁天像の前で足を止め、耳を澄ますと、水の気配や糸を紡ぐ音まで想像できるようでした。社務所の掲示には「毎月第1・第3日曜日に美人証明を発行」とあり、次に来る楽しみがひとつ増えます。今日はあいにくの土曜日で人影もまばらでしたが、その分、参拝の手を合わせる音や鈴の響きが澄んで聞こえ、旅の途中で呼吸を整えるには最高の時間でした。 旅程を振り返れば、学びの象徴である足利学校、武家の歴史を感じる鑁阿寺、産業と恋のご縁をつなぐ足利織姫神社——そこに弁天さまの社を加えると、知・武・技・縁が小さな一日で見事に輪を描いたように思えます。静かな境内を後にして坂を上がると、街の音が戻ってきました。次に訪ねるときは日曜日を選び、美人証明を手に、芸事とご縁の上達を願ってみよう。そんなささやかな約束を心に、足利の散策を続けました。 旅程 東京 ↓(電車) 足利市駅 ↓(徒歩) 鑁阿寺 ↓(徒歩) 足利学校 ↓(徒歩) 明石弁天厳島神社(美人弁天) ↓(徒歩) 足利織姫神社 ↓(徒歩) 足利市駅 ↓(東武線) 茂林寺前駅 ↓(徒歩) 茂林寺 ↓(徒歩) 茂林寺前駅 ↓(東武伊勢崎線) 東京 周辺のスポット 鑁阿寺 足利学校 足利市立美術館 足利織姫神社 リンク 美人弁天|「美人の国 足利」栃木県足利市の美人弁天 本城厳島神社(明石弁天、美人弁天) | ...

足利学校:学びの原点をたずねて、宥座之器が教えてくれた中庸の知恵

鑁阿寺(ばんなじ)を参拝したあと、その足で向かったのが、今回の旅の主目的でもある足利学校でした。日本最古の学校とされるこの場所は、現在学校関連のシステムを開発しており、教育に携わる者として一度は訪れておきたいと前々から思っていた場所です。 入徳門(にゅうとくもん)をくぐり中でチケットを買ったあと、学校の成り立ちを紹介するビデオを鑑賞しました。映像を通して、足利学校が奈良時代から平安時代にかけて成立し、室町時代には関東管領の足利氏によって大きく整備されたこと、戦国時代には上杉憲実(うえすぎ のりざね)によって儒学の拠点として再興されたことなど、その長い歴史の歩みを学ぶことができました。特に、江戸時代には庶民にも開かれた学問の場として全国から学徒が集まったという話には、教育の力の広がりを感じました。 次に学校門(がっこうもん)をくぐり、遺蹟図書館へと足を運びました。ここでは、歴代の元号に関する資料や、当時の学問のあり方を伝える貴重な展示が並んでおり、時の流れとともに受け継がれてきた知の蓄積に圧倒されました。書物が単なる情報の集積ではなく、人々の思想や価値観を形づくってきたことを実感できる空間でした。 杏壇門を通って訪れたのは、孔子廟です。そこには静謐な空気が流れ、儒教の祖・孔子を祀るための厳かな雰囲気が漂っていました。孔子像の前に立ち、かつての学徒たちがどのような気持ちでここを訪れたのかに思いを馳せました。 庭園を抜けて、方丈、書院、そして庫裡へと進むと、そこには当時の生活と学問の場が再現されており、儒学の精神が日々の営みの中にどのように息づいていたのかが伝わってきました。中でも私の心に強く残ったのは、「宥座之器(ゆうざのき)」と呼ばれる器でした。この器は、水が少なければ倒れ、多すぎても倒れ、適量のときだけ真っ直ぐに立つという仕掛けになっており、中庸の大切さを教える象徴として用いられていたそうです。目に見える形で「ほどほど」「バランス」という「中庸(ちゅうよう)」の概念を伝えるこの道具には、教育における知恵の深さを感じずにはいられませんでした。 足利学校は、単に古いというだけでなく、長い時間をかけて人々が学問と向き合ってきた場としての重みを今に伝えてくれます。教育とは何か、人は何を学ぶべきかをあらためて問いかけてくるような場所でした。この地に足を運び、時代を超えて続く知...

鑁阿寺:足利の秋、武家の記憶が残る寺院

秋の気配が深まりはじめた本日、足利学校へ向かう途中、私はふと思い立って鑁阿寺(ばんなじ)に立ち寄りました。少し肌寒さを感じる季節ではありましたが、空気は澄んでいて、散策にはとても心地よい日和でした。 鑁阿寺は、鎌倉時代に足利義兼(よしかね)によって創建された、真言宗大日派の本山です。もともとは足利氏の邸宅跡に建てられた寺院で、寺というよりは「武家屋敷と城郭の面影を色濃く残す寺院」とも言われています。 現在も境内には堀や土塁が巡らされており、いわゆる寺院建築とは一線を画す、武士の拠点としての面影を残しています。この独特の歴史的背景から、鑁阿寺は「日本100名城」にも選定されているのです。 境内では、まず本堂で静かに手を合わせました。国宝に指定されているこの本堂は、鎌倉時代の建築様式を伝える貴重な建物で、威厳がありながらも、どこか温かみを感じさせる佇まいです。 その後、多宝塔へ足を運びました。朱塗りの塔は木々の緑や秋の陽射しとよく調和しており、まるで絵画のような景色が広がっていました。 鐘楼の素朴な木造の構造や、経蔵に息づく書物への敬意もまた、鑁阿寺がいかに信仰と学問の場であったかを静かに語りかけてくるようでした。 鑁阿寺は単なる観光名所ではなく、足利氏の興亡を今に伝える歴史の舞台でもあります。そして、足利学校という日本最古の学び舎へ向かう前に、こうしてその祖となった武家の足跡を辿ることができたのは、私にとってとても意味深い体験となりました。今度は春や初夏、あるいは紅葉の盛りにも再訪し、また違った顔の鑁阿寺に出会ってみたいと思っています。 旅程 東京 ↓(電車) 足利市駅 ↓(徒歩) 鑁阿寺 ↓(徒歩) 足利学校 ↓(徒歩) 明石弁天厳島神社(美人弁天) ↓(徒歩) 足利織姫神社 ↓(徒歩) 足利市駅 ↓(東武線) 茂林寺前駅 ↓(徒歩) 茂林寺 ↓(徒歩) 茂林寺前駅 ↓(東武伊勢崎線) 東京 周辺のスポット 足利学校 足利織姫神社 足利市立美術館 明石弁天厳島神社(美人弁天) リンク 国宝 鑁阿寺 鑁阿寺(ばんなじ) | 足利市 公式ホームページ

不破関跡/不破関資料館/兜掛石・沓脱石

大河ドラマで話題の関ケ原に行ってきました。 関ケ原と言えば、関ケ原の合戦ですが、歴史上もう一つ大きな戦いがあります。壬申の乱です。 その壬申の乱で大きな役割をした関所が不破関(ふわのせき)です。 壬申の乱は672年(天武天皇元年)、大海人皇子(おおあまのおうじ、後の天武天皇)が、天智天皇の太子である大友皇子に対し兵をあげ、反乱者側の大海人皇子が勝利しました。このとき、不破の道を塞いだことが大きな勝因となりました。 壬申の乱の後、不破の道に関所が置かれ、愛発関、鈴鹿関と並んで三関と呼ばれました。 関所があったから、関ケ原と呼ばれるようになったのでしょうか(ここは私の適当な想像です)。 不破関跡の近くには、不破関資料館があり、壬申の乱や不破関について学ぶことができます。 また、同じく不破関跡の近くに、大海人皇子が沓(くつ)を脱いだ沓脱石(くつぬぎいし)と、 兜をかけた兜掛石(かぶとかけいし)があります。人家の横を通って畑の中に行くので気が引けますが、入って大丈夫でした。 旅程 東京 ↓(新幹線/JR東海道) 関ケ原駅 ↓(徒歩) 関ケ原古戦場 ↓(徒歩) 関ケ原笹尾山交流館 ↓(徒歩) 関ヶ原戦国甲冑館 ↓(徒歩) 関ケ原ウォーランド ↓(徒歩) 不破関跡 ↓(徒歩) 不破関資料館 ↓(徒歩) 関ケ原駅 周辺のスポット 不破関資料館 兜掛石・沓脱石 関ケ原古戦場 関連スポット 愛発関(現在は位置は不明) 鈴鹿関 リンク 不破関とは|関ケ原町歴史民俗学習館 不破関資料館|関ケ原町歴史民俗学習館 不破関跡 | スポット情報 | 関ケ原観光ガイド 不破関資料館 | スポット情報 | 関ケ原観光ガイド 兜掛石・沓脱石 | スポット情報 | 関ケ原観光ガイド 【不破関跡:関ヶ原宿|散策ガイド】岐阜県十七宿美濃中山道散策ガイド

関ヶ原古戦場/岐阜関ケ原古戦場記念館/関ケ原笹尾山交流館/関ヶ原戦国甲冑館

本日、岐阜県不破郡の関ヶ原古戦場を歩きました。戦国時代のクライマックスともいえる関ヶ原の戦いの舞台を、実際に自分の足でたどってみたいと思い、日帰りで訪れました。 関ケ原駅を降りると、周囲はのどかな田園風景ですが、案内板には「東軍陣跡」「西軍陣跡」といった文字が並び、すでに歴史散策モードに切り替わります。駅から道なりに進んでいくと、まず岐阜関ケ原古戦場記念館が現れました。ここを最初の拠点にして、ビデオシアターや展示で関ヶ原の戦いの全体像を頭に入れてから歩き出すことにしました。 館内では、1600年に起こった関ヶ原の戦いがどのような経緯で勃発し、どのような布陣で戦われたのかを、映像と模型を使って分かりやすく解説していました。徳川家康率いる東軍と石田三成を中心とした西軍が、この東西交通の要衝・関ヶ原に集結し、日本の行方を決める一日限りの大会戦が行われたことを、改めて「物語」として体感できます。予備知識として知っていたつもりの歴史も、大画面で合戦の様子を疑似体験すると、頭の中に立体的に配置されていくのが分かりました。 記念館を出たあとは、いよいよ古戦場を歩き始めます。まず向かったのは細川忠興陣跡でした。静かな田畑の中に陣跡の標柱と説明板が立っているだけなのですが、記念館で見た布陣図を思い出しながら眺めると、ここに細川勢が控えていたのだと実感がわいてきます。そのまま決戦地へと足を進めると、一気に視界が開けました。現在は穏やかな平地ですが、この場所で短時間のうちに戦局が決し、多数の武将たちの運命が変わったのだと思うと、風景の見え方が変わります。 さらに進んで、石田三成陣跡や島左近陣跡を訪ねました。石田三成の本陣が置かれた笹尾山は小高い丘になっており、上まで登ると関ヶ原の盆地が一望できます。ここからなら東軍の動きだけでなく、西軍諸隊の配置もよく見えたはずで、三成がこの場所を本陣に選んだ理由が体感的に理解できます。島左近陣跡の近くには関ケ原笹尾山交流館や関ヶ原戦国甲冑館があり、甲冑や武将に関するさまざまな資料に触れることができました。大きな博物館とはまた違う、地域に根ざした展示や解説が印象的で、地元の方々の「関ヶ原を伝えたい」という思いも感じられます。 その後も、古戦場内の各スポットを順に巡りました。徳川家康最後陣跡では、合戦の途中で家康が本陣を前進させ、勝利を確信して采配を振るっ...