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六波羅探題跡/六波羅蜜寺:権力の跡は静かに、信仰の場は今もにぎわう京都の一角

京都市の六波羅探題跡に行きました。

六波羅探題という言葉を初めて歴史の勉強で知ったとき、その響きのかっこよさにすっかり惹かれてしまいました。鎌倉幕府が承久の乱のあと、京都・西国支配と朝廷の監視のために六波羅に置いた出先機関で、北条泰時・時房らが初代を務めた重職だったといいます。幕府のなかでは執権・連署に次ぐポジションで、「小鎌倉幕府」とも呼ばれるほどの権限を持っていたそうです。

そんな六波羅探題の跡地が、京都市内の地図に小さく載っているのを見つけてから、「いつか近くまで行ったら寄ってみたい」と思っていました。今回、京都観光の予定に少し余裕があったので、ついにその「六波羅探題跡」を目指して歩くことにしました。頭の中では、復元された建物とまではいかなくても、少なくとも立派な石碑くらいはあるだろうと勝手にイメージしながら向かいました。

ところが、目的地に近づくにつれて目につくのは「六波羅蜜寺」という看板ばかりです。「六波羅探題はどこだろう?」と思いながら地図を頼りに歩いていくと、たどり着いた先には、堂々とした山門を構えた大きなお寺がありました。門にははっきりと「六波羅蜜寺」と書かれていて、説明板にも六波羅蜜寺の歴史のことしか書かれていません。六波羅探題跡を探しに来たはずが、目の前にあるのは立派なお寺。「あれ? 探題は?」と首をかしげつつも、せっかくなのでまずは参拝することにしました。

六波羅蜜寺は、天暦5年(951年)に空也上人が、当時京都で流行していた悪疫退散を願い、十一面観音像を本尊として創建したのが始まりとされます。現在は西国三十三所巡礼の第17番札所としても知られ、多くの信仰を集めてきた古刹です。 そうした背景を知っていると、境内に足を踏み入れたときの静かな空気にも、どこか「京の都を見守ってきた場所」という重みを感じます。

境内を歩いていると、「令和館」という新しい建物がありました。外観からして宝物館のようだったので、中に入ってみることにしました。中には平安〜鎌倉期の仏像を中心に、重要文化財に指定された像がずらりと並んでいます。静かな照明の中、一体一体と向き合っていくと、当初「六波羅探題跡を見に来た」という目的は半分どこかに飛んでいき、純粋に仏像鑑賞を楽しんでいる自分に気づきました。

そして二階へ上がると、そこにあったのが空也上人立像でした。鉦と鹿杖を手に、口元から六体の小さな阿弥陀仏が列をなして飛び出している、あの強烈なビジュアルの像です。念仏「南無阿弥陀仏」の六字が、そのまま仏の姿になって現れているともいわれる表現で、鎌倉時代の仏師・康勝(運慶の四男)の作と伝えられ、重要文化財に指定されています。

この像は、歴史の資料集や展覧会の図録などで何度か見たことがあり、「いつか本物を見てみたい」とぼんやり思っていた存在でした。まさか六波羅探題跡を探しに来た流れで、偶然その空也上人と対面することになるとは想像もしておらず、本当に驚きました。口からこぼれるように伸びる阿弥陀仏の列は写真で見慣れていたはずなのに、実物を前にすると、表情の細やかさや体のひねり、衣の質感など、細部の迫力がまったく違います。

「こんな出会いが待っていたのか」と、予想外の収穫にすっかり気分が高まったまま令和館を後にし、境内をもう一度歩き直しました。文化財保護のための寄進を募る紙が目に入り、空也上人とのまさかの再会に興奮した勢いもあって、ささやかながら寄進もさせていただきました。自分の中では、「六波羅探題を見に来たはずが、気づけば六波羅蜜寺の信者のような顔をしているな」と内心苦笑しつつも、悪くない展開だなと思いました。

すっかり満足して山門へと戻り、さて次の目的地の八坂神社へ向かおうとしたそのとき、ふと足元を見ると、石畳の端にひっそりと「六波羅探題跡」と刻まれた石碑が立っていました。視線を少し落とさなければ見落としてしまいそうな控えめなサイズで、「こんなところに隠れていたのか」と思わず笑ってしまいました。六波羅探題は鎌倉幕府の西国支配の要所でありながら、その跡地は、今では六波羅蜜寺の境内の片隅で静かに存在を伝えているだけです。

承久の乱後、京都と西国の監視・裁判・治安維持を担った六波羅探題は、鎌倉幕府にとって極めて重要な機関でしたが、幕府滅亡とともにその役割は終わり、建物も残っていません。 そのかわり、同じ六波羅の地には、さらに古い時代から都を見つめてきた六波羅蜜寺があり、空也上人をはじめ多くの仏像が、疫病や戦乱の時代を越えて今も残っています。

「六波羅探題」という名前の格好よさに惹かれて足を運んだ先で、実際に強い存在感を放っていたのは、六波羅蜜寺の歴史と、空也上人立像をはじめとする仏たちでした。最後に足元の小さな石碑を見つけたとき、「権力の中心だった六波羅探題は跡形もなく消え、信仰の場である六波羅蜜寺だけが残った」という歴史の皮肉のようなものも感じました。

期待していたものとは少し違う形ではありましたが、六波羅探題跡を訪ねた今回の小さな寄り道は、歴史の教科書と現代の京都が、思いがけないところでつながる面白い体験になりました。次に地図の上で「○○跡」という文字を見つけたら、「その跡地の今の姿はどうなっているのだろう」と想像しながら、またどこかを歩いてみたくなります。

旅程

東京

↓(新幹線)

京都駅

↓(徒歩)

西本願寺

↓(徒歩)

東本願寺

↓(徒歩)

京都鉄道博物館

↓(徒歩)

梅小路京都西駅

↓(JR/地下鉄)

烏丸御池駅

↓(徒歩)

京都文化博物館

↓(徒歩)

六波羅探題跡/六波羅蜜寺

↓(徒歩)

八坂神社

↓(徒歩)

知恩院

↓(徒歩)

東山駅

↓(地下鉄)

京都駅

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  • 建仁寺
  • 八坂庚申堂

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