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京都文化博物館:「世界遺産 縄文」

京都観光の一日、赤レンガの重厚な建物が目印の京都文化博物館を訪れました。明治期に日本銀行京都支店として建てられた洋館を活用したこの博物館は、いまは京都の歴史と文化を総合的に紹介する施設として親しまれています。

今回の目的は、特別展「世界遺産 縄文」。世界文化遺産「北海道・北東北の縄文遺跡群」を中心に、縄文時代を「一万年」「一生」「一年」という三つの時間軸でたどる展示でした。

最初のコーナーは「北の縄文文化“一万年”」。北海道から北東北にかけて一万年以上続いた暮らしを、旧石器時代から縄文時代までの流れの中で紹介していました。これらの遺跡群は、狩猟・漁労・採集を基盤としながら定住生活を営んだ人々の営みを今に伝えるとして、2021年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。

会場には、鋭くとがった尖頭器や石鏃、縄文土器、動物の骨を加工した釣針などが並び、数字や文字のない時代の「道具のことば」が、静かにこちらに語りかけてくるようでした。

印象的だったのが、大湯環状列石の土版の複製です。「縄文人の数遊びによって作られた」という解説が添えられていましたが、その幾何学的な模様は、どこかSF的な雰囲気もあり、古代と未来がつながったような不思議な感覚を覚えました。

展示室の奥には、教科書や図録でおなじみの遮光器土偶や中空土偶も登場します。大きくデフォルメされた目や、ぎゅっと詰まった模様の密度は、やはり実物を前にすると圧倒的で、「どうしてこんな形を思いついたのだろう」と、縄文人の想像力にあらためて驚かされました。

二つ目のコーナー「縄文人の“一生”」では、誕生から死、そして祈りまで、人の一生に寄り添うように出土品が並んでいました。

最初に目に入ったのは、妊婦型の土偶たちです。お腹がふくらんだ姿はもちろん、座っている土偶について「祈っているポーズ」だけでなく、「座産の様子を表している」とする説が紹介されており、土偶がより具体的な「出産の場面」と結びついて見えてきました。祈りと現実の身体感覚が、ひとつの造形の中で溶け合っているように感じます。

小さな手形や足形を押した土製品も印象的でした。そこには、子どもの成長を願ったり祝ったりする、ごく当たり前の「親心」がにじんでいます。数千年前の子どもの手足の大きさを想像しながら眺めていると、時間の距離が一気に縮まり、「この子も、誰かに大事にされていたのだな」と、静かな温かさが伝わってきました。

櫛や髪飾り、ヒスイ玉の装飾品なども多く展示されており、「おしゃれをする」という感覚の古さにも驚きます。遠くから運ばれたヒスイは、単なる装身具であると同時に、共同体の絆や祈りの象徴でもあったのでしょう。小ぶりながらも緻密に刻まれた模様に、身につける人の誇らしさがにじんでいました。

この「一生」のコーナーの最後には、動物に関する展示が続きます。クマやイノシシ、サル、魚など、多様な動物をかたどった土偶は、どれもどこかコミカルで愛嬌があります。丸みを帯びた体つきや、少し崩したような顔立ちは、現代の日本のキャラクターデザインにも通じるようで、「日本人の祖先だな」と思わず頷いてしまいました。

一方で、犬を丁寧に埋葬した跡の資料も紹介されており、動物が単なる「獲物」ではなく、仲間として暮らしていたことがうかがえます。狩猟のパートナーであり、家族でもあった存在に対して、墓を設けて弔うという行為に、縄文人の世界観の深さを感じました。

最後のコーナーは「縄文人の“一年”」。季節のめぐりの中で、狩りや漁、採集をしながら生きていた人々の日々が浮かび上がるような展示でした。

槍やヤスなどの狩猟・漁労の道具が並びます。縄文時代の人々は、豊かな森と海に支えられながら、一年を通じて獲物や木の実を追い、季節ごとに違う恵みを享受していました。世界遺産に登録された遺跡群も、こうした「狩る・採る・釣る」を基盤としながら、定住生活を長く続けた点が高く評価されています。

個人的に驚いたのは、採集したものを保存するための網籠です。植物の繊維で編まれた籠が、押しつぶされた状態ながらも残っており、網目の細かさや構造がわかるように展示されていました。食べ物そのものは跡形もなく消えてしまっても、それを支えた「入れ物」がこうして残り、当時の暮らし方を教えてくれるのが面白いところです。

祈りに関わる仮面や祭器も並び、祈る姿をかたどった土偶も見られました。顔を覆うような仮面、胸のあたりに意識を集めるようなポーズなど、どれも「どう願い、どう恐れ、どう感謝していたのか」を想像させてくれます。一万年以上にわたり続いた縄文社会は、自然への畏敬と祈りを軸にした、きわめて持続可能なあり方だったと言われますが、目の前の土器や土偶がその抽象的な言葉に具体的な重みを与えてくれました。

縄文時代の展示を見ると、いつも心に残るのは、造形の繊細さと、どこかユーモラスなデフォルメです。細かすぎるほどの文様と、思い切り誇張された目や手足。その組み合わせに、「そうそう、日本人ってこういう感じだよな」と、遠い祖先に親近感を覚えます。

今回は北の遺跡が中心でしたが、似たような土器や土偶、装飾品は、日本列島の南から北まで幅広く見つかっています。地域ごとの差はあっても、「縄文らしさ」と呼びたくなる造形感覚が列島全体に共有されていたことを、あらためて実感しました。

特別展を見終えたあと、今度は二階の常設展へ移動しました。こちらは「旧石器~弥生」「平安」「鎌倉/室町」「戦国/江戸」「明治以降」と、京都の歴史を大きな時代区分ごとに紹介する構成になっています。

「京都=平安京以降の都」というイメージが強かっただけに、「旧石器~弥生」のコーナーに京都の遺跡が並んでいるのは新鮮でした。都としての京都の前に、ここにも長い狩猟採集や農耕の時代があり、人々の暮らしが折り重なっていたことを具体的に感じさせてくれます。

平安以降の展示では、貴族文化から武家の時代、戦国の動乱、江戸時代の町人文化、そして明治以降の近代化へと、京都が何度も姿を変えながら生き延びてきた歴史が紹介されていました。近年は「映画の都」「時代劇の舞台」としての京都の姿も強く意識されますが、そうした現代のイメージも、千年以上の都市の歴史の上に積み重なったごく新しいレイヤーなのだと感じます。

赤レンガの館そのものも、明治期の近代建築として重要文化財に指定されており、銀行として使われていた当時の重厚な雰囲気をよく残しています。縄文の一万年と、京都の千年、そして近代の百年余りが、一つの建物の中で共存しているようで、時間のスケール感がおもしろく混ざり合いました。

今回の「世界遺産 縄文」展は、「一万年」「一生」「一年」という三つの時間軸のおかげで、遺物をただ年代順に並べるのではなく、暮らしや感情の流れの中で縄文人をイメージしやすい構成になっていました。土偶のコミカルな表情や、子どもの手形、犬の埋葬跡など、どれも「確かにここに生きていた誰か」を感じさせるものばかりでした。

そのあとに見た京都の常設展では、都としての歴史だけでなく、その前後に広がる時間も含めて京都をとらえ直すことができました。縄文の北の遺跡と、古都・京都の歴史を同じ日に、同じ博物館で行き来したことで、「日本列島の時間の厚み」に少しだけ触れられたように思います。

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