東京都中央区の国立映画アーカイブを訪れました。東京の中心部にありながら、館内に入ると、そこには映画という娯楽がどのように日本へ入り、どのように社会や文化と結びつきながら発展してきたのかをたどる、濃密な時間が広がっていました。国立映画アーカイブは、国立の美術館の一つでもあり、日本映画に関する資料を保存し、公開し、研究する施設です。映画というと、どうしても作品そのものや俳優、監督に目が向きがちですが、展示を見ていると、映画は単なる娯楽ではなく、技術、産業、スター、観客、そして時代の空気が複雑に重なり合って生まれてきた文化なのだと感じました。
展示の始まりは「日本映画のはじまり」でした。映画が日本に渡来する以前から、江戸時代には幻燈、いわゆるマジック・ランタンがオランダから伝わり、「写し絵」や「錦影絵」として広まっていました。暗い空間に映し出される絵と、それに添えられる語りは、現代の映画とは仕組みこそ違いますが、人々が映像と物語を楽しむ文化の原型のように見えます。ここでの語り物の伝統が、後の「活動弁士」につながっていくという流れは、とても興味深いものでした。映画は突然外国から入ってきた新技術であると同時に、日本にすでにあった語りや見世物の文化とも結びついて受け入れられていったのだと思います。
日本に映画が渡来したのは1896年ごろとされ、その後、日本でも映画作品が作られるようになりました。吉沢商店、横田商会、Mパテー商会、福宝堂といった初期の映画会社が登場し、それらが統合されて日活が誕生していく流れを見ると、映画が一つの産業として急速に形を整えていったことが分かります。まだ映画というもの自体が新しかった時代に、撮影し、上映し、観客を集める仕組みが作られていく様子には、明治から大正にかけての近代化の勢いも感じられました。日本最初の映画スターとされる尾上松之助が人気を集めたことも、映画が単なる珍しい見世物から、人々が俳優に熱狂する大衆文化へと変わっていったことを示しているようでした。
続く「サイレント映画の黄金時代」では、1920年代の日本映画が紹介されていました。この時代を特徴づける存在として、やはり活動弁士があります。サイレント映画は音声のない映画ですが、日本では上映の場で活動弁士が登場人物の台詞や情景を語り、物語に命を吹き込んでいました。徳川夢声のように、俳優をしのぐほどの人気を得た活動弁士もいたという説明からは、当時の観客が映画を「見る」だけではなく、「聞く」ものとしても楽しんでいたことが伝わってきます。欧米のサイレント映画とは異なる、日本独自の映画体験がそこにあったのだと思います。
また、この時代には劇映画だけでなく、記録映画やニュース映画も重要な役割を果たしていました。日露戦争、南極探検、関東大震災などを記録した映像が、新聞社や通信社と連携して制作されていたことを知ると、映画が娯楽であると同時に、社会の出来事を伝えるメディアでもあったことが分かります。写真や新聞だけでは伝わりにくい動きや現場の空気を、映像は観客に直接届けることができます。映画館は、物語を楽しむ場所であるだけでなく、世界や社会の出来事に触れる場所でもあったのだと感じました。
1930年代の展示は「トーキー革命」でした。音声が映画に組み込まれることで、映画表現は大きく変わりました。俳優の声、音楽、効果音が作品の一部となり、映画はより現代の形に近づいていきます。その一方で、サイレント映画時代に独自の存在感を持っていた活動弁士は、徐々に役目を終えていきました。技術の進歩は新しい表現を生み出しますが、同時にそれまでの文化を変化させ、ときには消していくものでもあります。字幕スーパーが定着していったことも含め、映画の近代化が日本の映画文化に与えた影響の大きさを感じました。
松竹や東宝が映画製作・配給を本格化させていくのもこのころです。日本映画の基盤が整い、監督や俳優、撮影所、配給網が結びつきながら、大きな映画産業が形成されていきました。展示を見ながら、先日訪れた松阪の小津安二郎松阪記念館で見た小津安二郎のことも思い出しました。小津安二郎もこの時代から活躍を始め、日本映画を代表する監督となっていきます。別の場所で見た一人の映画人の歩みが、ここでは日本映画全体の歴史の中に位置づけられ、点と点がつながるような感覚がありました。
1940年前後の「戦時下の日本映画」の展示では、映画が時代に翻弄され、また国家に利用されていく側面が紹介されていました。戦時中、映画は娯楽であるだけでなく、プロパガンダの手段として重視されました。国内の映画には検閲が行われ、さらに植民地や占領地でも日本軍による検閲が行われました。映画は人々の感情や認識に大きく働きかける力を持っているからこそ、戦争の時代には統制の対象となり、国家の意図を伝える道具にもなっていったのだと思います。
李香蘭、すなわち山口淑子の存在も、戦時下の映画の複雑さを象徴しているようでした。日本人でありながら中国人女優として活動した彼女の歩みには、映画、植民地支配、国籍、演出されたイメージが絡み合っています。映画スターは観客に夢を与える存在である一方、その夢が政治的な意図や時代の構造と結びつくこともあります。華やかな銀幕の裏側にある歴史を考えると、映画をただ懐かしい娯楽として見るだけではなく、時代を映す資料として見ることの大切さも感じました。
第二次世界大戦後の展示では、日本映画が再び大きく花開いていく様子が紹介されていました。1950年代は「第二次大戦後の黄金時代」と呼ばれる時代で、黒澤明の『羅生門』がヴェネチア国際映画祭で金獅子賞を受賞し、日本映画が世界から注目されるようになりました。敗戦後の混乱を経て、日本映画は国内だけでなく国際的な評価を得る存在になっていきます。黒澤明、小津安二郎、溝口健二などの名が世界で知られるようになった背景には、日本独自の美意識や物語表現が、海外の観客にも強く響いたことがあったのだと思います。
この時代には、ゴジラに代表される特撮映画も生まれました。戦後の不安や核への恐怖を背景にしながら、怪獣映画としての娯楽性も備えたゴジラは、日本映画独自の技術と想像力の結晶のように感じられます。特撮は、現実には存在しないものを映像として立ち上げる技術であり、映画ならではの夢と恐怖を同時に表現する手段でもあります。日本映画の歴史を見ていると、時代劇、現代劇、文芸映画、記録映画、特撮映画と、非常に幅広いジャンルがそれぞれの時代の中で発展してきたことに気づきます。
最後の展示では、日本のアニメーション映画の歴史が紹介されていました。日本で最初のアニメーション作品の一つとされる1917年の『芋川椋三 玄関番の巻』から始まり、大藤信郎が1920年代に千代紙映画社を創立したこと、そして1956年に東映動画が設立され、本格的な長編アニメーション映画が作られていった流れが示されていました。現在、日本のアニメーションは世界的な影響力を持っていますが、その始まりには、試行錯誤を重ねながら映像表現を切り開いてきた人々がいたのだと分かります。
アニメーションの展示を見ていると、日本映画の歴史は実写映画だけでは語れないことを改めて感じました。絵を動かすという表現は、実写とは違う自由さを持っています。現実の制約を超えて、人物も風景も空想世界も描くことができます。その自由さが、やがて子ども向けの娯楽にとどまらず、社会性や哲学性を持つ作品、世界中の観客に届く作品を生み出していったのだと思います。映画史の最後にアニメーションが置かれていたことで、日本映画の未来へ続く大きな流れも感じられました。
展示全体を通して強く感じたのは、映画が長い間「娯楽の王様」として、人々の生活や社会の変化と深く結びついてきたということです。映画は技術革新によって姿を変え、スターを生み、観客の感情を動かし、時代の記録となり、ときには政治や戦争とも関わってきました。フィルムに映された映像は、作られた当時の価値観や空気を残しています。だからこそ映画は、娯楽であると同時に、歴史資料でもあり、文化遺産でもあるのだと思います。
近年は、テレビ、ゲーム、インターネット、動画配信など、映画以外の娯楽が次々に登場し、映画の衰退が語られることもあります。しかし、国立映画アーカイブの展示を見た後では、映画は衰退しているというより、時代ごとに形を変えながら生き続けているのではないかと感じました。映画館で大勢の観客と同じ時間を共有する体験もあれば、配信を通じて世界中の作品に触れる体験もあります。スクリーンの形や視聴環境は変わっても、映像によって物語を伝え、人の心を動かす力は、むしろ以前より広い範囲に届くようになっているのかもしれません。
国立映画アーカイブは、日本映画の有名作品を振り返るだけの場所ではありませんでした。映画が日本に入ってくる前の写し絵から、サイレント映画、トーキー、戦時下の映画、戦後の黄金時代、そしてアニメーションへと続く流れを通じて、映像文化そのものの変化をたどることができる場所でした。映画が好きな人はもちろん、近代日本の文化史やメディア史に関心がある人にとっても、非常に見応えのある展示だと思います。館内を出たあと、これまで何気なく見てきた映画の一本一本の背後に、長い歴史と多くの人々の試行錯誤があることを、改めて意識するようになりました。
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