ギリシャ・アテネのアクロポリスを訪れました。アテネ観光の1日目で、市内の史跡をいくつかまわったあとに向かったこともあり、古代ギリシャの歴史の中心ともいえる場所へ、いよいよ来たのだという高揚感がありました。アクロポリスは小高い丘の上に築かれており、そこへ向かう道のりそのものが、古代の都の中枢へ近づいていくような感覚を与えてくれます。実際に上へ進むにつれて、眼下にアテネの街が広がり、現代の都市の中に古代の聖地が突き出しているような、不思議な景観が印象に残りました。
アクロポリスという名は、一般に「高い丘の上の都市」あるいは「高城」を意味するとされますが、アテネのアクロポリスは単なる要害ではなく、古代アテネ人にとって宗教的にも政治的にも特別な意味を持つ場所でした。とくに紀元前5世紀、ペルシア戦争ののちにアテネが繁栄を極めた時代、この丘の上には壮麗な神殿群が整えられました。今日私たちが思い浮かべるアクロポリスの姿は、その黄金時代の記憶を今に伝えるものです。もっとも、その後の長い歴史の中で、戦争や破壊、改修、転用を繰り返してきたため、現在の姿は古代そのままではなく、幾層もの時代が積み重なった結果でもあります。
入口から少し進んだところで、私はヘロディス・アッティコス音楽堂を上から見下ろしました。非常にきれいな円形の劇場で、石の座席が整然と並ぶ姿には、古代世界の建築の洗練がよく表れていました。この音楽堂は古典ギリシャ時代よりも後のローマ時代に整えられたものですが、アテネという都市が古代ギリシャだけで完結するのではなく、その後も長く地中海世界の重要都市であり続けたことを感じさせます。高台から眺める劇場は、単なる遺跡というより、いまにも観客が集い、何かの上演が始まりそうな生きた空間のように見えました。
さらに進むと、ブーレの門が目に入りました。日本の石垣のように美しく積み上げられた石でできており、その端正な積み方に思わず見入ってしまいました。古代の建築というと神殿の柱や彫刻に目が向きがちですが、こうした門や基礎、石積みの技術にも、文明の成熟がよく表れています。巨大な石を積み上げながら、ただ頑丈であるだけでなく、美しさまで備えているところに、古代ギリシャの建築文化の高さを感じました。遠い異国の遺跡でありながら、日本の城郭の石垣を連想したのも興味深く、石を積むという技術の中に、人間の普遍的な美意識があるのかもしれないと思いました。
アテナ・ニケ神殿とプロピュライアのある区域では、非常に高い壁と柱の間を通りました。この一帯は、アクロポリスの聖域へ入っていくための重要な入口にあたり、まさに儀式的な空間だったのだろうと思わせる迫力がありました。プロピュライアは単なる門ではなく、聖なる場所への境界を示す壮大な建築です。その間を歩いていると、観光地を見学しているというよりも、古代の人々と同じように聖域へ足を踏み入れているような気持ちになります。アテナ・ニケ神殿もまた、勝利の女神に捧げられた小ぶりな神殿でありながら、この入口空間全体に象徴的な意味を与えていたのでしょう。軍事的勝利と都市の誇り、宗教的敬意がひとつの景観にまとめられているところに、古代アテネという都市国家の性格がよく表れているように思えました。
その区域を抜けると、視界が開け、遠くにパルテノン神殿が見えました。アクロポリスといえば、やはりこの建物を思い浮かべる人が多いでしょう。遠くから見るパルテノン神殿は、均整のとれた柱が整然と並び、古代建築の理想のような美しさを感じさせます。紀元前5世紀、ペリクレス時代のアテネの繁栄を象徴する建築であり、都市の守護神アテナに捧げられたこの神殿は、政治的・宗教的・文化的な意味を一身に担っていたはずです。実際にその姿を目の前にすると、歴史の教科書や写真で見てきた以上の存在感があり、アテネという都市がかつてどれほどの自負を持っていたかが、建物そのものから伝わってくるようでした。
ただ、近づいてみると、その美しい神殿も多くの補修が施されており、長い年月の重みを感じました。遠景では完成された古典美に見えても、近くでは傷つき、崩れ、そして再び支えられていることがはっきりと分かります。そこには古代の栄光だけでなく、その後の戦乱や破壊、さらには近代以降の保存と修復の歴史も刻み込まれていました。同時に、失われた部材を見極め、残されたパーツを組み合わせ、不足を補いながら遺跡を未来へつなごうとする現代の技術にも驚かされました。古代人が築いたものの壮大さと、それを受け継ごうとする現代人の努力が、ひとつの建物の中で静かに向き合っているように見えたのです。
次に向かったアテナ古神殿やエレクテイオンでは、パルテノンとはまた異なる趣がありました。とくに屋根が残っていることは印象的で、廃墟としての遺跡というより、かつての建築空間の立体感をより具体的に想像させてくれます。エレクテイオンは、アクロポリスの中でも複雑な信仰や伝承を背負った建物として知られ、整然としたパルテノンとは違う繊細さを感じさせます。アクロポリスは単に大きな神殿が一つある場所ではなく、複数の建物や記念物が互いに関係し合いながら、都市の信仰と記憶を形づくっていたのだと分かります。ひとつひとつを見ていくほどに、この丘全体が壮大な宗教空間であり、同時に都市国家アテネの自己表現の場でもあったのだと実感しました。
その後も、いくつかの建物や石造を見ながら丘の上を歩きましたが、どこを見ても、ただ古いだけでは片づけられない密度の高い歴史がありました。古代ギリシャの時代だけでなく、ローマ時代、ビザンツ時代、オスマン帝国時代、そして近代以降の修復まで、さまざまな時代がこの場所に重なっています。そのためアクロポリスは、古典古代の記念碑であると同時に、ヨーロッパと地中海世界の長い歴史そのものを映す場所でもあるのでしょう。丘の上で風に吹かれながら遺跡を見ていると、ひとつの文明の栄華だけでなく、それが変化し、失われ、それでもなお記憶され続けることの重みを感じました。
こうしてホテルへ戻るころには、アクロポリスは単なる有名観光地ではなく、歴史の層を体で感じられる特別な場所として心に残っていました。アテネの街を見下ろす高台に立ち、古代の劇場や門、神殿群をたどって歩く体験は、過去と現在が一続きであることを強く意識させます。遠くから見れば美しい遺跡、近くで見れば補修の跡を残す歴史の現場。その両方をあわせ持つからこそ、アクロポリスは世界中の人を引きつけるのでしょう。アテネ観光の初日にこの場所を訪れたことで、この街を理解するための大きな軸を最初に得られたように思います。古代ギリシャ文明の象徴を実際に歩いて見た経験は、今振り返っても、アテネの旅を代表する一日でした。
エーゲ文明の誕生
古代ギリシャ文明の歴史は、一般にポリスが成立する時代から本格的に語られることが多いですが、それ以前のエーゲ海周辺には、すでに高度な文明が栄えていました。これらはまとめて「エーゲ文明」と呼ばれ、その代表がクレタ島のクレタ文明と、ギリシャ本土のミケーネ文明です。
エーゲ海は、ギリシャ本土、小アジア、クレタ島の間に多くの島々が点在する海域です。この地域は地中海東部のエジプトや西アジアとも海上交通によって結ばれており、古くから人や物、技術、文化が行き交っていました。
紀元前2000年頃になると、クレタ島を中心にクレタ文明が発展しました。「ミノア文明」と呼ばれることもあります。クレタ島にはいくつもの宮殿が築かれましたが、とりわけ有名なのがクノッソスです。
クノッソス宮殿は、単に王が暮らすための宮殿ではなく、政治や宗教、経済活動の中心となる巨大な施設でした。複雑な通路や多数の部屋、倉庫などを持っていたことから、ギリシャ神話に登場する怪物ミノタウロスと「迷宮」の伝説との関係を指摘されることもあります。
クレタ文明では海上交易が盛んに行われました。クレタ島からはエジプトや西アジアとの交流を示す品々が発見されており、東地中海世界の広い交易網の中で繁栄していたことが分かります。
宮殿の壁には鮮やかな色彩の壁画が描かれました。牛を飛び越える人々を描いた「牛跳び」の壁画などは特に有名です。後のギリシャ美術と比べても、人物や動物が生き生きと描かれていることがクレタ美術の特徴です。
クレタ文明では「線文字A」と呼ばれる文字も使用されていました。しかし、この文字は現在でも完全には解読されていません。そのため、クレタ文明を築いた人々がどのような言語を話していたのかについては、分からない点が多く残されています。
一方、紀元前16世紀頃になると、ギリシャ本土でミケーネ文明が発展します。代表的な都市がミケーネで、このほかティリンスやピュロスなどにも有力な王国が存在していました。
ミケーネ文明は、クレタ文明から大きな影響を受けましたが、その社会の性格には違いも見られます。クレタ島の宮殿には大規模な防御施設があまり見られないのに対し、ミケーネなどの都市は巨大な石を積み上げた城壁によって囲まれていました。
ミケーネの「獅子門」は、その象徴ともいえる遺構です。巨大な石を組み合わせた城壁は、後世のギリシャ人が「人間ではなく、一つ目の巨人キュクロプスが築いた」と考えたことから、「キュクロプス式城壁」と呼ばれることもあります。
ミケーネ文明では、「線文字B」と呼ばれる文字が使用されました。線文字Bは20世紀に解読され、その言語が古い形のギリシャ語であることが明らかになりました。つまり、少なくともミケーネ文明を築いた支配層の言語は、後の古代ギリシャ人につながるギリシャ語だったのです。
紀元前15世紀頃には、ギリシャ本土のミケーネ人がクレタ島にも進出し、クノッソスなどを支配するようになったと考えられています。こうしてエーゲ海世界の中心は、しだいにクレタ島からギリシャ本土へ移っていきました。
しかし、紀元前1200年頃になると、ミケーネ文明の宮殿社会は相次いで崩壊します。ミケーネ、ピュロスなど多くの拠点が破壊・放棄され、東地中海世界全体でもヒッタイト帝国の滅亡や各地の都市の破壊など、大きな社会変動が起こりました。
この大変動の原因については、一つに決めることはできません。かつてはドーリア人の侵入によってミケーネ文明が滅亡したと説明されることが多くありましたが、現在では、民族移動だけでなく、戦争、内乱、交易網の崩壊、地震、気候変動など複数の要因が重なった可能性が考えられています。
ミケーネ文明の崩壊後、ギリシャでは宮殿を中心とした政治・経済システムが失われ、線文字Bも使われなくなりました。この紀元前12世紀頃から紀元前8世紀頃までの時代は、従来「暗黒時代」と呼ばれてきました。
ただし、「暗黒時代」という名前は、当時の社会そのものが完全に停滞していたという意味ではありません。文字による記録や考古学的資料が比較的少ないため、研究者から見て実態を把握しにくい時代だったことに由来する名称です。現在では「初期鉄器時代」と呼ばれることもあります。
この時代には鉄器の利用が広がり、各地に新しい共同体が形成されていきました。そして紀元前8世紀頃になると、アテネやスパルタなどに代表されるポリスが発展し、再び文字が使用されるようになります。このとき採用されたのが、フェニキア文字をもとに作られたギリシャ文字でした。
さらに、長く口承されてきたと考えられるトロイア戦争の物語も、この頃に『イリアス』『オデュッセイア』として形を整えていきます。これらの物語に登場するミケーネやピュロスなどは、まさにミケーネ文明の中心地でもありました。
そのため、エーゲ文明は単に「古代ギリシャ以前に存在した文明」ではありません。クレタ文明からミケーネ文明へ、さらにその崩壊後の社会変化を経て、やがてポリスを中心とする古代ギリシャ文明へとつながっていく、ギリシャ史の重要な出発点なのです。
紀元前2000年頃にクレタ島で宮殿文明が栄え、紀元前16世紀頃からギリシャ本土でミケーネ文明が発展し、紀元前1200年頃に宮殿社会が崩壊するという大きな流れを押さえておくと、その後のホメロスの時代やポリスの成立も理解しやすくなります。エーゲ文明は、古代ギリシャ世界が突然誕生したのではなく、東地中海世界との長い交流と文明の興亡の上に形成されたことを示しているのです。
パルテノン神殿
パルテノン神殿は、アテネのアクロポリスにそびえる古代ギリシャ建築の代表作であり、古典古代を象徴する存在です。紀元前5世紀、ペリクレスの主導した大規模な再建計画の中心として建てられ、アテネの守護女神アテナ・パルテノスにささげられました。単なる宗教施設ではなく、当時のアテネの政治的威信、対ペルシア戦争後の自信、そして都市国家としての文化的成熟を示す記念碑でもありました。ユネスコもアクロポリスを、古典ギリシャ文明を代表する比類ない記念物群として位置づけています。
神殿の建築は、イクティノスとカリクラテスの設計によって進められ、彫刻家フェイディアスが全体の芸術監督を務めました。工事は紀元前447年に始まり、神殿本体は紀元前438年ごろに完成し、その内部にはフェイディアス作の巨大なアテナ神像が納められました。この神像は金と象牙で作られた壮麗なもので、パルテノン神殿の宗教的・視覚的中心でした。外部の彫刻装飾はその後もしばらく続けられ、メトープ、ペディメント、そして内側のフリーズによって、神殿全体が一つの総合芸術として仕上げられていきました。
建築様式として見ると、パルテノン神殿は基本的にはドーリア式の完成形とされますが、内部フリーズなどにはイオニア式の要素も取り入れられており、両様式の特徴を高い次元で統合した建物です。さらに、この神殿が特別なのは、見た目の完璧さが、実は精密な「錯覚の利用」によって支えられている点にあります。基壇は完全な水平ではなく中央がわずかに持ち上がり、柱もまっすぐな円筒ではなく、下部がややふくらむエンタシスが与えられています。四隅の柱はやや太くされ、明るい空を背景にしたとき細く見えすぎることを防いでいます。こうした微妙な補正によって、石の建物でありながら静止した印象ではなく、張りつめた生命感を帯びた姿になっているのです。なお、今日の私たちは白い大理石の神殿として見がちですが、当時の彫刻には赤、青、緑、黄、金などの彩色が施されており、もともとは現在の印象よりはるかに鮮やかな建築でした。
パルテノン神殿の歴史は、古代で終わりません。アテネが古典期の覇権を失った後も、この建物は長く礼拝の場として使われ続けました。6世紀にはキリスト教の礼拝所となり、聖母マリアにささげられる教会として再利用されます。さらにオスマン帝国支配下では、1458年から1460年ごろにかけてアクロポリスが転用され、パルテノンもモスクとして使われるようになりました。こうして神殿は、古代ギリシャの神殿、ビザンツ時代の教会、のちのモスクというように、時代ごとに役割を変えながら生き延びてきたのです。
その運命を決定的に変えたのが、1687年の戦争でした。ヴェネツィア軍によるアクロポリス砲撃の際、神殿内部に置かれていた火薬庫に砲弾が命中し、大爆発によって中央部が破壊されました。現在見るパルテノン神殿が「壮麗な廃墟」として立っているのは、このときの破壊が大きな理由です。その後も彫刻の一部は持ち去られ、散逸していきました。今日、現存する彫刻の重要部分はアテネのアクロポリス博物館とロンドンの大英博物館などに分かれて収蔵されており、大英博物館自身も、現存する彫刻の約半分がロンドン、約半分がアテネにあると説明しています。一方で、ギリシャ政府は1983年に大英博物館所蔵分の恒久返還を正式に求めており、ユネスコもこの問題について英希間の協議を後押ししています。パルテノン神殿は、古代建築の傑作であると同時に、いまなお文化財の帰属と再統合をめぐる国際的議論の中心でもあるのです。
| 大英博物館 |
この神殿を前にすると、古代ギリシャの人々が求めた美しさとは、単に巨大で立派であることではなく、人間の目にとって最も調和して見える形を徹底的に追求することだったのだと感じます。しかもその美は、宗教、政治、技術、彫刻、色彩までも統合した総合的な創造でした。パルテノン神殿は、アテネの栄光を語る記念碑であると同時に、文明とは何か、美とは何かを二千年以上にわたって問い続ける建築なのだと思います。
古代ギリシャのポリス
紀元前8世紀頃、古代ギリシャでは「ポリス」と呼ばれる都市国家が各地に成立しました。山地が多く平野が分断されているギリシャでは、広大な統一国家ではなく、アテネやスパルタ、コリント、テーベなど、それぞれ独立した政治共同体が発達しました。ポリスの成立は、その後の古代ギリシャの政治や社会、文化を考えるうえで重要な出発点となります。
ポリスは、単なる都市ではありませんでした。中心となる市街地とその周辺の農村を含み、市民が政治や軍事、宗教を共有する共同体でした。中心部には神殿などが置かれるアクロポリスや、市場と政治的集会の場を兼ねたアゴラが設けられました。同じギリシャ語を話し、共通する神々を信仰していた一方で、それぞれのポリスは独立しており、互いに戦争をすることも珍しくありませんでした。
紀元前8世紀から前6世紀頃にかけて、人口の増加や土地不足、交易の拡大などを背景として、ギリシャ人は地中海や黒海の沿岸各地へ進出しました。南イタリアやシチリア島、現在のフランス南部、黒海沿岸などに多くの植民市が建設されます。植民市は本国のポリスと文化的な関係を保ちながらも、基本的には独立したポリスとして発展しました。こうしてギリシャ文化や交易のネットワークは地中海世界の広い範囲へ広がっていきました。
ポリスのなかでも、後の民主政の発達で特に重要なのがアテネです。当初のアテネでは、有力な貴族が政治を支配していました。しかし社会の変化に伴って、貴族と一般市民との対立が強まっていきます。
紀元前7世紀末、ドラコンによって、それまで慣習として運用されていた法が成文化されました。一般に紀元前621年頃とされています。それまでは貴族が法の解釈を事実上独占していましたが、法律を文章として示すことで、どのような行為が処罰されるのかが明確になりました。ただしドラコンの法律は刑罰が非常に厳しいことで知られ、後世には「ドラコニアン」という言葉が「過酷な」という意味で使われるほどでした。
しかし、法律の成文化だけでは社会的な対立は解消されませんでした。紀元前594年頃、アルコンに選ばれたソロンが大規模な改革を行います。
ソロンは、借金を原因として市民が奴隷になることを禁止し、負債によって奴隷となっていたアテネ市民を解放しました。また、政治参加の資格を家柄だけでなく財産額によって区分する財産政治を導入しました。これによって、貴族の家系に生まれていなくても、一定の財産を持つ市民であれば政治に参加できる道が広がりました。
ただし、ソロンの改革によって直ちに民主政が成立したわけではありません。貴族や農民などの利害対立は続き、紀元前6世紀半ばにはペイシストラトスが実権を握りました。
ペイシストラトスは「僭主」と呼ばれます。僭主とは、当時の正式な制度によらずに権力を掌握した支配者を意味し、現代語の「暴君」と必ずしも同じではありません。ペイシストラトスは農民を保護し、公共事業や宗教祭典を振興するなどの政策を進めました。彼の死後は息子たちが支配を継承しましたが、やがて僭主政は崩壊します。
その後、紀元前508~507年頃にクレイステネスが改革を行いました。クレイステネスは、血縁や地域の有力者を中心とした従来の政治組織を再編し、市民を居住地域を基礎とする新しい部族制度へ組み込みました。また、500人評議会を整備するなど、より広い市民層が政治に参加できる仕組みを作りました。
クレイステネスの改革と関連して有名なのが「陶片追放」です。市民が陶器の破片であるオストラコンに危険人物と考える人物の名前を書き、一定の手続きを経て、その人物を国外へ追放する制度でした。制度そのものはクレイステネスの改革期に成立したと考えられていますが、実際に初めて実施されたことが確認できるのは紀元前487年頃です。
こうしてアテネでは民主政への道が開かれていきましたが、その直後、ギリシャ世界はアケメネス朝ペルシアという巨大な帝国と対峙することになります。
一般にペルシア戦争は紀元前499年頃から前449年頃までの一連の戦争を指します。その発端となったのは、小アジア西岸のギリシャ系都市によるイオニア反乱でした。その後、アケメネス朝はギリシャ本土への遠征を開始します。
紀元前490年にはマラトンの戦いが起こり、アテネを中心とするギリシャ軍がペルシア軍を破りました。さらに紀元前480年には、ペルシア王クセルクセス1世が大軍を率いて再びギリシャへ侵攻しました。テルモピュライの戦いではスパルタ王レオニダス率いる部隊が抵抗し、その後のサラミスの海戦ではアテネを中心とするギリシャ艦隊がペルシア艦隊を破りました。翌紀元前479年のプラタイアの戦いなどを経て、ペルシアによるギリシャ本土征服の試みは失敗しました。
ペルシアの再侵攻に備えるため、紀元前478~477年頃、アテネを中心としてデロス同盟が成立しました。同盟の金庫が当初エーゲ海のデロス島に置かれたことから、この名で呼ばれます。
しかしデロス同盟は、しだいにアテネの支配下に置かれるようになります。同盟諸国から集められた資金はアテネのためにも使用され、紀元前5世紀半ばには同盟の金庫もデロス島からアテネへ移されました。アテネは形式上は同盟の盟主でしたが、実質的にはエーゲ海一帯を支配する帝国のような存在へと変化していきました。
この時代のアテネで大きな影響力を持った政治家がペリクレスです。紀元前5世紀半ば、ペリクレスの時代にアテネの民主政は最盛期を迎えました。
アテネでは、市民が民会に参加し、重要な政策について直接議論して決定しました。裁判を担当する陪審員などにも市民が参加し、公職の一部には抽選が用いられました。また、公務に参加する市民に手当を支給する制度が整備され、財産の少ない市民でも政治に参加しやすくなりました。このため、アテネの政治は現代の議会制民主主義とは異なり、市民自身が政策決定に参加する「直接民主政」と呼ばれます。
ただし、当時の「市民」の範囲には注意が必要です。政治に参加できたのは原則として成人男性のアテネ市民であり、女性や奴隷、外国から移住してきた在留外国人であるメトイコイには参政権がありませんでした。したがってアテネの民主政は、現代の普通選挙を前提とする民主主義とは大きく異なる制度でした。
ペルシア戦争後、ギリシャ世界ではアテネの勢力が急速に拡大しました。一方、陸上ではスパルタが強大な軍事力を持っていました。アテネを中心とするデロス同盟と、スパルタを中心とするペロポネソス同盟との対立は次第に深まっていきます。
紀元前431年、ついにペロポネソス戦争が始まりました。アテネとスパルタを中心として、多くのポリスを巻き込んだ長期戦となります。
海軍力と経済力に優れたアテネに対して、スパルタは強力な陸軍を持っていました。しかしアテネでは戦争初期に疫病が流行し、ペリクレスも死亡しました。その後も戦争は長期化し、アテネによるシチリア遠征の失敗などを経て国力が低下します。最終的に紀元前404年、アテネは降伏し、スパルタが勝利しました。
しかし、スパルタの覇権も長くは続きませんでした。スパルタの支配に対する反発が広がり、ギリシャのポリス同士の戦争はその後も続きます。
紀元前371年のレウクトラの戦いでは、エパメイノンダス率いるテーベ軍がスパルタ軍を破りました。これによってスパルタの軍事的優位は崩れ、紀元前4世紀前半から半ばにかけて、テーベが一時的にギリシャ世界で大きな影響力を持つようになります。しかし紀元前362年のマンティネイアの戦いでエパメイノンダスが戦死すると、テーベの優位も弱まりました。
このように、ペルシア戦争後のギリシャでは、アテネ、スパルタ、テーベが次々と覇権を握りましたが、どのポリスもギリシャ全体を安定して統一することはできませんでした。長期にわたるポリス間の戦争によって、ギリシャ世界は政治的、軍事的に消耗していきました。
その一方で、ギリシャ北方ではマケドニア王国が勢力を伸ばしていました。国王フィリッポス2世は軍制を改革し、長大な槍を装備した密集歩兵部隊などを用いて強力な軍隊を作り上げます。
紀元前338年、マケドニア軍とアテネ・テーベを中心とするギリシャ諸ポリスの連合軍がカイロネイアの戦いで衝突しました。戦いはフィリッポス2世率いるマケドニア軍の勝利に終わります。この戦いには、のちにアレクサンドロス大王となる若きアレクサンドロスも参加していました。
カイロネイアの戦いの結果、アテネやテーベなど主要なポリスはマケドニアに対抗する力を失いました。フィリッポス2世はその後、スパルタを除く多くのギリシャ諸国をコリントス同盟に参加させ、ギリシャ世界に対する主導権を確立しました。
この紀元前338年は、しばしば「ポリスの独立の終わり」を象徴する年とされます。ただし、ポリスそのものが消滅したわけではありません。アテネをはじめとする都市国家は、その後のヘレニズム時代やローマ時代にも自治的な都市共同体として存続しました。失われたのは、各ポリスが完全に独立してギリシャ世界の国際政治を動かしていた時代だったと考えた方が正確です。
紀元前8世紀頃に成立したポリスは、貴族政治、僭主政治、民主政など、さまざまな政治制度を生み出しました。特にアテネでは、ドラコン、ソロン、クレイステネス、ペリクレスらの時代を経て、市民が直接政治に参加する民主政が発達しました。
しかしポリスは、互いの独立性を強く維持したため、統一国家を形成することはありませんでした。ペルシアという外敵に対しては協力したものの、脅威が後退すると再び覇権をめぐって争い、ペロポネソス戦争以後もアテネ、スパルタ、テーベが対立を繰り返しました。
ポリスの自由と自治は、古代ギリシャに多様な政治や文化を生み出す原動力となりました。その一方で、その独立性の強さはポリス同士の絶え間ない対立にもつながりました。そして紀元前338年のカイロネイアの戦いを境として、ギリシャ世界の主導権は個々のポリスからマケドニア王国へ移っていきます。
そのマケドニアから、やがてアレクサンドロス大王が登場します。彼の東方遠征によってギリシャ文化はエジプトや西アジア、さらに中央アジア方面まで広がり、古代地中海世界はポリスを中心とした時代から、広大な領域国家が競い合うヘレニズム時代へと移っていくことになります。
アテネvsスパルタ
古代ギリシャの歴史を語るとき、しばしば対照的な都市として並べられるのがアテネとスパルタです。アテネは市民による政治参加を発展させた代表的なポリスで、民主政のもとで議論を重ねながら国家を動かしていきました。その空気の中で、哲学や弁論、美術、建築、さらには理性的な思考を重んじる学問も花開き、後世のヨーロッパ世界にまで大きな影響を与える文化が育っていきました。もちろん、アテネもただ文化的だっただけではなく、強力な海軍をもち、政治と軍事と文化が結びついた都市でもありました。
それに対してスパルタは、きわめて軍事色の濃い共同体として知られています。市民男性は幼い頃から共同体の規律の中で育てられ、少年期にはアゴーゲーと呼ばれる教育・訓練の仕組みに組み込まれて、戦士としての能力と忍耐を鍛えられました。新生児についても、後世に語られる伝承では共同体にふさわしいかを見定める発想があったとされ、アテネとはまったく異なる価値観がうかがえます。ただし、スパルタを「文化がまったくなかった社会」と言い切るのは単純化しすぎで、古い時代には他のギリシャ諸都市と同様に文化的活動も見られました。それでも古典期のスパルタが、芸術や思想の発展よりも軍事力と共同体秩序の維持を優先したことは確かです。
この二つの都市は、古代ギリシャの大半の時期ずっと争い続けていたというより、特に紀元前5世紀に入ってから対立を深めていったと見るほうが正確です。転機になったのはペルシャ戦争でした。ペルシャはギリシャ本土に二度大規模な侵攻を行いましたが、第一次侵攻のマラトンの戦いではアテネが中心となってこれをしりぞけ、スパルタは十分に間に合いませんでした。けれども第二次侵攻では、テルモピュライでスパルタ王レオニダスが抗戦し、海ではアテネがサラミスで奮戦し、その後のプラタイアではギリシャ側が決定的な勝利をおさめました。つまり「二度の侵攻で常に完全に力を合わせた」というより、ペルシャの脅威の前で、とりわけ第二次侵攻の局面において両者がそれぞれ大きな役割を果たした、と捉えるのが実情に近いです。
しかし、外敵に対して協力した経験は、かえって戦後の覇権争いを激しくしました。ペルシャ戦争後、アテネは海上同盟を基盤に勢力を拡大し、経済力と海軍力を背景にエーゲ海世界で強い影響力を持つようになります。これに対し、陸軍国家スパルタはアテネの台頭を脅威とみなし、やがて両陣営の緊張はペロポネソス戦争へと発展しました。紀元前431年から404年まで続いたこの戦争は、アテネとスパルタという二大ポリスだけでなく、ほぼギリシャ世界全体を巻き込む大戦争でした。ここで重要なのは、アテネとスパルタの対立が、単なる都市どうしのけんかではなく、海軍と陸軍、民主政と寡頭的体制、開放性と規律重視という、異なる国家像のぶつかり合いでもあったことです。
もっとも、勝者となったスパルタも永遠に栄えたわけではありませんでした。長い戦争はギリシャ世界全体を疲弊させ、その後も都市国家どうしの争いは続きます。そこへ北方から台頭したのがマケドニア王フィリッポス2世でした。紀元前338年のカイロネイアの戦いで、フィリッポス2世はアテネやテーバイを中心とする連合軍を破り、ギリシャに対するマケドニアの覇権を決定的なものにします。スパルタはこの戦いの主役ではありませんでしたが、アテネとスパルタがそれぞれ独立した最強ポリスとして競い合う時代は、ここで大きく終わりを迎えたと言ってよいでしょう。スパルタとアテネの対立は、古代ギリシャの歴史そのものだったのではなく、むしろ古典期ギリシャがもっとも輝き、同時にもっとも深く傷ついた時代を象徴する対立だったのです。
旅程
(略)
↓(徒歩)
ローマン・アゴラ
↓(徒歩)
↓(徒歩)
ホテル
周辺のスポット
- 新アクロポリス美術館
- ゼウス神殿
地域の名物
- ムサカ
- スブラキ
- ウゾ(ウーゾ)
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