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高稲荷神社:親子のきつねが見守る台地の小社

練馬区桜台の高みに鎮座する高稲荷神社(たかいなりじんじゃ)を訪ねました。 石段を上がると、木々の合間から石神井川の流れを感じさせる風が通り抜け、社殿はこぢんまりとしながらも静かな気配に包まれていました。社前には二体のきつねが控え、左側の足元にはさらに小さなきつねが寄り添うように彫られていて、まるで親子の姿を写したように見えます。稲荷の眷属として人の願いを聞き届ける役目を担う存在に、境内の素朴さと温かみが一層重なって感じられました。 この社は、石神井川に臨む台地の上にあります。かつて崖下は大きな沼で、その主は大蛇であったという伝承が練馬に残ります。ある若者がこの大蛇に見込まれて沼へ引き込まれ、その霊を慰めるために祀られたのが高稲荷だとも語られてきました。地名の記憶と川の地形が連れてくる物語は今も地域の語り草で、台地に立つ社の位置がその舞台装置であったことを想像させます。 社の由緒は詳らかではありませんが、文政五年(1822)ごろから下練馬村・三軒在家の守護神として崇敬されたと伝わります。稲荷としてのご祭神は食物の神・保食命(うけもちのみこと)とされ、五穀の実りと暮らしの安寧を願う小祠として、村の人びとに守られてきました。 境内には江戸後期の刻年を持つ石造物が残り、地域の信仰の厚みを物語ります。鳥居には嘉永六年(1853)の銘が見え、長い歳月のうちに社殿は改築されながらも、台地の高みという立地とともに、土地の記憶を静かに受け継いできました。 高稲荷神社の前でしばし足を止めると、親子に見えるきつね像と、川と沼にまつわる昔話が自然と結びつきます。人の暮らしを見守る小さな社と、自然の力を畏れ敬う物語。その二つが重なる場所だからこそ、素朴な社殿の佇まいに、今も地域の祈りが静かに息づいているのだと感じました。 旅程 練馬区駅 ↓(徒歩) 高稲荷神社 ↓(徒歩) 桜台駅 関連イベント 周辺のスポット 地域の名物 関連スポット リンク 高稲荷神社|練馬区桜台の神社 高稲荷と大蛇、堰ばあさん、栗山の大蛇 | 練馬わがまち資料館

龍寶山 萬昌院功運寺:吉良上野介と文化人が眠る町角

中野駅にスクーターを置いて周辺を歩いているうちに、静かな門前へ吸い寄せられるように萬昌院功運寺(ばんしょういんこううんじ)にたどり着きました。 山門をくぐると、境内には夏の光が落ち着いて差し込み、コロナ下で遠出ができなかった落ち着かない気分が、すっと静まっていくのを感じました。ここは曹洞宗の寺院で、もともと江戸市中にあった久宝山萬昌院と竜谷山功運寺が大正期に現在地へ移り、戦後の昭和23年に合併して今の寺号になったと伝わります。歴史を調べると、萬昌院は天正2年、今川義元の子・氏真の四男にあたる長得が開基、功運寺は慶長3年に永井信濃守尚政が父祖の菩提のために創建したという由緒で、江戸の記憶を今日へとつなぐ場所なのだと実感します。 この寺を広く知らしめているのが、赤穂事件で名の残る吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ)の墓所です。墓域には吉良家14代から17代の供養塔が並び、討ち入りの夜に斃れた上野介の名も刻まれています。門前には中野区の文化財として吉良家墓所を示す案内板が立ち、歴史の現場が今も地域の手で静かに守られていることが伝わってきました。年末にたびたび上演される『忠臣蔵』のイメージでは悪役として描かれがちな上野介ですが、茶の湯や礼法に通じた教養人としての側面も指摘されており、墓前に立つと、その人物像の複雑さに思いを巡らせずにはいられません。物語がつくった陰影と史実のずれを意識できるのも、史跡を直接訪ねる醍醐味だと感じました。 境内の墓地には、ほかにも文化史を語る名が並びます。江戸後期の浮世絵師・歌川豊国(うたがわ とよくに)の墓は、役者絵や美人画で人気を博した一門の祖にふさわしく、静かな佇まいの中に華やかな江戸の舞台を想像させました。昭和の作家・林芙美子の墓もあり、『放浪記』の一節が胸によみがえるような、飾らない石碑が印象的でした。日々の暮らしの歓びと翳りを掬い上げた作家が、いまは都会の住宅地に包まれて眠っていると思うと、不思議と身近な存在に感じられます。 本堂の前で手を合わせると、境内のすみに幼稚園の建物が見え、ここが地域の日常と地続きであることを思い出しました。江戸から昭和、そして令和へと受け継がれてきた祈りの場は、歴史の重みを湛えながらも、子どもたちの声が似合う柔らかな空気をまとっています。12月には命日にちなむ吉良祭も営まれるそうで、季節の法要や...

宝泉寺:家から歩く旅、中野でつながる郷里の名跡

遠出を控えている時期なので、家から歩いて中井駅まで向かい、その先に連なる寺町を気の向くままに辿りました。塀越しに見える古い瓦、風に鳴る木陰、読経の微かな響き。そうして出会ったお寺のひとつが、中野区上高田にある曹洞宗の宝泉寺(ほうせんじ)でした。境内は隣接する寺院の墓地と連なって広がり、いかにもこの一帯が寺町として育ってきたことを物語っていました。江戸の市中からこの地へ寺々が移ってきた歴史があり、宝泉寺も創建後に江戸城外から牛込横寺町へ、さらに明治に現在地へと移ってきました。都市の膨張とともに寺社が少しずつ居場所を移し、やがて上高田の静けさの中に落ち着いていった過程を想像すると、寺町の景観そのものが近代東京の記憶の層でできているのだと感じました。 境内を巡るうち、目を引く案内板に出会いました。そこには「板倉内膳正重昌(いたくら ないぜんのかみ しげまさ)墓所」とあり、はじめは名前に覚えがありません。後で調べると、板倉重昌は徳川家康の近習を務め、三河国の深溝(ふこうず)に一万余石を領して深溝藩を立てた大名で、寛永15年(1638)に島原の乱の鎮圧にあたり、原城攻めで戦死した人物でした。三河出身の自分としては、同郷の名をここ東京で見いだしたことに、少し遅れて密かな縁を感じます。江戸の政治や軍事の中枢に関わった家柄の菩提寺が、時を経て中野の寺町に根付いている——そんな歴史の連続性と偶然性を、静かな墓所の前で思いました。 宝泉寺は奥州中村の相馬家や備中庭瀬の板倉家の菩提寺でもあり、境内にはそれぞれの石碑が丁寧に守られています。明治期に現在地へ移ったのちも、地域の年中行事や坐禅会が続けられていることを知ると、寺が単なる史跡ではなく、まちの日常に息づく場であることを実感します。寺町を歩く楽しさは、この生活と歴史が自然に重なって見える瞬間にあるのだと思います。 あの日は、知らない名前に足を止め、帰宅後に少し本や資料を開いただけの小さな寄り道でした。それでも、深溝藩のこと、島原の乱のこと、そして江戸から中野へと移ってきた寺々のこと——いくつもの扉が次々に開いていきました。遠くへ行けない時間だからこそ、歩幅ひとつぶんの範囲に眠る歴史の厚みを確かめられた気がします。寺町の路地を抜けて振り返ると、夏の陽に石塔の影が長く伸び、見慣れたはずの中野の風景が、少しだけ重層的に見えました。 旅程 (...

大宮八幡宮:杜に満ちる静けさ、コロナ禍の参拝

都心とは思えないほど緑の濃い杜に包まれた大宮八幡宮へ足を運びました。参道は幅が広く、両脇の木々が真夏の光をやわらげてくれます。鳥居をくぐると空気がひんやり変わり、「東京のへそ」とも呼ばれるこの地の静けさが、歩みをゆっくりにしてくれました。境内が広いことでも知られる神社で、23区内では有数の規模だと実感します。 この日は、コロナ禍の「疫病退散」を願うのぼりがはためき、社殿前には茅の輪に倣った「笹の輪」が据えられていました。古来の大祓の作法にならい、「蘇民将来の子孫也」と唱えながら輪をくぐって厄を祓う趣旨で、境内産の笹竹で奉製されたものだそうです。折しも夏—人びとの健康を思う祈りが、青い葉音に重なって聞こえるようでした。 参拝を済ませてから境内を歩くと、由緒の案内に足が止まります。創建は康平6年(1063)。前九年の役に際し、源頼義がこの地で八幡神の加護を覚えて戦勝を祈願し、凱旋後に石清水八幡宮から御分霊を勧請して社を構えたのが始まりと伝わります。以後、関東の武士からの崇敬も厚く、例祭は毎年9月15日に営まれてきました。 ご祭神は八幡大神(応神天皇)と、その父である仲哀天皇、母の神功皇后の「親子三神」。この母子の結びつきから、ここは「子育て・安産・縁結び」の社として知られ、戌の日には安産祈願を受けに多くの方が訪れます。境内の案内にも「子育て厄除け八幡さま」の呼び名が掲げられており、日常の願いを静かに受け止めてくれる場所であることが伝わってきます。 社殿や門、清らかな手水舎を順に眺めながら、木陰の濃淡と遠くの太鼓の音に耳を澄ませました。疫病退散の願いが全国に満ちていたあの夏、笹の輪をくぐり、静かに手を合わせたひとときは、長く心に残る参拝となりました。 旅程 桜上水駅 ↓(徒歩) 下高井戸おおぞら公園 ↓(徒歩) 大宮八幡宮 ↓(徒歩) 桜上水駅 関連イベント 周辺のスポット 杉並区立郷土博物館 地域の名物 関連スポット リンク 大宮八幡宮 - 大宮八幡宮 大宮八幡宮 - 東京都神社庁

下野谷遺跡公園:武蔵野台地にひそむ縄文の気配

西東京市の地図を眺めながら、密を避けてスクーターで行ける行き先を探していた夏の日、まず目に留まったのは東伏見稲荷神社でした。東伏見駅近くにスクーターを止め、周辺をさらに拡大してみると、「下野谷遺跡公園」という文字がすぐ近くに現れます。遺跡という言葉には不思議な吸引力があります。炎天の午後でしたが、せっかくなので足を延ばすことにしました。 公園に着くと、静かな住宅街の一角に、縄文時代を想像させる小さな空間がぽっかりと現れます。目を引くのは復元された竪穴住居で、草屋根の丸いふくらみが、武蔵野台地の緑とよくなじんでいました。コロナ禍のさなかだったためか、住居の周囲には低い柵が巡らされ、内部に近づくことはできませんでしたが、入口の向こうに落ちる影を見つめていると、土の床に座して火を囲む人びとの気配までが立ちのぼってくるように感じます。そばには木組みだけを見せる小さな復元もあり、竪穴住居の構造が視覚的に理解できました。地面に掘り下げた円形の窪み、その上に木柱を組み、梁を渡して屋根を架ける——そんな基本の骨格がむき出しになっていて、教科書の図を立体で見るような楽しさがあります。 武蔵野の台地は、湧水や雑木林に恵まれた場所で、縄文人の生活の跡が点々と残ります。竪穴住居は、地面を掘り込むことで夏は涼しく冬は暖かい、素朴で理にかなった住まいでした。遠い過去の営みは遺物や土層の重なりから読み解かれますが、実物大の復元が目の前にあると、身体感覚で時間の厚みを確かめられるのが良いところです。残念ながら公園内に解説の充実した資料館は見当たらず、その日は外からそっと眺めるだけにとどめました。 ひとしきり遺跡の空気を吸い込み、次の目的地の東伏見稲荷神社へ向かいました。駅へ戻る道すがら、蝉の声が濃く重なります。社殿の朱が夏の光でいっそう鮮やかに見えるだろうと想像しながら、もう一度振り返って竪穴住居を確かめました。いつか落ち着いた頃に、中まで見学できる日が来ればと願います。 後で調べると、発掘で見つかった出土品は西東京市の郷土資料室に収められているようです。住居の復元で感じた気配を、器や石器の質感からもう一歩確かな像へと結び直すには、現物に触れるように見る機会が欠かせません。次は郷土資料室で遺物を見てから、再び公園を歩き、住まいのスケールや周囲の地形と照らし合わせてみたいと思います。遺跡公園は広大で...

東伏見稲荷神社:西東京で味わう、朱色の回廊と心静かなひととき

西東京市を散策したある夏の日、東伏見稲荷神社を訪れる機会に恵まれました。よく晴れた空の下、コロナ禍の影響で遠出が難しい時期でしたが、気分転換を兼ねてスクーターで都内近郊を巡ることが、週末の小さな楽しみになっていました。この日は下野谷遺跡公園で古代の面影に触れた後、地図で見かけた東伏見稲荷神社に立ち寄ることにしました。 正直なところ、事前に地図で調べたときは、町の中にある小さな神社なのだろうと想像していました。ところが、実際に現地に着いてみると、想像を超える大きな鳥居が堂々と構え、きれいに整備された階段が参道へと続いています。思わず「これは立派だ」と感じさせる風格があり、地域の人々に大切に守られてきた歴史を感じさせてくれました。 境内に足を踏み入れると、さらに驚かされたのが、京都の伏見稲荷大社を思わせる千本鳥居の存在です。朱色の鳥居が幾重にも連なり、光と影が織りなす幻想的な空間が広がっていました。東京都内でこのような光景に出会えるとは思わず、静かな感動を覚えました。 本殿で手を合わせてお参りを済ませた後、あらためて周囲を見渡すと、神社全体がとても清潔で、細やかな手入れが行き届いていることが感じられます。地域に根ざした信仰の場でありながら、どこか心が洗われるような、特別な雰囲気が漂っていました。 東伏見稲荷神社は、昭和4年(1929年)に創建されました。関東地方における稲荷信仰の広がりの一環として、京都・伏見稲荷大社から分祀された神社であり、「東の伏見」という名前にもその由来が表れています。創建からおよそ1世紀近く、今も地域の人々に親しまれ、初詣や季節の祭事の際には多くの参拝者で賑わうそうです。 参拝を終え、神社を後にして次の目的地である東伏見公園へと向かいました。都市のなかにあって、心静かに過ごせる神社との出会いは、日常に小さな非日常をもたらしてくれます。東伏見稲荷神社は、都心からもアクセスしやすい場所にありながら、伝統と自然が調和した、とても魅力的な場所でした。 旅程 東京 ↓(スクーター) 武蔵関公園 ↓(徒歩) 下野谷遺跡公園 ↓(徒歩) 東伏見稲荷神社 ↓(徒歩) 東伏見公園  ↓(スクーター) 東京 周辺のスポット 下野谷遺跡公園 東伏見公園  リンク 東伏見稲荷神社公式WEBサイト~諸願成就に関東一円から~トップページ 東伏見稲荷神社|H...

池淵史跡公園:練馬の片隅で出会う日本の原風景と明治の古民家

本日、晴れやかな空の下、東京都練馬区にある池淵史跡公園を訪れました。この日はまず石神井公園を散策し、その足で隣接する池淵史跡公園にも立ち寄りました。 池淵史跡公園は、旧石器時代や縄文時代、さらに中世にまでさかのぼる遺跡が発見された歴史ある場所です。かつてこの地でどのような暮らしが営まれていたのか、想像が膨らみます。現在は整備された公園となっており、地域の人々の憩いの場となっていますが、その歴史の重みを感じながら歩くと、日常の風景にもどこか特別な趣が加わります。 園内でひときわ目を引くのが、明治時代の茅葺屋根の旧家である旧内田家住宅です。この住宅はもともと他の場所にあったものが移築されたもので、当時の暮らしぶりを今に伝える貴重な建物となっています。茅葺の屋根や広々とした土間、木のぬくもりが感じられる室内は、現代の住宅とはまったく異なる雰囲気で、時代を超えて受け継がれてきた日本の生活文化を肌で感じることができました。 旧内田家住宅の内部も見学することができ、座敷や台所、そして当時の生活道具の数々が展示されていました。建物の中を歩きながら、明治時代の人々がここでどのような日々を過ごしていたのか、静かな時間の流れを感じることができ、非常に貴重な体験となりました。 池淵史跡公園は、単なる公園としての魅力だけでなく、遠い昔から現代までの歴史が静かに息づく場所です。古代から続く土地の記憶と、明治時代の旧家が織りなす空間の中で、過去と現在がゆるやかにつながっていることを実感できました。歴史に興味のある方はもちろん、ゆったりとした時間を過ごしたい方にもおすすめの公園です。 旅程 東京 ↓(スクーター) 石神井公園 ↓(徒歩) 稲荷諏訪神社(練馬区) ↓(徒歩) 池淵史跡公園 ↓(徒歩) 石神井氷川神社 ↓(スクーター) 東京 関連イベント 周辺のスポット 石神井公園 牧野記念庭園 記念館 地域の名物 関連スポット リンク 池淵遺跡 (いけぶちいせき):練馬区公式ホームページ 池淵史跡公園 | 東京都