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境妙寺:聖徳太子の石碑に迎えられる中野の寺

東京都中野区の境妙寺(きょうみょうじ)に行きました。

この日はコロナ禍で比較的人の少ない場所を歩こうと思い、落合公園周辺の寺院を巡っていました。神足寺を見たあと、続いて訪れたのが境妙寺です。上高田のこの一帯は寺院が点在する地域で、境妙寺もそうした静かな寺町の空気の中にありました。中野区観光協会によれば、境妙寺は上高田4丁目周辺の神社仏閣が集まる一角に位置しているそうで、実際に歩いてみると、都心にありながら少し時間の流れがゆるやかになったような感覚がありました。 

境妙寺の入口の前には、「聖徳太子」と刻まれた大きな石碑が立っていました。理由まではその場では分かりませんでしたが、最初にそれが目に入ったことで、ただ通り過ぎるだけではない、どこか由緒のありそうな寺なのだろうという印象を受けました。とはいえ、境内には由来を詳しく説明する案内板が見当たらず、参拝者としては少しもどかしさもありました。寺社を巡っていると、丁寧な解説板によって歴史の輪郭が見えてくる場所も多いのですが、境妙寺はそうした説明を前面に出すよりも、静かな佇まいそのもので寺の空気を感じさせる場所だったように思います。

境内に入ると、砂や植木がきれいに整えられていて、手入れの行き届いた落ち着いた空間が広がっていました。派手さがあるわけではありませんが、そうした清潔さや整然とした景色から、長く地域に守られてきた寺院らしい雰囲気が伝わってきます。本堂もまた、華美ではないものの落ち着いた存在感があり、静かに向き合うのにちょうどよい空間でした。観光地の名刹のように多くの人が集まるわけではないからこそ、こうした寺では建物そのものよりも、境内の空気や足元の砂、剪定された植木、そこに差し込む光といったものが、より強く印象に残ります。

後から調べてみると、境妙寺はもともと日蓮宗の寺で、のちに元禄11年(1698年)に天台宗へ改宗した寺でした。また、一説には日蓮宗不受不施派への弾圧が改宗の背景にあったともいわれています。さらに安永年間には紀伊公邸霊堂の別当に命ぜられ、そのため現在も本堂の瓦に葵の紋が見られ、寺門は徳川家ゆかりの寺にも見られる黒門になっているとされています。いま目の前にある静かな境内も、実は江戸の宗教政策や大名家とのつながりを背後に持つ場所なのだと思うと、見え方が少し変わってきます。

さらに、境妙寺はもともと麹町の地にあり、寛永6年(1629年)に千駄ヶ谷へ移転し、その後、明治神宮外苑の造営にともなって大正4年(1915年)に現在の上高田へ移ったとされています。江戸から東京へと都市が大きく姿を変えるなかで、寺院もまた都市計画や開発の影響を受けながら場所を変えてきたことが分かります。現在の境妙寺の静けさからは想像しにくいですが、この寺もまた、江戸城下の拡張や近代東京の整備という大きな歴史の流れの中を生き抜いてきた存在でした。 

また、境妙寺の過去帳には、江戸時代の国学者として知られる塙保己一の名があることも伝えられています。『群書類従』の編纂で知られる塙保己一の名がこの寺に結びついていることを知ると、境妙寺は単なる近隣の小寺ではなく、近世文化史の一端にも触れる場所であったことが感じられます。現地を歩いていたときにはそこまで分かりませんでしたが、説明板がなかったぶん、あとで少しずつ背景を知ることで、訪問の記憶に厚みが増していく寺でもありました。

寺院巡りでは、豪壮な建築や有名な仏像に出会うこともあれば、境妙寺のように、一見すると静かで控えめで、すぐにはその個性が見えてこない場所に出会うこともあります。しかし、そうした場所ほど、あとから歴史をたどることで、思いがけず深い背景が見えてくることがあります。門前の聖徳太子の石碑、整えられた境内、説明の少なさゆえの余白。そのどれもが、この日の境妙寺を印象づけていました。

コロナ禍の中で人の少ない場所を求めて歩いた一日でしたが、境妙寺は、ただ静かなだけでなく、江戸から近代東京へつながる時間の層をひそかに抱えた寺でした。目立つ観光名所ではなくても、こうした場所を一つ一つ訪ねることで、街の見え方は少しずつ変わっていくのだと思います。

旅程

(略)

↓(徒歩)

落合公園

↓(徒歩)

神足寺

↓(徒歩)

境妙寺

↓(徒歩)

願正寺

↓(徒歩)

宝泉寺

↓(徒歩)

萬昌院功運寺

↓(徒歩)

中野駅

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