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諏訪神社(深谷市血洗島):渋沢栄一の故郷に残る、村人とのつながり

埼玉県深谷市血洗島の諏訪神社を訪れました。 この日は朝から、世界遺産の構成資産でもある田島弥平旧宅へ向かう予定で深谷駅に来ていました。ただ、せっかく深谷まで来たので、まずは渋沢栄一に関係する史跡を巡ってから向かうことにしました。渋沢栄一記念館や旧渋沢邸「中の家」を見学したあと、血洗島にある諏訪神社へ向かいました。 地図で「諏訪神社(血洗島)」という表記を見たとき、最初に目に入ったのは「血洗島」という地名でした。かなり物騒な響きに感じて一瞬驚きましたが、これはこの地域に残る町名です。実際に訪れてみると、そこにあるのは穏やかな集落の中の神社で、名前から受ける印象とはまったく違う静かな場所でした。 諏訪神社は、渋沢栄一の生まれた旧血洗島村の鎮守です。渋沢栄一というと、日本の近代経済を築いた人物として、銀行や会社、教育・福祉事業など、広い分野での活動が思い浮かびます。しかし、この神社に来ると、そうした大きな歴史の前に、まず一人の少年としてこの土地で育った渋沢栄一の姿が感じられます。 境内の解説によると、渋沢栄一は少年時代、この諏訪神社の境内で遊んでいたそうです。また、現在の拝殿は渋沢栄一の寄付によって建てられたもので、境内には渋沢栄一の喜寿を祝って村人たちが建てた碑もあります。単に「ゆかりのある場所」というだけでなく、渋沢栄一と故郷の人々との関係が形として残されている場所だと感じました。 渋沢栄一は若くして血洗島を離れ、その後、幕末から明治・大正にかけて大きな仕事を成し遂げていきます。それでも、故郷との関係は切れることなく続いていました。諏訪神社の拝殿を寄進したことや、祭礼にあわせて帰郷していたことからも、栄一にとってこの神社が、単なる地元の神社以上の意味を持っていたことがうかがえます。 境内を歩いていると、大きな観光施設のような華やかさはありませんが、そのぶん地域の生活に根ざした神社らしさが残っていました。渋沢栄一記念館や旧渋沢邸「中の家」では、偉人としての渋沢栄一を学ぶことができます。一方で、この諏訪神社では、故郷の村で育ち、地域の人々と関わりながら成長した栄一の原点に触れるような感覚がありました。 参拝を済ませたあと、境内を一通り歩きました。拝殿や碑を眺めていると、近代日本の経済人としての渋沢栄一と、血洗島の人々にとっての渋沢栄一が、少し違った角度から重なって見えてき...

旧渋沢邸 中の家:渋沢栄一の原点を訪ねて、血洗島に残る近代日本の実業家のふるさと

埼玉県深谷市血洗島にある旧渋沢邸「中の家(なかんち)」に行きました。 この日は、群馬県にある田島弥平旧宅を目的に朝から深谷方面に来ていました。せっかく渋沢栄一の故郷を訪れるので、午前中は渋沢栄一ゆかりの場所も巡ることにし、尾高惇忠生家、渋沢栄一記念館と見学した後、旧渋沢邸「中の家」にやって来ました。 入口にはかなり立派な門が構え、その脇には「青淵翁誕生之地」と刻まれた石碑が建っています。「青淵」は渋沢栄一の雅号です。渋沢栄一は1840年、当時の武蔵国榛沢郡血洗島村にあった「中の家」に生まれました。渋沢家は農業だけでなく養蚕なども営み、栄一の父の代には藍玉の製造・販売を本格的に行って、村でも有数の富農となっていました。 ただし、現在建っている主屋そのものが栄一の生まれた家というわけではありません。栄一が幼少期を過ごした頃の建物は、明治25年(1892年)の火災で焼失しました。現在の主屋は、その後の明治28年(1895年)に栄一の妹夫妻によって建てられたものです。栄一はすでに東京を中心に活動していましたが、帰郷した際にはこの家に滞在していました。つまり「誕生之地」は、この建物そのものというより、渋沢家の屋敷地を指していることになります。 門をくぐって主屋を見ると、かなり大きな二階建ての家です。特に気になったのが屋根で、大きな瓦屋根の上に、さらに細長い屋根が一段載っています。どこかで見たことがある形だと思いましたが、この日の目的地だった田島弥平旧宅など、養蚕農家の建築で見られる換気のための構造を思い出しました。 そして、この印象は間違っていなかったようです。旧渋沢邸「中の家」は、深谷市の資料でも明治期の「養蚕農家住宅」とされ、主屋だけでなく副屋、土蔵、正門、東門を含め、当時の北武蔵地方における養蚕農家の屋敷構えをよく残しているとされています。また、現在の主屋の二階は、もともと養蚕室として使われていたと伝えられています。 渋沢栄一というと、どうしても銀行や鉄道、製紙会社など「近代日本の産業」をつくった実業家という印象が強いため、養蚕農家の建物との組み合わせが少し意外に感じられました。しかし、渋沢家は藍玉の製造・販売を大きな事業としていた一方で、養蚕も営んでいました。栄一の産業人としての原点を考えると、幼い頃から農業だけでなく、原料を加工して商品として売る家業を身近に見ていた...