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井の頭恩賜公園:弁財天から森の先へ、初夏の散歩道

本日は東京都武蔵野市の井の頭恩賜公園を歩きました。まだコロナ禍のさなかで、人の多い場所をできるだけ避けながら出かけ先を考えていた時期です。そのため、この日はスクーターで移動しやすく、なおかつ広くて空気の抜ける場所として井の頭恩賜公園を選びました。吉祥寺といえば駅前のにぎわいの印象が強い街ですが、駅から少し歩くだけで、これほど大きな池と深い緑のある風景に出会えるのは、やはり特別なことだと思います。実際に吉祥寺駅方面から公園へ入ると、まず視界がぱっと開け、井の頭池の広がりが目に入ってきました。都市の中にありながら、水面が空を映し、木々がその周囲をゆるやかに囲む景色は、思っていた以上に落ち着いたものでした。

井の頭恩賜公園は、もともと江戸に水を送る神田上水の水源として重要な場所で、1913年に御料地が東京市へ下賜され、1917年に開園しました。日本で最初の恩賜公園であり、郊外型公園の先駆けでもあります。つまりこの公園は、単なる散歩道や行楽地ではなく、江戸の水の歴史と、近代東京の都市計画の歴史が重なり合って生まれた場所でもあります。今では吉祥寺や三鷹の暮らしの中に自然に溶け込んでいますが、その成り立ちを知ると、池や林の見え方も少し変わってきます。のんびりした水辺の景色の奥に、江戸以来の都市の生命線があったのだと思うと、この場所の静けさにも別の重みが感じられました。

池に沿って歩いていくと、井の頭弁財天大盛寺が現れます。水辺の公園の中に寺社がある風景は日本では珍しくありませんが、井の頭ではそれがとても自然に見えました。池と信仰が一体になってこの土地の記憶を支えてきたのだろうと思います。井の頭弁財天は、天慶年間に源経基が弁財天女像を安置したのが始まりと伝えられ、のちには源頼朝が東国平安を祈願して社を建てたともされます。さらに新田義貞の戦勝祈願、徳川家康の来訪、徳川家光による「井の頭」という名の伝承など、この場所には中世から近世へと続くさまざまな物語が折り重なっています。もちろん伝承として語られる部分もありますが、それでもこの一帯が長く特別な水辺として意識されてきたことはよく分かります。公園を歩いていると、つい現在の気持ちよさばかりに目が向きますが、弁財天の前に立つと、この土地がもっと古い信仰や権力や旅人たちの記憶を抱えた場所であることに気づかされました。

さらに、公園の中の樹木が多いエリアを進んでいくと、井の頭自然文化園の前に着きました。このときは入園せず、また次回にしようと思って通り過ぎましたが、園名そのものがこの公園らしいと感じます。井の頭自然文化園は1942年に、「自然界のことがらを総合的に、科学的にとらえる必要がある」という理念のもとで開園しました。当時の「文化」は教養に近い意味を持っており、動物だけでなく、自然と文化をあわせて学ぶ場として構想されていたそうです。単なる動物園ではなく、自然と人間の関わりを静かに考えさせる施設が、この公園の緑の中に置かれていることは、井の頭という場所の性格をよく表しているように思います。今回は通り過ぎただけでしたが、公園を歩く途中にこうした学びの場があることで、散策そのものが少し知的なものへ変わっていく気がしました。次に訪れるなら、池や林だけで満足せず、この自然文化園にも入ってみたいと思わせる十分な雰囲気がありました。

その先にはスポーツ施設のある競技場エリアが広がっていました。井の頭恩賜公園は、水辺の景観や雑木林の静けさだけでなく、身体を動かすための場所も抱えています。東京の公園というと、鑑賞する緑や通り抜ける緑として捉えられがちですが、ここでは散歩、参拝、学習、運動といった人の行動が一つの公園の中に共存しています。その多層性が、井の頭恩賜公園を単なる名所以上の存在にしているのでしょう。コロナ禍の外出では、とにかく人が少ないことばかりを求めてしまいがちでしたが、こうした大きな公園では、人と距離を取りながらも、それぞれの過ごし方が並行して成立していることに安心感がありました。誰かに強く干渉されるわけでもなく、かといって孤立した感じもしない、そのほどよい距離感が当時の自分には心地よかったのだと思います。

そして奥へ進むと、三鷹の森ジブリ美術館が見えてきました。ここまで来ると、公園の散策が少し物語めいてきます。水辺と寺社、自然文化園、競技場を通り抜けた先に、美術館が現れる流れは実に面白く、歩くこと自体が一つの導線としてよくできていると感じました。三鷹の森ジブリ美術館は2001年10月に開館した施設で、2020年11月からは空調設備の改修を含む長期のメンテナンス休館に入り、2021年4月には再開していました。私が訪れた2021年5月末という時期を考えると、見かけた工事や整備の気配は、そうした休館・改修の流れの延長にあったのかもしれません。コロナ禍を利用した工事だったのか、以前から予定されていたものだったのかは外からでは分かりませんが、少なくともあの時期の美術館が、平常どおりではない時間をくぐり抜けた直後にあったことは確かです。そう考えると、いつもの人気施設にも、社会全体の揺れが静かに反映されていたのだと実感します。

この日の井の頭恩賜公園は、にぎやかな観光地を訪れたというより、東京という大都市の中に長く残されてきた水と緑と文化の層を、ゆっくりたどった一日だったように思います。公園としての開放感がありながら、江戸の水源としての歴史があり、弁財天の信仰があり、自然文化園の学びがあり、さらに現代の美術館へとつながっていく。その連なりが一つの散歩の中に収まっているのは、やはり井の頭恩賜公園ならではでしょう。コロナ禍だったからこそ、人込みを避けて来た場所でしたが、結果として、ただ時間をつぶすためではなく、東京の奥行きを感じる散策になりました。次に来るときは、今回入らなかった井の頭自然文化園にも足を運び、また違った角度からこの公園の魅力を見てみたいと思います。

旅程

東京

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井の頭恩賜公園

↓(スクーター)

東京

周辺のスポット

  • 井の頭自然文化園
  • 三鷹の森ジブリ美術館

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