鹿児島県南九州市にある知覧武家屋敷通りを訪れました。
今回、知覧を訪れた一番の目的は、「白いゼロ戦」を探すことでした。知覧特攻平和会館に展示されているという情報を見て訪れたのですが、残念ながら目的の機体は見つかりませんでした。しかし、知覧や指宿周辺を広く観光するために観光タクシーを貸し切っていたので、平和会館だけでなく、飛行場跡に残る戦争遺跡なども巡りました。その後、戦争の記憶が残る場所から少し時代をさかのぼり、江戸時代の面影を残す知覧武家屋敷通りへ向かいました。
江戸時代の薩摩藩では、武士を鹿児島城下だけに集めず、領内各地に「外城」と呼ばれる行政・軍事拠点を置きました。その中心には「麓」と呼ばれる武家集落が形成され、知覧もその一つとして発展しました。現在の武家屋敷群は江戸時代中期に形づくられたとされ、石垣や生垣、武家門が続く町並みは、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。また、地区内の七つの庭園は国の名勝に指定されています。
通りに入って最初に印象に残ったのは、各屋敷の前に続く石垣と生垣でした。石を積み上げた塀の上に木々が隙間なく植えられ、その緑が通りの両側に連なっています。その姿は、どことなく沖縄で見た石垣や屋敷囲いにも似ているように感じました。後で調べると、知覧の庭園や町並みには琉球の庭園と共通する手法が見られ、石垣と大きく刈り込まれた植え込みには琉球や中国の影響があるともいわれています。沖縄に似ていると感じたのも、まったく的外れではなかったようです。
観光タクシーの運転手さんによると、生垣は単なる装飾ではなく、防御の役割も持っていたそうです。硬い石塀だけであれば足場にして乗り越えられる可能性がありますが、枝葉が重なった生垣では、人が乗ると沈み込んだり崩れたりします。また、屋敷側からは枝の隙間を利用して外の様子をうかがい、必要なら攻撃することもできたと説明してもらいました。
屋敷ごとに門の形も異なっていました。屋根が一段だけの門と、下にも小さな屋根を備えた二段構えのような門があり、運転手さんによれば、立派な構えの門を持つ家ほど格式が高かったそうです。見た目の美しさだけでなく、門の造りからも家の立場や家格が表されていたのでしょう。
門をくぐった正面には、石で造られた目隠しが設けられている屋敷もありました。これは「屏風岩」などと呼ばれ、通りから屋敷の内部を見えにくくして生活のプライバシーを守るとともに、侵入者が門から主屋へ直進できないようにする防御設備でもありました。門を突破しても一度左右へ曲がらなければならないため、住む人が対応する時間を稼ぐことができます。
通りに並ぶ庭園は、東京周辺で見る大名庭園のような広大で豪華なものではありません。しかし、限られた敷地の中に石や白砂、刈り込まれた木々を配置し、背後に見える母ヶ岳など知覧周辺の山々を借景として取り込んでいました。庭そのものは小さくても、遠くの山までが景色の一部となるため、実際の面積以上の奥行きが感じられます。
私が旧高城邸だと思っていた水のある庭は、資料を確認すると、国の名勝に指定された七庭園の一つである森重堅邸庭園でした。七庭園のうち池を持つ池泉式庭園はここだけで、残りの六庭園は水を使わない枯山水式です。森重堅邸庭園も池の周囲には細かな砂や石、刈り込まれた植木が配置されており、池泉式と枯山水の趣が溶け合ったように見えました。
東側にある旧高城家住宅は、茅葺屋根と知覧独特の「二ツ家」の構造を残す建物で、水のある庭園とは別の屋敷でした。
戦争遺跡を巡った直後に武家屋敷通りを歩いたことで、知覧には太平洋戦争だけでなく、薩摩藩の統治や武士の暮らしを伝える歴史も残されていることが分かりました。石垣や生垣、門、目隠し、庭園の一つ一つが、美観だけでなく、防御や家格、生活の工夫と結びついています。
派手さはありませんが、整えられた緑の生垣と静かな庭を眺めながら歩いていると、江戸時代の武家町が持っていた緊張感と落ち着きの両方を感じることができました。
一通り見学した後は知覧を離れ、次の目的地である釜蓋神社、正式には射楯兵主神社へ向かいました。
旅程
羽田空港
↓(飛行機)
鹿児島空港
↓(観光タクシー)
↓(徒歩)
ミュージアム知覧
↓(徒歩/観光タクシー)
旧知覧飛行場油脂庫 / 弾薬庫 / 知覧飛行場正門跡 / 給水塔 / 防火水槽 / 特攻機発進の地碑 / 指揮所跡 / 三角兵舎跡 / 掩体壕 / 山砲砲座跡
↓(観光タクシー)
↓(観光タクシー)
↓(観光タクシー)
釜蓋神社(射楯兵主神社)
↓(観光タクシー)
(略)
地域の名物
- かるかん
- 豚骨料理
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