奈良県奈良市にある唐招提寺を訪れました。
このころは新型コロナウイルスの感染が広がり始めたばかりで、京都や奈良では観光客が少なくなっていると聞いていました。今から振り返れば、その後の感染拡大や長期化など、ほとんど想像できていなかった時期です。
この日は朝から観光タクシーを利用して奈良を巡っていました。法隆寺や薬師寺を参拝したあと、運転手さんの案内で唐招提寺へ向かいました。
入口には「世界遺産」と「唐招提寺」の文字が刻まれた石碑が立っていました。唐招提寺は、東大寺や薬師寺、興福寺、平城宮跡などとともに、1998年に「古都奈良の文化財」の構成資産として世界遺産に登録されています。奈良が都であった8世紀の建築や信仰を伝える、古都奈良を代表する寺院の一つです。
唐招提寺は、南都六宗の一つである律宗の総本山です。唐から日本へ渡った鑑真が、東大寺で5年を過ごしたのち、新田部親王の旧宅地を与えられ、天平宝字3年、759年に戒律を学ぶ人々のための道場を開いたことに始まります。当初は「唐律招提」と呼ばれ、鑑真の私寺として出発しました。現在のような伽藍が最初から整っていたわけではなく、弟子たちや朝廷などの支援によって、少しずつ堂宇が建てられていったそうです。
参道を進むと、正面に堂々とした金堂が現れました。横に長く伸びた屋根と、正面に並ぶ太い柱が印象的な建物です。金堂は鑑真の存命中には完成しておらず、その弟子である如宝らの尽力によって、8世紀後半に建立されたと考えられています。奈良時代の建築が現在まで残っていることを思うと、目の前にある建物が急に遠い歴史とつながって見えてきます。
金堂から左手へ進み、戒壇に案内されました。戒壇とは、僧侶になるための戒律を授ける儀式が行われる場所です。唐招提寺の戒壇は創建時に築かれたと伝えられていますが、中世に廃され、その後再興された建物も火災で失われました。現在残る三段の石壇は鎌倉時代のもので、その上の宝塔は1978年にインドのサーンチーにある古塔を模して築かれたものです。
運転手さんから「石壇は古いものですが、上にある塔は近年のものです」と教えてもらった記憶があります。古代から残る部分と、後世に加えられた部分が同じ場所に重なっているところにも、長い年月を生きてきた寺院らしさが感じられました。
境内には桜が咲いていました。満開には少し早かったかもしれませんが、淡い桜色の花が古い堂宇や木々の緑に映え、春らしい景色となっていました。桜を眺めながら境内の東側へ歩いていくと、二階建ての鼓楼が見えてきました。
鼓楼は鎌倉時代の1240年に建てられた国宝です。名前は鼓楼ですが、現在は鑑真が唐から持参したと伝わる仏舎利を納めているため、「舎利殿」とも呼ばれています。金堂や講堂とは異なる縦長の姿が、境内の景観に変化を与えていました。
その後、よく整えられた庭と木立の中を進み、鑑真和上御廟を訪れました。華やかな金堂の周辺とは異なり、御廟の一帯には静かで落ち着いた空気が流れていました。幾度もの渡航失敗を乗り越えて日本へ渡り、戒律を伝えた鑑真が眠る場所だと思うと、自然と厳粛な気持ちになります。
最後に宝蔵を見ました。唐招提寺は建物だけでなく、鑑真がもたらした品々や奈良時代以来の仏像など、多くの文化財を伝えてきた寺院でもあります。境内を歩いているだけでも、寺院そのものが長い歴史を収めた大きな宝物のように感じられました。
後日、境内図を見ながら撮影した写真を確認していると、御影堂をはじめとする北側の建物を見ていなかったことに気づきました。御影堂には国宝の鑑真和上坐像が安置され、東山魁夷が長い歳月をかけて描いた障壁画も収められています。もっとも、御影堂や鑑真和上坐像は通常いつでも拝観できるわけではないため、訪問した日に建物の近くまで行っても内部を見ることはできなかったかもしれません。
観光タクシーでの移動だったため、限られた時間の中で主要な場所を案内してもらったのだと思います。それでも、境内の北側を歩けなかったことには少し心残りがあります。
桜の咲く境内で、奈良時代の金堂や鑑真ゆかりの場所を巡ることができた唐招提寺でした。次に訪れる機会には、今回見られなかった北側の建物も含めて、境内をゆっくり歩いてみたいと思います。
唐招提寺をあとにして、観光タクシーで次の目的地である東大寺へ向かいました。
旅程
(略)
↓(タクシー)
山背大兄王の墓所
↓(タクシー)
↓(タクシー)
薬師寺
↓(タクシー)
↓(タクシー)
平城宮跡歴史公園
↓(タクシー)
↓(タクシー)
↓(タクシー)
興福寺
↓(タクシー)
子規の庭
↓(タクシー)
↓(タクシー)
奈良駅
↓(JR)
京都駅
↓(徒歩)
↓(徒歩)
京都駅
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