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カステレット要塞:赤い兵舎と風車、星形の土塁を歩く

コペンハーゲンの港の風に背中を押されるように歩いて行くと、芝生がなだらかに盛り上がる丘のむこうに赤い兵舎が並ぶ一角に出ました。

地図では見事な五角形に切り取られた場所なのに、地上ではその幾何学はふわりと溶け、静かな散歩道と水堀、整えられた芝生の広がりとして体に触れてきます。

ここが17世紀に築かれた星形要塞カステレットだと意識させるのは、土塁の斜面と角(バスティオン)の“張り出し”が作る独特の地形でした。要塞は五つのバスティオンで五角形を成し、角と角が互いを援護射撃できるように設計されています。死角を消し、横から掃射できる――火砲の時代に最適化された「トレース・イタリエンヌ」と呼ばれる合理の結晶で、地図や空撮で見るとその意図がいっそう鮮やかに見えてきます。



土塁の上に上がると風車が姿を見せました。かつて包囲戦に備えて粉を挽くため、この要塞の土塁には風車が設けられましたが、いま残るのはこの一基だけだそうです。軍の給食用に粉を供給したという逸話も残り、軍事施設でありながら生活の匂いも感じられます。

門をくぐると左右に赤い列状の兵舎が続き、奥に司令官邸や教会、火薬庫などの建物が点在していました。17世紀に王クリスチャン4世がこの地に前哨を置き、スウェーデン軍の包囲(1658–1660)を経て、オランダ人技師ヘンリク・ルーセの手で1660年代に本格的な城塞へと整えられた経緯を思うと、端正な景観の奥にある層の厚さにしばし足が止まります。のちには1807年のコペンハーゲン砲撃でも防衛線の一部を担い、第二次世界大戦初日にはドイツ軍に占領されました。歴史の節目ごとに、この静けさは試されてきたのだと実感します。

門の近くでは銃を携えた兵士の姿も見かけました。観光用の演出か本物か一瞬迷いましたが、ここは今も国防省所管の現役の軍用地で、昼には衛兵交代も行われるとのこと。とはいえ場内は市民に開かれた公園として守られ、芝生の斜面に腰をおろす家族連れや、堀沿いを走るランナーがそれぞれの時間を過ごしていました。物々しさよりも、むしろ優雅で穏やかな空気が支配しているのが印象的でした。

地図の五角形が地上では感じ取りにくいのは、まさにこの要塞の思想ゆえだと気づきます。高くそびえる石壁ではなく、低く厚い土塁と張り出した角が折り重なる構造は、外からの砲撃に強く、互いに側面射撃で援護できる――そういう“機能美”が、今は散歩路と芝生の稜線として都市の風景に溶け込んでいるのです。函館の五稜郭と同じ星形系譜に連なる場所を歩きながら、戦の技術がいつしか人々の憩いへと転じていく時間の流れを、肌で確かめた一日でした。

――帰り際、振り返ると、堀の水面の向こうの建物、そして土塁の稜線が柔らかく重なって見えました。地図上の「要塞」は、現地では「公園」として微笑んでいる。そんな二つの顔を持つ場所だったと、今でもはっきり思い出します。

旅程

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