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恵林寺:春の塩山で訪ねた、武田信玄ゆかりの古刹

山梨県甲州市の恵林寺に行きました。この日は、武田信玄ゆかりの史跡をめぐるために甲府周辺を訪れており、最初の目的地として塩山にある恵林寺を目指しました。

塩山駅に降りると、駅前には武田信玄の像がありました。これから信玄ゆかりの寺へ向かうのだと思うと、駅に着いた時点で少し気分が高まります。恵林寺までは駅から少し距離がありましたが、天気もよかったので徒歩で向かうことにしました。町の空気を感じながら歩いていく時間も、史跡めぐりの楽しみの一つです。

恵林寺に着くと、まず黒く立派な総門が迎えてくれました。

門をくぐって参道を進むと、今度は朱色の四脚門が見えてきます。この四脚門は通称「赤門」とも呼ばれ、現在のものは徳川家康によって1606年に再建されたと伝えられる国の重要文化財です。戦国の終わりから江戸初期へと時代が移っていく空気を、門の色と姿から感じるようでした。

境内には、梅なのか桜なのか、桃色の花が咲いていました。3月の晴れた日だったこともあり、武田氏ゆかりの重厚な寺でありながら、どこかやわらかい春の雰囲気もありました。歴史の舞台として見ると緊張感のある場所ですが、実際に歩いてみると、季節の花や日差しが印象に残る穏やかな場所でもあります。

さらに進むと、黒色で茅葺屋根の三門がありました。恵林寺といえば、武田氏滅亡後の1582年、織田勢による焼き討ちの際、快川紹喜が「心頭滅却すれば火も自ずから涼し」と唱えたと伝えられる逸話でも知られています。現在の三門の場所に立つと、その言葉が単なる格言ではなく、戦国時代の厳しい現実の中で語られたものだったことを感じます。

三門の先には開山堂があり、その右手には三重塔の仏舎利宝塔が立っていました。門、堂、塔と進んでいくうちに、境内の奥へ奥へと導かれていくような感覚があります。恵林寺は、1330年に夢窓国師によって開かれ、のちに武田信玄が菩提寺と定めた臨済宗の古刹です。武田信玄の寺として有名ですが、それ以前から禅の寺として長い歴史を持っているところにも、この寺の奥行きがあります。

本堂には、右手の庫裡から入りました。中には多くの日本間があり、書が書かれた屏風なども置かれていました。外から見たときの寺院建築の印象とはまた違い、内部では静かな日本建築の空間をゆっくり味わうことができます。畳の部屋を歩いていると、武田氏の歴史だけでなく、寺として積み重ねてきた時間そのものに触れているようでした。

庭も印象に残りました。池があり水が流れる庭があり、さらに枯山水の庭もありました。恵林寺の庭園は夢窓国師の作庭と伝えられ、国の名勝にも指定されています。水のある庭と、石や砂によって表現される枯山水の庭を続けて見ると、同じ寺の中でも景色の表情が大きく変わります。春の日差しの中で眺める庭は、戦国武将ゆかりの寺という力強い印象とは違い、静かに心を落ち着かせる空間でした。

本堂内には、武田不動などの見どころもありました。武田不動尊は、信玄の姿を写したと伝えられる不動明王像で、恵林寺が武田信玄の菩提寺であることを強く感じさせる存在です。武将としての信玄だけでなく、禅や信仰と結びついた信玄像が見えてくるようでした。

本堂を出た後は、宝物館にも行きました。3月だったため、入口にはひな壇が飾られており、寺の歴史的な雰囲気の中に季節の行事が加わっていました。重厚な史跡をめぐっているつもりで来ましたが、こうした飾りがあることで、恵林寺が今も地域の中で生きている場所なのだと感じました。

恵林寺は、武田信玄の菩提寺として知られるだけでなく、夢窓国師、快川紹喜、徳川家康による再建など、いくつもの時代が重なった寺でした。黒い総門、朱色の四脚門、茅葺屋根の三門、静かな庭園、本堂内の見どころを一つずつ見ていくと、単なる観光地ではなく、甲斐の歴史を深く刻んだ場所であることが伝わってきます。

恵林寺を後にした後は、北にある放光寺へ向かいました。春の塩山を歩きながら、武田信玄ゆかりの史跡めぐりはまだ始まったばかりだと感じました。

旅程

東京

↓(JR特急あずさ)

塩山駅

↓(徒歩)

恵林寺

↓(徒歩)

西藤木の水車

↓(徒歩)

放光寺

↓(徒歩)

旧高野家住宅 甘草屋敷

↓(徒歩)

塩山駅

↓(JR中央本線)

甲府駅

↓(徒歩)

武田神社

↓(徒歩)

武田信玄公墓所

↓(徒歩)

大泉寺

↓(徒歩)

甲斐善光寺

↓(徒歩)

甲府城跡(舞鶴城公園)

↓(徒歩)

甲府市藤村記念館(旧睦沢学校校舎)

↓(徒歩)

甲府駅

地域の名物

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